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桜小路茶話  作者: 望月 明依子
第四章 「華」
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第二十四話「ホットココアの誓い」



初めて第九を歌う会の練習に参加したのは、その週の土曜の午後だった。

すでに初回練習でパートが分かれているため、私はソプラノパートの練習会場に来ればいいとのことだった。

私はそこで、懐かしい人を見かけた。

中学校の合唱部に、外部から指導をしに来てくれていた方だった。お年は召していたが、声は確かに綺麗だった。

その方がソプラノパートにいらっしゃったのだ。あの頃を思い出す。

その頃の同級生は皆どうしているだろうか。数人は同じ杉谷高校に進学したが、私が御勢学園附属高に転校してしまったため、そこで接点が途切れてしまった。

見渡してみるが、この会場で私と同じ歳ぐらいの参加者はいないようだ。

たまたま隣に座った方と話をしてみると、何と隣街からこの練習に参加するためにやってきているのだそうだ。

そういえば、「第九 演奏会」で検索してみるともっと大規模なものも行われているようだ。流石にそれに参加できる余裕もなければ、その練習会場まで往復するのも大変な場所で行われているようだ。

これからしばらくは毎週末、このような形でパート練習が行われる。

二年ぶりではあるが、やはり歌うのは楽しい。



「葵、学会の交通手段とかホテルとかどうするかって矢川先生から聞いた?」

「うん、美咲と話し合って決めなさいって。来年だったら発表者だから旅費申請できるけど、今年は厳しいから自腹にはなるだろうけどって言われたけどね」

「それなんだよね。わざわざ隣街で、ホテル取る必要あるかね?」

「自腹でも、一分でも、矢川先生と一緒にいれるなら、それがいいのが本音だけどね、学会は遊びじゃないんだし」

「じゃ、葵、矢川先生と同室取っちゃえば?」

「それやっちゃダメでしょ。みんなに秘密にしてるのに。お互いの立場を危機に晒す訳にはいかないのよ」

「ごめんごめん、それは分かってるよ。でも、やっぱり少しでも長く一緒にいたい?」

「うん……やっぱり……」

「分かった、葵、ホテル取ろう。その代わり、葵、私と同室でお願いね!」

「うん……まあ、そのつもりだけど」

「ありがと。私、寝てるときに誰かの監視がないと危険なの」

「私、グースカ寝てても平気?」

「うん、とりあえず私がいきなり倒れたりしないように見ててくれたら大丈夫」

「美咲、倒れちゃうの?」

「その可能性があるからなの」

「美咲、お酒も一滴も飲まないもんね。ワケあり?」

「うん、まあね」

「分かった。私が美咲を守るわ。美咲が私たちの秘密を守ってくれてるようにね」

「ありがとう、葵」

ということで、隣街でありながら私たちは学会のホテルを取ることにした。

「葵にホテルの交渉は任せる、ていうより、矢川先生と同じホテル取りたいでしょ?」

「うん……まあ」

「なら、矢川先生にそう伝えて。私は葵と同じ部屋だったらどこでもいいからって。交通手段も葵と矢川先生の交渉に全権委任します」

「分かった。ありがとう、美咲」

「任せたわよ、葵」



その日の夜、葵から連絡があった。

「ホテルとれたよ。矢川先生の取ってるホテルにまだツインの空きがあったから、予約しといた。隣街だし、とりあえず電車でいいでしょ?」

「ありがとう、全然問題ないよ。さすが葵、行動が早い!」

「本気出したらこんなもんよ」

学会まで約二ヶ月半。来年だったらもう発表内容を形作っておかないといけない時期だ。

また、戦いが始まる。



夏休みが終わると、来年の学会を意識しながら研究を進めていくようにアドバイスを受けた。

「来年の学会では、修士論文の概要を発表してもらいたいと思っています。概要を発表するということは、もう大まかなところは出来上がっていて、それを他の研究されている先生方に見ていただき、アドバイスを受ける段階です。そのあたりも頭に入れておいてくださいね」

