第六話 「陽子」
これは、まだ私の生活がめまぐるしく変わる前の話……
「美咲! あの話本当なの?」
陽子がどこから聞きつけてきたのか、突然私に話しかけてきた。
「あの話って……?」
出来るだけ冷静を装ったつもりだった。
「御勢学園大附属高に本当に転入するの?」
「まだ……まだ分からない」
「美咲ぐらいできる子なら、絶対いけるって!」
「誰から聞いたの?」
「風の噂」
陽子はふふーんと笑ってそれ以上答えようとしなかった。
本当は、陽子には、知らせるならば最後に知らせたかったし、一番知られたくない事実だった。
自分が不利益をこうむってまで私を助けてくれた命の恩人。そんな陽子に何も返してあげられないままの自分の決断、それだけが歯がゆかった。
放課後。
「美咲、帰ろ」
午後、早い時間に水泳部も練習があるとわかっている時は陽子と帰る。
陽子は中学校までは女子バスケットボール部だったそうだが、足を痛めたため、もう高校ではバスケはいいや、と言っていた。
今は図書部に所属して、司書の先生の手伝いをしたりしているようだ。
「今日もさっさと大谷くん出て行っちゃったもんねー」
「大会近いから練習キツイみたいよ」
「大会前ってキツイよねー」
「文化系もキツかったよ。すっごく先生怖くて、あたし毎日泣いてたんだよ」
「あはは、美咲らしい」
そんな、何とない会話をしてたその時だった。
ピーンポーンパーンポーン 校内放送の呼び出しチャイムだ。
「一年七組の 中村美咲さん、一年七組の中村美咲さん、職員室の陣内のところまで来て下さい。繰り返します……」
クラス中の視線がこちらに向かう。
「ご、ごめん、先帰ってて! あの先生話長いし」
「行っておいでよ、数学の小テストの話で十秒で終わるかもよ」
「わかった」
職員室へ入ると、とんでもない光景が待ち構えていた。
「お母さん……」
「どうしても、私と学年主任の大久保先生から話が聞きたいそうだ。あなたももう一度、納得が行くまで話を聞いてみなさい」
学年主任が言うにはこういうことだった。
「この学校は、こう言うのもなんですけれども、言わずと知れた進学校です。
ここに、社会科のみとはいえ、成績トップで入学できたというのは、他の私立高校でいえば、特別進学コース以上です。確か、美咲さんは、私立は特進での合格だったとお聞きしました。しかし、入試以降も社会科は学年はおろか、全国でもトップレベル。これは、もしかしたら、と思ったのです。
バランスよりも、得意や興味を伸ばし、系列の御勢学園大学への内部進学も、他の大学への進学への対応も可能な御勢学園大教育学部附属高校で、さらに美咲さんの才能を生かしていけるのではないかと。
私も、お父さんと同じ、一県立高校の教員です。県立高校の生徒を私立高校に転学させるというのは追い出しのように思われるかもしれません。未来の合格実績を逃す形になるかもしれません。学年担任会議、職員会議でも何度も検討いたしました。
もちろん、転学を最終的に判断は本人とご家族です。
当然ですが、美咲さんがここに残るとおっしゃるのであれば、私たちはこれまで通りの学習指導、生徒指導、進路指導をいたします。
お体のことがご心配のことと思われるようですが、養護教諭との連携も綿密にとってあります」
「美咲が、あんな形で倒れたから……面倒を見きれないから……よその学校に転学させるという意味ではないのですか?」
「ご心配なさらないでください。そういうことは全く当校では考えておりません。ただただ、美咲さんの果てない可能性を見出した、と言うと綺麗事でしょうか」
「美咲は、そんなに優秀な子なのですか? 姉の優子と比べるとどうもピンとこなくて……」
「お姉さんはお姉さんです。確かに、お姉さんも優秀でした。県内の医学部推薦三枠のうちの一枠を取って国公立の医大に進学されたのですから。
ただ、美咲さんは優子さんとはちょっと違った才能を持っていらっしゃると考えたのです。もしかしたら、こう考えるのもこの学校の教員としてどうかと思うのですが、杉谷ではもったいないほどのものではないかと思うのですよ」
「美咲、この前の気持ち、まだ変わってないの?」
ドキッとした。この前の話というと、裁判員制度に興味があるとか言ってた話だ……
「気持ちに変わりはない。でも……」
「何かあるのかね? いつも一緒にいる彼氏か?」
「いえ、友人のことです」
「陽子さんのことだね」
ようやく、呼び出した張本人の陣内先生が口を開いた。
「陽子さんは、いつもあなたのことを気にかけていたよ。あなたもそれに応えようとしていたことも分かっている。でも、陽子さんの前からいなくなることが裏切りになってしまうんじゃないか、って気にしてるんじゃないかな?」
図星だった。
「二者面談で陽子さんとは話をした。彼女は、あなたと一緒にいて、すごく楽しいと言っていた。大久保先生ほどではないが、私も教師をしてきてずいぶん経つ。あの笑顔と声は嘘が混ざった声ではなさそうだったな」
