第二十五話 「手紙」
同じ第九の舞台でも、指揮者やコーラスのメンバー、オーケストラが変わるとこうも違うのか。
緊張感も、舞台に乗る喜びも、大学の頃とは全く違う。
もちろん、会場も違えば、客層も全く違う。ソリストも本格的な声楽家を招聘している。
自分たち中心で作る第九、大きな輪の中に入って歌う第九。どちらも面白い。
第九が終わり、年が明けると私たちは来年に向けてさらにエンジンをかけ出した。
お互いに矢川ゼミ控え室にノートパソコンを持ち込んでレポート作成を行ったり、USBに原稿を入れて控え室に備え付けのパソコンで作業したりという日が続く。
その頃、矢川研究室に院生としては三人目、そして初めての男子院生が入ることが決まった、ということを聞いた。
一つ下の現役の矢川ゼミ生か。伊東くん……うーん、申し訳ないが、覚えていない。
あまりこの部屋で現役のゼミ生と会うこともない。もし、伊東くんが入ってきてくれたら現役ゼミ生と院生の交流も持てたらいいな。
「美咲、優子が結婚式するって聞いた?」
「へっ? 初耳だよ!」
「そう、ならいいの。優子が美咲にはまだ秘密にしといてくれっていってたから」
「でも、お母さんが言ったら意味なくない?」
「いいのよ。さっき私の携帯に電話があったから。そうね、あと1時間くらいかしら、たぶん優子帰ってくるわよ」
優子お姉ちゃん、久しぶりに帰ってくるんだ。長いこと会ってない気がするな。忙しいだろうに、わざわざ帰って来る用って何だろう?
そして、本当に一時間後。
「ただいまー、久しぶり、美咲、お母さん」と言いながら優子お姉ちゃんが帰ってきた。一人だ。
「おかえり、優子お姉ちゃん。久しぶり! 今日は一人?」
「うん、圭太は当直だから」
「ご飯は?」
「まだ……」
「久しぶりにみんなで食べましょう。せっかく帰ってきたんだし、今日は泊まっていくんでしょ?」
「うん、そのつもりで来た。明日休みだから、当直明けの圭太と合流するつもり」
「衣装合わせするんでしょ」
「えっ!」
もうそんな段階に来ていたのか。驚いた。
「ふふっ。びっくりしたでしょ、美咲。私たちもうまいこと休みを合わせて打ち合わせを重ねてきたのよ」
「うん、びっくりした」
それしか言えなかった。
「で、美咲にお願いしたいことがあるの」
「私に?」
「そう、美咲に。お色直しを2回予定してるんだけど、その退場する時に手を取って欲しいの」
「お母さんは?」
「私は一回目でやるのよ、それ。花嫁の身内の、花嫁が特に思い入れのある女性がやる役割らしいのね。美咲、引き受けてくれる?」
「分かった、やるよ、お姉ちゃん」
「ありがとう、美咲。ついでだけど明日時間ある?」
「衣装合わせに?」
「圭太にも見てもらうけれど、お母さんと美咲にも見てもらいたいと思って。やっぱり同性の声も聞きたいと思って」
「明日は特に何もないけど……学校には行く予定があるから、あんまり遅くはなれないかな」
「美咲も毎日学校で根詰めてるからね」
「発表は来年でしょ? 今から根詰め過ぎると倒れるわよ。根詰めるのもほどほどにね」
翌日。私たちはお姉ちゃんが結婚式を挙げるというホテルの衣装室にいた。
当直明けの圭太さんも眠そうな顔もせずに優子お姉ちゃんのドレス選びに付き合っている。
私は夕方から学校に行こうと思っていたため、それまでは優子お姉ちゃんに付き合うつもりでいた。
しかし、ドレスというものは衣装室にあるだけでも、その中の白いドレスだけでもものすごい量がある。
優子お姉ちゃんはあれでもないこれでもないと言いながら、ようやく納得のいく白とピンクのふわりと広がった形のドレスを選んだ。
すでに和装の方は選んであるらしく、これで衣装は決まった、と二人で顔を見合わせている。
二人はそのまま病院へ戻るそうだ。私も学校へ向かうことにした。
私の携帯には優子お姉ちゃんの試着したドレス姿の写真が残っていた。
私も、こんな感じで衣装選びとかするのかな……?