となると、ずいぶん研究や執筆のスピードを上げていけないとならない。まあ、大学院生がやることはそれが第一なのだが。

とはいえ、他の院生は企業研究している子もいるようだった。2年生になったら就職活動だったり、公務員試験を受験したりする子もいるのだろうか。

私も研究の間に博士課程の入学試験対策を行わなくてはならない。今のところ、このままここで研究を続けることを希望している。

御勢学園大学の大学院博士課程の入学試験は修士課程二年生の冬。まさに修士論文審査と同時期に行われるのだ。

もしかすると、学会が終わった後卒論を出したら内部進学の結果待ちだった高校三年生の時よりハードかもしれない。

でも、それが自分の決めた目標なのだ。



暑さがひと段落し、秋の空気を感じるようになってきても、第九のパート練習は続いていた。

本番は十二月の半ば。大学の演奏会よりは少し遅い。

十月ごろから全パート合同練習が始まるらしい。十一月ごろから十二月ごろが一番忙しくなるのだろうか。ちょうどその頃、こっちも忙しくなるんだけどな……

まあ、仕方が無い。私の本分は研究だ。練習と学会関係が重なることがあったら学会が優先だ。来年は第九参加厳しいかな……。

やはり年代が離れている人たちが多かったり、すでにその中で輪ができていたりするとその中に入って行きにくい。

練習に来て、そのまま帰る。味気ないが、仕方が無い。



カレンダーはもう十月。今は矢川研究室でのゼミの時間。

「中村さんには、そうですね、ページめくりをお願いしたいと思います」

矢川先生に告げられた学会の手伝いとは、プレゼンテーションソフトのページめくり係だった。

「上野原さんは、そうですね、資料配布やその他の支援をお願いしたいと思います」

「来年は、二人とも発表に関することは全部自分で手配してもらいます。もちろん、上野原さんのページめくりの手伝いを中村さんに頼むというのも可能ですし、自分でやった方がいいと思うならば自分でやってもいいのですよ。それを感じてもらうために、実際に私の発表のお手伝いをお願いしているのです」

もう、学会まで後一ヶ月だ。話を聞いてからあっという間だった。

「資料配布以外って、どういうことやればいいんですか?」

「うーん、資料って意外と行き渡らないんですよ。遅れて来られる方がいたり、一番後ろまで回らなかったり。自己責任で取りにいくようにしてもいいんですけどね。なんでしたら、上野原さん、ページめくりされますか?」

「私、高校生の時にページめくりは経験あるから、葵、やってみたら?」

「うん、やってみたい」

「じゃあ、中村さんと上野原さんの役割を交代しますね。中村さんは資料配布や発表の手伝いをお願いしますね」

「わかりました」

「まだ発表用の最終原稿ができていないので、できたらゼミの時間にまたページめくりなどの打ち合わせをしましょう」

いよいよ、学会モードだ。



「へえ、また学会行くのか、美咲たちは」渉と電話で話をする。

「うん、来年のための勉強にね」

「来年?」

「来年は発表するんだって、自分一人で」

「すごいな、美咲、まさに研究者じゃん!」

「でも一人で発表って、緊張する……」

「今年いきなりじゃないんだろ? しかも美咲は一度分野は違っても発表の経験があるんだから、それはすごく強みになると思うぞ」

「それ、一人じゃなかったし……」

「教授の先生ができると思ったから、美咲たちにそう言ったんだろう。できないことを無理に言うことはないはずだ。美咲はできる子だ、自信を持っていい」

「渉も、学会で発表したりすることもあるの?」

「まだないな。ただ、このままここに残ることになったら、発表することもあるかもしれないな。俺のいる世界も、学会やら発表やらであふれてるから。それよりも実習、勉強だな、今は」

「ごめんね、忙しい時に」

「いや、ちょうどよかったよ。ありがとうな、美咲」



矢川先生から最終原稿をもらったのはそれから二週間ぐらいした頃だった。あと学会まで二週間だ。

ページめくりなら確かにめくるタイミングを練習しておく必要があるが、私の今回の役割は全体にきちんと資料が行き渡っているかのチェックや機材の準備くらいだろう。それも高校の時に経験済みだ。

