第二十一話「桜小路会、散開」
法学部の謝恩会会場へ到着すると、すでにそこには響やあずさの姿があった。
これだけの袴姿の人数が集まると、圧倒される。
しばらくワイワイと騒いでいた後、学部長の教授の「では、法学部の謝恩会を開始します」との挨拶により、騒ぎは一瞬静まった。
学部長のスピーチの後、卒業証書を代表で受け取っていた子が代表で卒業の言葉を読み、それでおしまいかと思っていたら「では、学生敢闘賞の授与を行います」と続いた。
目の前にはたくさんのご馳走が並んでいる。早く食べたい。
まずはさっき卒業証書を受け取った子が受け取っていた。成績が良かったのだろう。
「続いて、中村美咲さん」
えっ? 私?
「ほら、美咲、行っておいでよ」
響に言われるがままに前に出て行く。
「中村さんは法学部で最多単位数を取得して卒業されました。それも日々のたゆまぬ努力によるものです。ここに、その努力を称します」学部長に賞状と記念品を渡され、戸惑いながらも響たちのところへ戻って行った。
「続いて、中村響さん」
響も!
「中村響さんは部活動と学問の両立を見事に成し遂げられました。特に管弦楽団では長年第一バイオリンを演奏され、三年生の冬には定期演奏会でコンサートミストレスを務められるなど、その功績も大きなものです。ここにその努力と功績を称します」
その後も部活動で活躍した子、ボランティア活動などで貢献した子が表彰されて行った。
しかし、突然だったので驚いた。こんなに突然なのは高校三年生の新人賞の時以来だ。
「響、知ってた?」
「うーん、先輩から噂には聞いてた。でもまさか自分が選ばれるなんて思ってなかったねえ。先輩とは学部も違ったし」
「私も、自分が最多単位取得してたなんて思ってもいなかった」
「どんぐらい単位取ったの?」
「えーと、二百は超えてたかな?」
「そりゃあすごいよ、卒業必修単位が百二十五だもん」
「有沙は?」
「百九十くらいだったかな」
「和菜は?」
「二百近かったけど、二百は越えなかったよ」
「やっぱり、教職課程組は単位が増えるね」
「仕方ないよ、教職課程の必修があるからね」
みんなでごちそうをもぐもぐしたり、写真を撮影したりしながら時間は過ぎて行く。
夕方。私と和菜を含む矢川ゼミ卒業生は大学から少し離れたバイキングレストランにいた。
地元ながら、そんなレストランがあることは全く知らなかった。
みんながお酒を飲む中、私は徹底してソフトドリンクを頼み通した。
「中村さん、すごいね、私卒業単位取るだけでいっぱいだったのに」
「教職課程の必修があったしね」
「卒論読んだよ。アンケートとか、よくまとめれたね、感心した」
「そんなに大変じゃなかったよ。アンケート、協力してくれてありがとう」
「この後も、矢川先生のところに残るんでしょ?」
「うん」
「中村さんに向いてそうだね、ぴったりだよ。応援してる」
「ありがとう。福本さん、もう行っちゃうんだよね?」
今私と話している福本香代と言う子は、大手航空会社の客室乗務員として内定が出ている。
「うん、もう行かないとね」
「大学に残るより、フライトアテンダントさんの方がすごい気がするけどね」
「そうかなあ? でも、お互いこれからも頑張ろうね!」
ここの料理もものすごく美味しかった。いつかまた桜小路会をする機会があればここで、と思えるほどだった。
そして場所を変えて、今いるのは百花の家。
大学生活最後の桜小路会が開かれようとしている。
各学部でも法学部と同様に謝恩会が行われ、ゼミによってはそのまま謝恩会が行われたようだ。
だから、服装もバラバラ。私のようにまだ袴姿の人間もいれば、ちょっとドレスアップしたくらいの人間もいる。男の子はみんなスーツだ。
「お邪魔します」
午後八時からと時間を決めていたため、それに間に合うように午後七時四十五分には大学に集合し、歩いて百花の家に向かった。
「みんな、結構食べてきてるよね?」
「うん」
「お腹いっぱい」
「じゃあ、何か飲み物とおつまみくらい用意しようか」
百花は一旦台所へと引っ込んで行った。