それからしばらくたち、一緒に住んでいないと結婚式のことも忘れてしまいそうになるくらいの頃。
携帯をぱたりと閉じたお母さんが「優子たちが、招待状を持って今から来るそうよ」
と夕食後のお父さんと私に向かって告げた。
いよいよ、日取りも正式に決まったんだ。
もう年明けはとっくに過ぎ、春の気配の方が近い頃だ。このペースで行くと4月か5月ごろの式だろうか。
およそ一時間。お父さんは相変わらずそわそわしている。今は、どうあがいても渉はここにいない。
一対一で、娘の結婚相手と向かい合わなくてはいけない時なのだ。
「ただいまー」
「お邪魔いたします」
「おかえりなさい。お仕事、疲れたでしょ」
「うん、でも今はそれよりもやることがあるから」
私はお母さんと一緒にお茶の準備をする。その間に応接間に二人は通されているようだ。
ご飯は食べて来た、とのことなのでお茶菓子程度を用意する。二人とも明日はまた仕事なのでアルコールは厳禁だ。
「私たちの挙式・披露宴の日取りが決まりました。お父さん、お母さんにも、うちの両親にも予定を伺い、極力それに沿う形とさせていただきました。ぜひ、ご出席のほど、よろしくお願いいたします」
二人して深々と頭を下げる。優子お姉ちゃんも、圭太さんの家でこんな風に頭を下げてきたのか、これから下げて来るんだろうか……。
「二人とも、頭を上げて。この日が来るのを、本当に楽しみにしていたよ。優子が本当に自分の選んだ人と一緒になるのだったら、私たちは何処へでも、喜んでお祝いに行かせてもらいます。招待状、確かに受け取りました。ありがとう」
お父さんは最後は圭太さんと握手をしていた。その場の空気が一気に和んだ。
「で、式はいつなの?」
「三月の二十八日、日曜日」
「日曜ならお父さんも美咲も問題ないんじゃない?」
「年度末か……」
「あ……すみません……異動とか、あられるんですよね……」
「大丈夫だ。異動があっても、娘と息子の晴れの舞台だ。平日ならまだしも、休ませてもらう」
「私も、その時期なら一日くらいはいなくてもばれないと思う」
「ありがとう、美咲」
招待状の返送先は全て自分たちのマンションにした、と優子お姉ちゃんたちは言っていた。
確かに、すでに二人は実際に一緒に生活しているし、うちのようにポストがないと郵便局に確認しに行く手間が増える。まあ、それは全て私の仕事だが。
そして、優子お姉ちゃんが一番気にしていたのは「渉、招待状送っても大丈夫かな?」ということだった。
医学部六年生になるこの時期の忙しさは、同じ時期を経験した自分が一番わかるはずだ。私も学生生活六年目だが、六年目の意味合いが全く違う。
ものすごく忙しいのは重々承知の上、でも小さい頃から一緒にいた弟のような存在の渉を招待しないのは心苦しい……そんな板挟み状態の優子お姉ちゃんを救ったのは、他でもない渉本人だった。
「優子お姉ちゃん、結婚式するんだろ。お袋から聞いた」渉からの電話だ。
「うん、三月の終わりだけど……」
「二次会とかないのか? たぶん、式とか披露宴には出れないと思う。悔しいけどな。でも、二次会ぐらいだったら顔を出せそうだと思うんだ。せっかくの結婚式、俺も優子お姉ちゃんのドレス姿見たいし、圭太さんがどんな格好してるかも見たいし、そして何より俺らの参考にもなるんじゃないかと思ってな」
「え……そ、そう……」
「俺らが全く優子お姉ちゃん達と同じような方法の式を挙げるとは限らないけど、区切りとして式は挙げたいと思うし。俺ら物心着いた時からずっと一緒にいたからな。それに何より美咲は色々あり過ぎた。綺麗なドレス姿なり白無垢姿を家族や友達に見せてあげるのも、親孝行、友達孝行ってやつじゃないのか?」
「う…うん……」
相変わらずこの手の話には慣れない。顔が赤くなる。
「まあ、とにかく俺が国試に受かって大学を卒業することが大前提だからな。とりあえず、優子お姉ちゃんに二次会の話、聞いて見てくれないか? 二次会からなら、喜んで俺も参加したいって言ってたって」
「分かった、優子お姉ちゃんに伝えとく」
「うーん、そういえばそうね、二次会も考えてはいるけど、先生とか教授とかが中心だと思ってたから……」
「じゃあ、うちでもう一つ二次会してようか?」
会場は大学病院の近くなので、どちらかと言うとうちの近くだ。
「お父さんとお母さんと、私と渉で。あ、おじさんおばさんも呼んでるっけ?」
「うん、憲おじさんと佐知子おばさん。雄太くんは招待状出したけど、もう大学の方に行くからって欠席の返事が来た。結構遠くの大学に合格したんだって」
「圭太さんの方は?」
「結構遠方から親戚が来るから、式が終わったらすぐ帰るみたい」
「うーん、渉が参加するなら、どっちがいいんだろうね」
「うちで親族だけの会に混ざるのも面白くないかも。まず、うちで何かするとも限らないしね」
「じゃあ、美咲、こっちの会に参加して、渉が参加しやすいようにしてくれる? もともと渉も医学生なんだし、もしかしたら話が合うかも」