葵はページめくりのタイミングなるものを矢川先生に教わっている。ソフト自体を使い慣れていないようなので、来年の自分の発表で使えるように指導してもらっているようだ。

やはり、ここで役割を交代しておいて正解だった。全ては来年のためなのだ。


ゼミ終了後。矢川ゼミ控え室で、葵と二人で二週間後に迫った学会の打ち合わせを行う。

「矢川先生の発表は二日目だって。だから、先生も学会の日数だけしかホテル取ってないみたい。私たちももちろんそう」

「隣街だしね。わざわざ前入りする必要もないし、長くいる必要もないしね」

「ページめくりって、なかなか難しいね……」

「私は、三人での発表で交代でやらされたからね。緊張したよ」

「うわー、そういう話聞くと、今から緊張しそう」

「でも、大好きな矢川先生との共同作業じゃん。私は資料を持ってそっと見つめてるよ」

「何かあったら駆けつけるのが美咲の役割でしょ、何かあったら助けてよー」

この段階からすでに葵は緊張しているようだった。



二週間なんてあっという間だった。正式な発表者でもないし、名刺も用意していなかった。むしろ、匠があの時名刺の話をしてくれなければあの時も名刺を持っていかなかったかもしれない。

来年はきちんと名刺準備していかないとな、と思いつつ会場へと向かった。葵とは駅で落ち合い、一緒に向かう。

「忘れ物ない? 薬持ってる?」お母さんが心配そうに言う。

「大丈夫、日数分に少し余計に持って行ってるよ」

「先生に、お友達に迷惑かけないようにね」

「はーい。行って来ます」

二泊三日の出張。といえば格好がいいだろうが、私の様子からは全く想像がつかない。

自分が発表するわけではないから、極端に緊張しているわけでもないし、行き先が隣街なのだ。

葵とともに電車に乗り、会場近くのホテルのフロントへ荷物を預け、学会会場へと向かった。

久しぶり、と言うよりこの分野の学会は初めてだ。教育学の学会は連れられて来たが、法学系の学会とはこんな感じなのか。

矢川先生を見つけ、一緒に受付をしてプログラムをもらう。

初日は特に何もなく過ぎて行った。むしろ、ああ、こんな感じなんだな、この世界の発表って、と感じるのが精一杯と言った方がいいのか。

問題は明日だ。きちんと矢川先生の発表を成功させることができるか。私もなんだか緊張して来た。

近場で夕食を食べた後、葵とホテルに戻ると、疲れが出たのか眠くなってしまった。

「美咲、寝ちゃうの?」

「うん、ごめん、眠くなっちゃった」

「なんかあったら、すぐに私でも誰でもいいから助け求めるんだよ!」という葵の声を夢うつつに聞いていた。


翌朝。

ホテルの朝食を食べながら、昨夜さっさと眠ってしまったことを葵に詫びた。

「美咲が倒れるかもとか昔言ってたから、ちょっとびびった。でも、そのまましばらく何もなく眠ってたから安心したよ」

「もしかして、ずっと私のこと見ててくれたとか?」

「今日の打ち合わせもしないといけなかったし、シャワーも浴びたかったからね。でも美咲のことも心配だったから、私たちの部屋で打ち合わせした。もちろんそれだけだよ!」

「はいはい、分かってますよ。ありがとう、余計な気使わせちゃって、ごめんね。そっか、昨日シャワーも浴びないで寝ちゃったんだった……」

「まだ時間あるよ、ご飯食べたらシャワー浴びて来たら?」

「うん、そうする」

私は部屋に戻り、シャワーを浴びた。


二日目。とうとう矢川先生の発表だ。

そして、葵も学会デビューとなる。

横から見ていても、葵も私以上に緊張しているのがわかる。

「あっ!」いいことを思いついた。

自動販売機を急いで探す。あるかな、ホットココア。

あった。二本買って、急いで発表会場へ戻る。

「葵」私は葵にホットココアを手渡した。

「美咲……」

「昔、私がこんな状態で緊張してる時に、友達がこれを買ってきてくれたの。少しでも葵の緊張が解ければと思って」

「ありがとう、美咲。ああ、あったかい……」

緊張と寒さで葵の指先はすっかりかじかんでいるようだった。

「もう発表始まるよ、終わったらゆっくり飲ませてもらうね。はい、資料」

そうして私は資料を受け取り、資料配布や機材準備などの手伝いを開始した。