「陽子は、絶対いける、って言ってくれました」
「陽子さんなら、きっとそう言うだろう。もちろん、そういうように言えなんて私は一言も言っていないし、その話自体私は陽子さんにはしていない」
「で、中村さん、あなたは今、これから先をどう考えているのかね」
「将来的に研究したいことが見つかりました。御勢学園大学教育学部附属高校は環境としてもすごくいいところだと思います。杉谷に合格して、こうして友人たちに巡り合えたことも、とてもいい経験でした。しかし、私は自分の夢に向かって、可能性のあるところへ足を踏み出してみたいと思います」
「わかりました。必要書類、内申書、推薦書等はこちらで準備いたします。本日は、ご足労のほど、ありがとうございました」
「突然お話を聞きにお伺いいたしまして、大変申し訳ございませんでした」
職員室を出たら、すでに夕日が傾き始めていた。
母があの日を思い出したかのように口を開く。
「陽子ちゃんに、今度うちに遊びにくるように誘ってみて。あなたがお世話になっているのだから」
「それはいいけど、突然……」
「あの時のお礼を、しておきたくて。あなたが本当に杉谷から転学してしまったら、滅多に会えなくなってしまうから」
「わかった、陽子に聞いてみるよ」
もしかして、と思い、七組の教室に戻ったら、自分の席で陽子は本を読んでいた。
「おかえり」
「陽子、帰ってなかったの?」
「当たり前。あたしが一緒に帰ろうって言ったのに。約束だから」
「ねえ、陽子、あたしが、この学校からいなくなったら、どう思う?」
「自殺とかだったらすごく嫌だし、不登校とかもなんか嫌だな。美咲らしくないもん。美咲が、自分のやりたいことをやるためだったら、あたしはどこまででも応援するよ!」
「陽子……どうしてそんなにあたしに優しいの?」
「優しいの? 友達でしょ? 家族だっていつかは離れ離れになるんだから、友達なんてもっと離れやすいよ。でも、夢を持った友達が離れて行くんだったら、それを応援して、たまに会っていろんな話できると最高じゃない!」
「そっか……ありがとう。ところで、陽子、近々空いてる日ってある? うちで一緒にご飯でもって、うちの母親が」
「うん、じゃあ、今度の日曜とか。あ、でも、日曜って大谷くんが遊びにくるんだっけ?」
「今度の日曜は二人でうちで遊ぼう! 渉には事情を伝えとくから」
「三人でもぜんっぜんいいんだよ?」
「陽子と二人がいいの」
次の日曜日。私の家で陽子と二人で昼から夜までいっぱい話して、何でもないことで笑いあったり、お菓子を食べながらわいわい騒いだ。
夕飯の時間。母はたくさんのメニューを用意してくれた。
「調理実習で、陽子ちゃんの包丁さばきが上手って美咲が言うから、何だか恥ずかしいわ」
「すごく美味しそうです!」
今日は姉と父は出かけている。三人の夕食だ。
「いただきます!」
三人で母が作った料理を食べ終わったところで、おもむろに母が話し出した。
「あの時は、ありがとうね、陽子ちゃん……」
「あの時……」
「あの時、まだ慣れない学校で、美咲も戸惑うところがあったと思うの。でも、突然倒れるなんて私も思ってなかったから……陽子ちゃんがずっとついていてくれたから、美咲も今こうしていられると思うのね。本当に、ありがとう」
「私は、これまでも、これからも、ずっと美咲の友達です」
「ありがとう。きっと、美咲も心強いと思うわ」
「陽子……ほんとうに、ありがとう……」
陽子の気持ちがうれしくて、涙が出そうになった。
「今日は楽しかった! ごちそうさまでした」
「家まで送るよ。夜道は危ないし……」
「自転車だし大丈夫だよ! お邪魔しました! っと……お邪魔してます」
お父さんがちょうど帰宅したところだった。
「ちょうど良かった。お父さん、美咲のお友達の陽子ちゃん。美咲と陽子ちゃんの家まで送って行ってあげて」
「ん。わかった」
有無を言わさず三人で夜道を歩く。陽子は自転車を押して歩いている。
「美咲が、世話になっているな。本当に、ありがとう。」
「いえ、そんな……」
その程度の話だった。
「ここが家です」
「じゃあ、家に入るまで見届けるよ」
「恥ずかしいな……それでは、ありがとうございました。お母さんによろしくお伝えください。おやすみなさい」
そう言って陽子は自分の家へ入って行った。
「いい友達だな」
「うん。すごく感謝してる」
帰りも、父とはそれぐらいしか話さなかった。
「ただいまー」
「美咲! 決まったわよ! 家庭教師」
優子お姉ちゃんも帰宅していた。
「へっ?」
「もう正式に杉谷には御勢学園附大学附属高校受けること伝えたんでしょ? ならやるしかないわよ! 今は週三ぐらいかしら? まあ、友達次第だけど。お母さんにもOK取ってあるし、明日には来るって」
「ほへ……」
ここからが、本当の戦いの始まりだった。