入れ替わりに現れたのが、御勢学園の附属高の制服でない制服を着たまるで高校生の頃の百花……びっくりするほどそっくりだった。
「百花お姉ちゃんがお世話になっています。妹の千花です」
ああ、この子が妹さんか。
同時に飲み物をたくさん抱えて戻ってきた百花が言う。
「似てるでしょ。びっくりした? 歳が近かったらまるで双子みたいね、って言われるくらいよ」
「いろいろお話聞かせてください。よろしくお願いします」
「千花、あたしたちのせっかくの最後の集まりをあまり邪魔しないでよ」
「はあい」
「まあ、いいじゃないか、せっかくの機会だし。ところで、千花ちゃんは高校どこ?」
少なくとも御勢学園大学附属高ではない。自分が一年だけ着た杉谷高校の制服でもない。
「桜雅学園高等部二年です」
なるほど、だからあまり見たことがない制服だと思った。
「で、先生になりたいって、どの学校の先生になりたいって考えてるの?」
「小学校です」
「だったら俺だな。桜雅学園高等部から御勢学園大学に進学するかどうかは別として、何か聞きたいこととかあったら」
「匠、昔から小学校の先生になりたがってたからね、もってこいじゃない」
「高校生のうちにやっておいた方がいいことって、何かありますか?」
「うーん、ピアノは弾ける?」
「はい、小学校から習ってました」
「なら大丈夫だ。他のことは大学生から始めても全然問題ないんだけど、ピアノは大学生から始めようとするとすごく苦労する。後は、そうだな、今これをがんばっていますって言えることを持っておくことかな。部活ってなにかやってる?」
「ええと、バスケ部です。次のインターハイ予選までですけれど」
「いいね、そういうのがあると、自分の自信にもなるし、部活動の指導ができるというアピールにもなる」
「ふむふむ」
「あ、そうだ。日頃から字を書く時に書き順に気をつけておくと、あとあと役立つかもしれない。小学校だと、特に黒板で書き順を注意されるからね」
「なるほど」
「まあ、小学校だけでなくて、一緒に中学校とか高校の免許を取れる大学もあるから、先生になりたいならその辺りも考えて大学選びをするといいと思うよ。ごめんね、これくらいのアドバイスしかできなくて」
「いえ、やっぱり現役の教育学部の学生の方のアドバイス、すごく役立ちました。ありがとうございます」
「もう卒業しちゃったんだけどね」
「じゃ、千花、台所に置いてあるお菓子持ってきて。なんだったら千花も混ざる?」
「ううん、あたしはいい。明日も練習だし。ありがとう、お姉ちゃん、先輩の皆様方」
千花は台所から大量のお菓子を持ってきて、「ごゆっくりなさって下さい」と言って去って行った。
「いやあ、びっくりしたよ、優。卒業生総代なんて。もちろん前々から言われてたんだよね?」
「ああ、三月の頭頃にな。部屋でゴロゴロしてた時に突然学生課から電話がかかってきて、「卒業式で、卒業生総代としてスピーチをしてくれ」って言われてさ。俺も我ながら、頭真っ白だったよ」
「優はやっぱり成績がよかったっていうところで卒業生総代に選ばれたの?」
「わからないな。成績が一番いい奴が卒業証書を受け取ってるはずだろ。なんで俺だったかはわからねえ。噂によると、毎年卒業生総代は学部交代で出されてて、今年たまたま経済学部だったってだけらしい」
「優、単位数ってどのくらいだった?」
「うーん、そんなに多くなかったけどな。百七十くらいかな。経済学部の卒業単位は百四十ぐらいだから、多い方だとは思うけれど」
「美咲、単位数多かったの?」
「法学部最多だって表彰された」
「まあ、美咲はねえ。法学部の卒業単位に加えて教職課程の単位も取ってたんだし、単位数は増えるでしょ。あたし、学校なんて必要最小限しか来てなかったのに、ボランティア活動を頑張ってたとかいうことで表彰されたわ。変な感じ」
「そうだったね、百花姉様。なんかすっごく違和感がありますって顔しながら表彰されてたからね」
「でも、すごいよ。美咲も百花姉様も。あたしなんて単位取って行くだけで一杯一杯だったのに」桜小路会に入ってまだ日の浅い、でもすっかり定着した感のある陽子が言う。
