第二十二話「葵」
大学院生の生活は、大学生活の延長のようだったが、やはりレベルが違うな、と感じる。
大学の授業は講義に出て出席を取るか取らないか、そして試験を受けて単位が取れるか取れないか、言ってしまえば受け身だった。
大学院の授業は大概がゼミ形式だ。もちろん、先生によっては講義資料を準備してくれ、それに従って授業が進むものもある。
毎回レポートを作ってそれを発表して、それをもとに討論しながら授業が進んで行くゼミ方式の大学院の授業は、なんだか御勢の附属高校の社会部の頃を思い出させる。
矢川先生は本来院生を持つ気があまり無かったらしい。それを知ったのは私が大学院の入学試験に合格してしばらくして知った事実だ。
「私もようやく教授と言う肩書きをもらったばかりでね、まだまだ自分の研究に一杯一杯だったんですよ。だから今まで私のゼミでも、その他からでも院生を取ることはなかったんです。でも、面談で中村さんが私のゼミに残りたいと言ってくれたこと、それと同じ頃に上野原さんが私の論文を読んで私のところで研究をしたいと研究室に来てくれたことがきっかけでした。だから、あなたたちが私の持つ初の大学院生なんです。至らないところがあるかもしれませんが、どうぞよろしく」
へえ、葵も矢川先生に会いに来たんだ。そしてこの二人の意思が、矢川先生を変えたんだ。
「葵、なんでここに来たの?」
今は矢川ゼミ控え室には私たちしかいない。と言うより、ほとんど私たちしか使っていない。
まず現在の学部生がこの部屋の存在を知っているのかも謎だ。
とはいえ、設備はなかなか整っている。御勢の附属高の社会部ほどではないが、とりあえず冷暖房とインターネット接続可能なパソコンとプリンタ、椅子と机は完備されている。 あとここにソファやお茶セット、冷蔵庫があればいいのになと思うのは贅沢すぎか。
「うーん、卒論の研究で、いろんな文献読んだんだけど、興味を惹かれた論文を書いてたのが矢川先生だったからかな。学会の論文だから所属はこの大学だってすぐ分かった。で、他の論文も手当たり次第に読んでみた。私の研究テーマに近い論文も結構あったから、この先生のところで勉強してみたいな、って思って。だから元いた大学の先生に相談して、矢川先生に会えるようにしてもらった。で、そのままここの大学院を受けることに決めて、ここにいる、と」
「なるほど、すごいね、葵」
「何がすごいの? やりたいことをやってるだけだよ。まあ、親には金銭的に迷惑かけちゃってるけど」
「あたし、矢川先生に他の大学で研究する気は無いかって学部生のころに言われたことがあったから」
「他の大学とか検討しなかったの?」
「うーん、矢川先生のところで研究を続けたいと思ってたからかな。随分親に金銭的な迷惑かけたっていうのもあったからかも」
「矢川先生のところで研究を続けたいっていう気持ちがあるなら、いいと思うよ。それも十分な動機だよ」
大学院の生活に慣れようとしているうちに、あっという間に一ヶ月が経った。
渉の誕生日を祝おうと思い、久しぶりに電話をしてみる。もちろん、出ることなど期待していない。サプライズ電話だ。
病院にいるのか、必死で勉強しているのか、サークルで泳いでいるのか、それはわからない。
ただ、メールであっさり済ませるにはちょっと虚しい気がした。
数回の呼び出し音の後、その音が切れ、「もしもし……」と眠そうな渉の声が聞こえてきた。
「もしもし、渉?」
「美咲か、ごめんな、がっつり寝てた」
「一人で?」
「当たり前だろ。今日は休みにしてもらえたから、腐るまで寝てみようと思ってさ。どうした?」
「誕生日、おめでとう」
「あ……」
渉、自分で自分の誕生日を忘れていたのか。
「そうか、今日、俺、誕生日だったか……」
「なんだか、声が聞きたくて。メールだと味気ないかなと思って」
「悪い、せっかく美咲が電話くれたのに。車出してどっか行こうかと思ったけど、でも明日からまた普通の生活なんだよな」
悔しそうに渉は言う。
「あたしも明日は普通に授業だから。気にしないで」
今年はゴールデンウイーク前半はカレンダー通りの休みだ。後半に少し休みがおまけのように付くぐらいだ。
「また帰って来れる時には、連絡するからな」
「無理しないでいいからね。でも、楽しみにしてるよ」
「へえ、美咲、彼氏いるんだー」
「葵は?」
「聞かないでよ。ズバリ年齢と彼氏いない歴が同じなんだから。あまりにも男っ気がなさすぎて、大学卒業と同時に親戚のおばさんが見合い話持ってきたぐらい。まあ、親がまだ学生だからって止めたみたいだけど」
「ほへー」
学生なのに見合い話を持って来られるのか。
「うちは女ばっかり三人姉妹だから、父親が早く嫁に行けって」
「へえ、普通なら女の子をお嫁に出したくないって言う感じなんだろうけどね」
優子お姉ちゃんの話を思い出す。私も、渉と結婚するとなったら、お父さんはさみしがるだろうか。
「それが、三人が三人とも独身でね。特に私の上二人は結構年が離れてるから、もう焦ってて。本人たちはどうだか知らないけど」
「葵はお姉ちゃんとそういう話しないの?」