「私、何話したらいいかわからない……」
「話題とか話し相手に困ったら会場を抜け出してもいいから。お父さんとお母さんにも事情を説明しとくよ」
「分かった」
「そうか、二次会は同僚の先生とか教授の先生中心か……」
「渉なら医学生だから話が合うかもって言ってたけど」
「うーん、確かにそうかもしれないけど、それだと美咲が話すことがないだろう?」
「そうなんだよね……」
「分かった。二次会には参加するけど、美咲を一人にしないようにするよ。ああいう場で一人になるって辛いだろうからな」
「ありがとう、渉」
そうして、桜の便りがあちこちで聞かれるようになって来た、三月の二十八日。
優子お姉ちゃんたちの大学病院の近くのホテルで挙式と披露宴が行われた。
チャペルを備えた結婚式向けのホテルで、ステンドグラスなども本格的だ。
優子お姉ちゃんのお下がりの、思い出の振袖を身につけて挙式に参列した。
お父さんと一緒にドレスを来た優子お姉ちゃんが入場して来たり、ベールを圭太さんが上げたり、お互いに誓い合ってその証のキスをしたり、指輪交換をしたり……この辺りは聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだ。勉強になる。
でも、何だろう……違和感を感じる。本当の教会で式をしているわけじゃないからだろうか。
どうせやるなら、できるなら、本格的な場所でやりたい、そう感じる式でもあった。
そして、お約束のブーケトス。
チャペルの外には挙式には参加しない、披露宴に招待されたゲストがたくさんいるようだ。
フラワーシャワーを浴びながら、三、二、一で空高く優子お姉ちゃんは空高くブーケを投げ上げた。
どこかでどよめきが起きている。誰かがブーケをキャッチしたのだろう。
披露宴も流石に大人数が招待された会なだけあって、賑やかなものとなった。
私たち家族はお酒を勧めたり、飲まない人にはソフトドリンクを勧めたり、カメラのシャッター押しを買ってでたりと、裏方へ徹した。
受付は優子お姉ちゃんの友達がやってくれたそうで、お母さんがご祝儀をまとめて預かっていた。
「料理ってこんなに出るんだ……」
振袖という格好なため、出されたものを全部食べようにも帯が苦しくてなかなか自由がきかない。
結婚式場で残飯が多いという話をふと思い出してしまった。
そうしているうちに、お母さんとともに一度目のお色直しをしに優子お姉ちゃんが退席して行った。
ふむふむ、あんな感じで誘導して行けばいいのね。自分に任された重役を再認識しながら料理と格闘した。
優子お姉ちゃんは二度目はピンクのドレスで現れた。圭太さんはグレーのタキシードに着替えている。
会場は着替えた優子お姉ちゃん達と写真を撮りたい人で溢れていた。
みんなお医者さんなんだな、と思っていたその時。
「真理先生!」
「美咲ちゃん!」
「お久しぶりです」
「こちらこそ。美咲ちゃんは大学院生してるの?」
「はい、おかげさまで。真理先生は……?」
「今年の春法科大学院を修了しました。5月に試験があるから、まずはそれの合格が目標ね」
「おめでとうございます。そして、がんばってください」
「優子が結婚したことは知ってたけど、きちんと祝える機会がなかったから、今回参加できてよかったわ。そして、美咲ちゃんにも会えてよかった」
「私もです」
「今日は、ええと、大谷くんは? 優子が弟みたいに可愛がってたのに」
「医学部六年生手前で、忙しくて、式と披露宴には参加できないけれど、二次会から参加するそうです」
「そうなの! 私も二次会参加するんだけど、周りがお医者様ばかりでちょっと緊張してるのよね……」
「私もです……渉と一緒に参加してくれって言われてるんですけど、私、浮いちゃいそうで」
「よかったー! 知ってる人がいるだけでも、安心できるわ」
私もちょっと安心できた。その時だった。
「新郎新婦が二度目のお色直しに入られます。今回は新婦の妹様、中村美咲様にご誘導のほどをお願いしております。では、お願いいたします」
というアナウンスが入り、私のところにスポットライトが当たった。
突然のことで驚いたが、自分の役割を真理先生に会ったことですっかり忘れてしまっていた。
高砂からおりて来る優子お姉ちゃんの手を取り、会場をゆっくりと一周して退場して行く。
たったそれだけだが、すごく緊張した。
次の二人のお色直しは和装だった。
そこでの一番のイベントはいわゆる「新婦からの両親への手紙」というものであるらしい。
優子お姉ちゃんもきちんと準備して来ているようだった。
辺りが暗くなり、マイクの前の優子お姉ちゃんと前に呼ばれたお父さんとお母さんにライトが当たっている。
手紙が読み上げられ、会場全体が感動に包まれて行く。
その時、自分が予想していなかったことが起こる。
優子お姉ちゃんはもう一つ手紙を準備していて、「大切な妹、美咲へ」と読み上げ出したのだ。
「え?」
耳を疑わざるを得なかった。今、自分の名前が呼ばれたよね? 妹って言われたよね?