「俺らは教員免許取らないと卒業できないからな」
「思った以上に大変だったけど、なんとか乗り越えられたって感じ」教育学部組がつぶやく。
「で、百花姉様はいつここを出発するの?」
「うーん、明日には出るかな」
「うわ、あっという間だね」
「もう来週からは社会人だもん、学生気分でいられるのももう少しだよ」
「俺も今週末にはここを発つ」優が言う。
「優は思い人の川口先輩に再会しに行くんだよね」
「おい、俺は真面目に勉強しに行くんだぞ、そこんとこ誤解するなよ」
「でも、いいじゃない。また戻って来た時を楽しみにしてるわよ」
「ああ、またここに戻ってくる」
「あたしは車あるし、家から通えるからね。ただ、やっぱり学校変わるってちょっと緊張するわ」優子お姉ちゃんの通っていた大学の大学院に進学する早希が言う。
「あたしは家から通えるのはいいんだけど、結構泊りとか早番とか遅番とかあるから時間とか休みは不規則になるかな」
「そういえば、陽子、前は高齢者の介護関係の仕事したいって言ってたけど、志望を変えたんだね」
気になっていたことを聞いてみる。
「これもおじいちゃんの影響かな。私、おじいちゃんっ子だったからさ、おじいちゃんの話はよく聞く子だったのよね。おじいちゃんの口癖が、「自分のことより、まず目の前の困っている人をすすんで助けてあげなさい」で。
今もおじいちゃん、施設に入ってるけど、お見舞いに行って進路の話をしたら「自分は精一杯色々な人に助けてもらっている。ありがたいことだ。陽子、見方を変えてみてごらん。陽子の助けを必要としてる人たちがきっとまだまだいるはずだから」って。
ちょうどその頃、今内定をもらっている施設に実習に行かせてもらうことができたの。そこで、あ、もしかしておじいちゃんが言ってたことってこれかもしれないって思って。他にもいくつか見学に行ったりしたけど、やっぱりそこが一番頑張れそうな気がした」
「陽子、しっかり最後まで目標をつかんだんだね、すごいね」
「美咲もでしょ、そんな最多単位まで取って、そのまま今の大学の大学院に行くんだから、杉谷を出て行った時そのままじゃない」
「あ、そうだ! 匠、御勢の附属小に来いって話なかったの? あたしでさえ御勢の附属高校に帰るのに」
「麻衣子は最初から御勢の附属高狙いだっただろ、俺も確かに附属小に来ないかって話、あったよ。でも、幼稚園から今までずっと御勢に居続けたからな、少し外に出て、外から御勢学園系列を見てみたくなった。もしかしたらいつかは御勢の附属小に赴任することもあるかもしれないけど、それまで講師として修行だな」
「みんなそれぞれ、本当にバラバラの道に進んじゃうんだね……」
場がしんみりとする。
「大丈夫! 高校に来ればあたしと桜小路先生がいるから!」
「陽子は大学に戻ってくれば、あたしがいるから」
麻衣子の言葉だけだと、桜小路先生に縁のない陽子が疎外感を感じてしまうと思い、急いで付け加えた。
「そうだね!」
「俺も、またここに戻ってくるよ」
「とりあえず、誰が一番最初に結婚するんだろうな」
「確実なところではやっぱり美咲たちでしょ」
「え……ち、ちょっと……」
「はいはい、美咲お酒飲んでないのに顔が赤いよ」
「優あたりも怪しいよね」
「来年あたりいきなり、とかあり得る」
優は顔色一つ変えない。
「まあ、百花姉様も明日にはここを出るんだし、遅くまでお家をお借りするのも悪いな。千花ちゃんも明日また練習らしいし」
「じゃあ、この辺りでお開きとしますか」
時間も随分な時間だ。
「また、いつか、桜小路会を開くことを約束して」
みんなで手を差し出し、円陣を組む。
「次は祐樹も一緒にな」
「いったん、桜小路会、散開!」
こうして桜の花びらたちは、それぞれの場所で新たな花を咲かすため、いったんここでの花を散らせた。
またどこかで、再び大きな輪となって開くことができるように。
もう夜もかなりの時間だったため、百花の家からタクシーに乗り合わせて帰宅することにした。