「ぜんっぜん。美咲はお姉さんがいるんだっけ?」
「うん、もう結婚して家にはいないけど。でも、大学生の頃にはお姉ちゃんの彼氏の話聞いてたし、私も彼氏とは長いから」
「あー、いいなあ! うらやましいー! あたしなんて玉砕に玉砕を重ねてここまで来たのに……」
「でも、どんなタイミングで運命の人と出会うかわからないよ?」
「うん、すでに気になる人がいるし」
「え! 誰?」
「秘密ー。いつか話せる日が来たらちゃんと美咲にも話すよ」
葵の気になる人を知り、驚くのはそれからしばらくたってからである。
家のことをいろいろ手伝うようになり、郵便局に局留めされている郵便を定期的に取りに行くのも私の仕事となった。
そんなある日。郵便局からの帰り、家に届いている郵便の中に私宛の郵便が届いているのに気がついた。
少し大きめで、厚みがある。差出人は「水野 匠」とあった。
急いで家に帰り、開封してみる。そこにあったのは結婚式の写真だった。
「わあ……」
さくらちゃんと、たぶん旦那さんであろう彼氏さん。
白無垢を着たさくらちゃんは、透き通るように白く、美しかった。ドレス姿も綺麗だった。
他にも、さくらちゃんと彼氏さんと匠と智也の四人で写っている写真も添えられていた。
この二人は結婚式に招待されたのだろう。
そして、折りたたんだ手紙が添えられていた。さくらの字だ。
「美咲ちゃんへ
元気してる? 私は元気いっぱい毎日を頑張ってるよ! 結婚式の写真ができたから、招待できなかった美咲ちゃんにもぜひ見てもらいたくて匠経由で送らせてもらいました(笑)またいつか会いたいね!
大木(旧姓市川)さくら」
もう一枚は見慣れているはずだが、久しぶりに見た匠の字だ。
「みさみさへ
市川、いや、もう大木がみさみさへ是非自分の結婚式の写真を送りたいと言っているので俺経由で送ることにします。俺ら四人で撮った写真もついでにつけときます。
大学院の生活はどうですか? 智也はあんまり学部と変わらないって言ってるけど。
俺は予想以上の忙しさに毎日バタバタしています。
みさみさの結婚式にも、ぜひ招待してくれよな。
水野 匠」
最後の桜小路会をしてから、桜小路会メンバーからの近況報告はこれが初めてだ。
みんな、きっと新しい環境に慣れるために必死なんだろう。社会人になった百花や陽子、他の大学に行った早希や優、手紙では元気にしていると言っているさくらも、きっと毎日をきりきり舞いで頑張っているに違いない。
葵も、私と矢川ゼミ控え室で日々いろいろとアレな話をしてはいるが、それも彼女なりの頑張り方なのかもしれない。
私も、環境が変わっていないからと言って負けていられない。頑張らなくっちゃ。
そう言う気にさせられた手紙だった。
梅雨が明けるともう試験期間だ。
大学院は必修科目の数科目で試験がある以外は、ほぼレポート提出で単位が認定される。
その分、書かなくてはいけないレポートは膨大だ。
パソコンに向き合い、うんうんと頭を捻る。
渉にもらったUSBメモリは卒論の保存用に使ってしまったため、入学と同時に持ち運びように新しいメモリを購入し、自宅や矢川ゼミ控え室、図書館などパソコンがある環境でレポートが書けるようにしていた。
随分暑さがきつくなって来たある日。葵と二人だけしかいない矢川ゼミ控え室。
私がパソコンを独占しながらレポートを執筆している時、葵がポツリとつぶやいた。
「美咲、驚かないで聞いてくれる?」
「とりあえず今驚いとく。何?」
「私、今、矢川先生と付き合ってる」
空いた口が塞がらないと言うのはまさにこのことか。ええと、確かに矢川先生は独身だったはず、だから問題はないか?
「って、ええと、結婚するってこと?」
かなりすっ飛んだ質問をしてしまったな、と思った。
「それはわからないけど、うまく行ってそう言うことになったらいいなとは思ってる。美咲には話しとかないといけないなと思って」
「なんで?」
「いつか話せる日が来たら話すって言ったから」
「葵、正直だね。葵のそう言うところ、好きだわ」
「ありがとう美咲ちゃーん。でも私は百合より薔薇」
「私もです」
そして、私たちはいつも通りの腐女子トークに入るのだった。レポートはすっかり放置してしまっていた。
いいことは連鎖するのか。
郵便局に局留めの郵便をとって帰ろうとした時、また私あての郵便があるのに気がついた。今度はハガキだ。表面に差出人の名前はない。
裏返すと、「結婚しました」と言う文言と、ドレスアップした川口先輩、いや、すでに川口先輩では無くなっている「戸塚(旧姓川口)愛」先輩と、タキシード姿で緊張している優の写真ハガキだった。住所はマンションのようだが、優の家か、旧姓川口先輩の家なのだろう。
そうか、やっぱり二人は再会できて、結婚までしたんだな。学生結婚か。でも、優、川口先輩大好きだったからな。
この二人なら何でも乗り越えられそうな気がした。
そうだ、このハガキが桜小路会のみんなに届いたか聞いてみよう。
そして、集まれる人間で、お祝いを贈ろう。
私は桜小路会メンバーに送るメールの文面を考え始めた。