発表時間はみんな均等なはずだが、すごく短く感じた。

余った資料の撤収や機材の片付けを終わらせると、葵がさっきのココアを持って、「美咲、お疲れ様。一緒にココア飲も」と言って来た。

「ページめくり、どうだった?」

「何度も練習したのに、やっぱり本番になると緊張するもんだねえ」

「来年はどうしようかね」

「来年は一人でこの場に立つんだよね……」

二人の間に再び緊張が走る。

「また、一緒にココア飲もう。あったかくても、冷たくてもいいからさ」

「多分この時期だとは思うけど」

「じゃあ、あったかいココアかな」

「お互い、手伝えるところがあったら、手伝うってことにする?」

「うん、ページめくりくらいなら、手伝えるかな」


矢川先生の発表が終わったら、その日も他の先生方の発表を聴く程度だ。

少し慣れてきた。来年は、このレベルの発表が求められるのか……。

明日の午後、来年の日程と会場が決まるという。また、新人賞とかが発表されるのだろうか。



その日の夜は矢川先生がお勧めのお店に連れて行ってくれた。

私はお酒を飲めないので、もっぱら葵と矢川先生が2人で飲み、私がソフトドリンクを飲みつつ監視している感じだ。

もちろん、学会中ということもあるため二人とも羽目を外すほど飲むということはしない。

ただ、二人の関係が関係なだけに、場合によっては二人を強制的にホテルに連れて帰る必要があるかな、とも考えていた。

およそ二時間、二人は問題行動を起こすことなくその場はお開きとなった。

ホテルに戻ると、軽く酔っ払った葵に付き合っていつものような話が始まる。今日は私もそんなに眠たくない。

「美咲、ソフトドリンクだけで良く私たちに付き合えるねー」

「もう慣れっこだもん、アルコール抜きなのは。ずいぶん慣れた様子だったけど、もしかして、よく二人で飲みに行ったりするの?」

「いや、一緒に飲んだのは初めて。ご飯なら何度か一緒に食べに行ったことあるけど」

「よくバレないね!」

「絶対バレないように、かなり遠くまでいってるよ。もちろん、これも秘密ね」

「分かってるよ」

「美咲たち、どのくらいの間隔で会ってるの?」

「最後に会ったのいつだろう……去年の冬かな?」

「そんなに会えなくて、不安にならない?」

「まめに電話とかはしてるけど、やっぱり不安にはなるよ」

「今、そんなに矢川先生に会えなくなったら、私不安で胸が張り裂けそう……」

「今は信じるしかないんだよね……」

「強いね、美咲。なんてったって、初彼だし、いつも近くにいるから、突然離れるなんて考えられない」

「だって、お互いに目標があるんだもん。お互いそれの邪魔をできないよ」

葵とは最近は腐女子トークよりも恋する女の子トークの方が多くなってきた。

「お互い、うまく行くといいね……」

「うん……」

「葵、眠い?」

「うん……眠くなってきた……」

さっきまで話していた葵の方がウトウトし出した。私は葵に布団をかけてやる。

「おやすみ……」

「おやすみ、葵」


朝起きると、すでに葵は起きていて、「おはよう、美咲。朝風呂でさっぱりしてきたー」とスッキリした顔をしている。

葵は寝起きは素晴らしくいいようだ。二日酔いの様子もない。

私も慌てて支度をして、ご飯を食べに行き、チェックアウトして学会最終日の会場へと向かった。

最終日の発表を聞いた後、やはり講評と表彰式のようなものが行われるようだ。

そして最後に、来年の学会は今年と同じ十一月に、京都で行われることに決まった。

「京都……」

桜小路先生のふるさと、そしていまだにそこにいると連絡を受けている原香奈子……

複雑な気持ちになる場所ではあるが、仕事なのだ。やらなければならない。



学会が終わると、もう第九の本番が目の前に迫ってきている。

やはりチケットノルマもついてきた。もうこれは仕方のないことだろう。

十二月に入ると土日が丸々練習で潰れたりもする。それは身体にも堪えた。

ただ、あのオーケストラと舞台で歌う楽しみをまた味わいたい。そのためだけに私はがんばっていた。


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