駅方向に向かうのは私と匠だけだった。
「匠」
「どうした、みさみさ」
「さくらちゃん、行っちゃうの?」
「ああ、ゼミの謝恩会もそこそこに帰ったらしい。もう、明日にはここを出るんだろうな」
「さみしくない?」
「全くさみしくないって言ったら嘘だな。でも、俺も大木を知らないわけじゃないし、いいやつだからな、その辺りは安心してるよ。きっと、幸せになってくれるんじゃないかな」
「安藤くん……」
「ああ、智也か」
「離れちゃって、大丈夫?」
「うーん、ちょっと悩みどころではあるんだけどな。俺も講師の身分だし、智也も家から通うってことだから、あんまり今と変わらない状況なんだよな。俺が正式に教員に採用されてたら、ちょっとは状況が変わってたかもしれないけど。とりあえず、智也が大学院出るまで、俺も頑張るしかない。もしかしたら二年後、頭下げたおして御勢の附属小にいるかもしれないな」
「やっぱり一緒に住むのが目標なんだね」
「ああ、それが今の目標だな。みさみさたちも、あと二年はかかるんだろ?」
「うん、少なくともね」
「じゃあ、俺らと一緒だよ。お互い、頑張ろうぜ」
「そうだね。でも、趣味を語れる友達がいなくなったのは痛いな」
「市川も遠くに行っちゃうからな……」
「これを機に、卒業しようかな」
「そうなるとある意味みさみさらしさがなくなっちゃうな、きっと見つかると思うぞ、友達」
その辺りでタクシーは自宅近くまで来た。
「また、連絡ちょうだいね。私学生だし、いつでも暇だよ」
「ああ、また連絡する。お疲れ、そして卒業おめでとう」
「匠も、卒業おめでとう。お疲れ様」
匠を乗せたタクシーは走り去って行った。
翌日。本当に久しぶりにこっちに帰ってきた、と言いながら渉がうちにやってきた。
「美咲、卒業おめでとう!」
渉が持ってきてくれたのは大きな花束だった。
「わあ、花束!」
「卒業式の時、水泳部で花束準備したけど、そういえば美咲は何かサークルとか所属してたわけでもないし、花束もらえなかったんじゃないかなと思って。余計なお世話だったら悪いな」
「ううん、確かに花束には縁なかったから。ありがとう、渉」
「喜んでもらえたら嬉しい」
やはりこうやって花束をもらうと嬉しいものだ。
「いらっしゃい、渉くん。あら、大きな花束」
「美咲さんにと思いまして」
「よかったわね、美咲。お礼は言ったの?」
「もちろん!」
「じゃあ、玄関に飾っていいかしら」
「お願いします」
お母さんに花束を一任すると、久々にこっちに戻ってきたと言う渉と色々な話をする。
「わあ、やっぱりすごく忙しいんだね、渉」
「ああ、予想してた以上って感じかな」
「これから、国試の勉強も始まるんでしょ?」
「もう始まってるよ。て言うか、毎日が勉強だ」
「すごいや、私とは全く違う世界だ」
「美咲もこれからは毎日が勉強の世界だろう? 研究者ってそういうもんだろ」
「まあ、そうだね……」
そういえばそうなのだ。学生とはいえ、大学生とは違う。大学院生は論文を書き、他人に認められるような成果を出すのが仕事なのだ。
「お互い、頑張ろうな。あと二年、俺も必死でがんばるから」
「うん」
そう返すのでいっぱいだった。
夕食は四人でお約束の唐揚げ。いつの間にか、私たちとお父さん、お母さんの4人が揃う時は唐揚げが出るようになっていた。
「いただきます」
お父さんも早めではあるが帰ってきている。
「ケーキ、買ってきてあるわよ。もちろん四人分ね」
「ありがとう、お母さん」
「それって……」
「渉くんも、遠慮しないで食べて行ってね」
「ありがとうございます!」
「美咲にあんなに大きな花束いただいたんだもの、ケーキだけじゃ足りないかしらね」
「いえ、俺が勝手に決めたものですから、お気になさらないで下さい」
「渉くんも忙しいんでしょ? 久しぶりにこっちに帰ってきたって聞いたわ」
「はい、やっぱり忙しいですね」
「無理させちゃったみたいで、申し訳ないわ」
「いえ、俺が言い出したことなんで、本当に気になさらないで下さい、本当に」
「卒業って言っても、この子はまだまだ学生だからね」