それと同時に、そばにいる会場の人に前にいるお父さんとお母さんのそばに行くように促された。
「美咲へ
あなたは体が弱かったり、色々なアクシデントに見舞われたりしてすごく心配していました。でもその度に、強い精神力で立ち上がる姿は私にも大きな力を与えてくれました。あなたは本当に自分の夢に向かって、人とはちょっと違った方法だったかもしれないけれど、それを信じて突き進んでる。そんなあなたの姉で、私は本当に嬉しいし、誇りでもあります。私はいつまでも美咲の夢を応援し続けてるし、あなたの幸せを願い続けています。今日この場に参加できなかった幼なじみの渉と一緒に、自分の納得の行く、幸せな人生を歩んで行ってください。私をあなたのお姉ちゃんでいさせてくれて、本当にありがとう。
優子」
じーんときた。
まさか、私にまで手紙が用意されていると思っていなかった。
驚きのまま、花束贈呈が行われ、披露宴は一本締めをもって終了した。
二次会は会場を移し、二時間後に開始される。
「美咲」
「はい……って優子お姉ちゃん?」
「はい、これ」
渡されたのは今回使われたウエディングドールだった。
「ブーケを美咲に渡そうかとも考えたんだけど、まだ独身の先生も多いしね。和装のドール、結婚した時にもらったやつ。大切に飾ってるわよ。これは私たちから。ブーケの代わりと思って、受け取って」
「ありがとう、お姉ちゃん……」
「渉が来るの、待ってるわよ」
そして二次会開始時刻。渉は時間ちょうどに会場に現れた。スーツを来ているのは成人式以来か。
「渉、間に合ったね」
「ああ、よかったよ、間に合って」
「真理先生がいたよ」
「ええと、もう弁護士の先生だっけ?」
「まだ司法試験前だから弁護士の卵かな」
「そうなのか、でも知り合いがいると安心だな」
「うん、ホッとした」
そして、一緒に会場に入って行く。
「あ、来た来た。大谷くん、久しぶり」
「お久しぶりです、花田先生」
「もうすぐお医者様なのね、あの頃はまだ高校生だったのに。時が経つのは早いわ」
「花田先生も、弁護士になられるんですよね?」
「それは試験に合格して、その後の話よ。まだまだ先」
渉と真理先生が会うのも久しぶりだ。話すこともたくさんあるだろう。
そうしているうちに、優子お姉ちゃんの同僚の先生たちが主催する二次会が始まった。
渉は医学生ということもあり、たまに優子お姉ちゃんの同僚と思われる先生方と話していたが、ほとんど私と真理先生と一緒にいてくれた。
「綺麗だな、優子お姉ちゃん」
「そうだね」
「美咲にはどんなドレスが似合うだろうか?」
「美咲ちゃんは白無垢も色打掛も似合いそうね」
渉と真理先生の二人で勝手にドレス選びされている。
私は苦笑いするしかなかった。
渉は別に用意されていた引き出物を持ち、久しぶりにうちに来ている。
今日は自宅へ帰り、明日また学校へ戻るそうだ。
おじさんたちはずいぶん前に帰ったとのことだ。
「渉くん、忙しい時にわざわざ来ていただいてありがとうね」お母さんがお茶とお菓子を出しながら言う。
「いいえ、大丈夫です。優子お姉ちゃんの結婚式から出席したかったですけど、すみません」
「いいのよ。優子も来てくれて嬉しかったって言ってたわ」
「花嫁姿、花婿姿、見られてよかったです。こちらこそ、ありがとうございました」
優子お姉ちゃんの結婚式から数日後。
大学院二年目の、四月がやって来る。