「俺もあと二年は学生ですよ」
「あと何年学生やるかわからないけどね、この子の場合は」
「すいません……」
返す言葉はそれしかなかった。
「美咲さんがあと何年学生だろうと、俺はあと二年後、絶対国試に受かって、美咲さんを迎えに来ます」
空気が止まった。何度も言われていたことだが、この場で言われたのは初めてだ。
「……」
止まった空気を切り裂いたのは、意外にもお父さんだった。
「渉くん、本当に美咲を迎えに来てやってくれるのかい?」
「はい、約束します」
「渉くんだったら、何年でも構わないよ、美咲さえよければね」
「あの時から気持ちは変わってないのね、さすがだわ、渉くん」
そして、一斉に目線が私の方に向けられる。
「美咲、渉くんがこう言っているんだ、美咲はどう思っているんだ?」
「渉が待っていてくれって言うなら、いつまでも待つ気でいた」
「そうか。でも、さすがにいつまでも学生気分で二年後に渉くんと一緒にって言うのは渉くんにも申し訳ないな」
「う……」
「まあ、お父さん、大学院生ってかなり忙しいし、自立のために一人暮らしって言うのは今の美咲にはちょっと厳しいから、美咲にはできる限り家のことを手伝ってもらうようにしましょう。二年間でも家のことを手伝ってもらえれば、少しは渉くんの足手まといにはならないんじゃないかしら」
「美咲……さんは、一人暮らしは厳しいと聞いています。特に睡眠時に誰かがついていたほうがいいと。俺も夜勤とかになると思うので、常についていることはできないかもしれませんが、一人暮らしよりはいいんじゃないかと思います……」
最後は消え入るような言い方だった。渉もその辺りを失念していたのだろうか。
「私は大丈夫。しばらく何も起こってないし、これから先、お医者さんの渉がついていてくれるなら安心できる。でも今、一人暮らしは確かに危険だと思うから、お母さんの言う通り、家の手伝いをするってことでいいでしょうか……?」
「そうね、本人がそうしたいならそれが一番いいわ。今美咲にとって何より大事なのは研究ですものね」
「よろしく頼んだぞ、渉くん」
「はい、一生懸命、頑張ります」
その日は渉は実家に帰って行った。明日大学近くのマンションに戻るのだそうだ。
「渉くん、本当に一途ね。感心するくらいだわ」
「美咲の高校三年の入院中に聞いて以来か。あれから気持ちが変わっていないっていうのも大したものだ」
お父さんとお母さんは口々に渉を評価している。
お母さんは昔から娘たちと三人で遊んでいたうちの一人として渉を捉えているため渉に対して好印象であったが、やはりお父さんの渉を見る目が変わったのは優子お姉ちゃんと圭太さんの一件以降のように思える。
あの時渉が最後までお父さんに付き合い、優子お姉ちゃんの思い出話を四人でしたことで、お父さんは渉に関して完全に好意の方向に向いた。渉本人にそういう気は全くなかったのだろうが、結果的にそうなったと言うところだろうか。
これで、ある意味事前の顔合わせが終わってしまったようなものだ。真面目な渉はきちんとまた顔合わせをするのだろうが。
私にも責任が出てきた。学生を続けながら、二人で生活できるように生活力をつけて行く。私も、頑張らねば。
そして、大学周辺は去る者、来る者とで慌ただしくなっていっていた。
響も、あずさも、もうこの街にはいない。
百花も、優ももう新しい街へと旅立って行った。
このキャンパスに残るのは、私と智也ぐらい。
私を大学の新一年生と勘違いするサークルの勧誘ビラを受け取りつつ、大学一年の時と同じように健康診断などを受けに行く。
和菜や智也もいるはずだが、やはり学部が違うと見かけない。
そして、二度目の大学の、いや、大学院の入学式が行われた。
大学院の入学式の後、法学研究科オリエンテーションが行われるとのことで、法学部の会議室へ向かう。
そこにはおよそ十人の大学院の新入生が揃っていた。
この中に誰か他に矢川研究室のゼミ生がいるのだろうか?
卒業式でも見かけた法学部の学部長の挨拶の後、「では、一人ずつ、自己紹介と研究テーマを簡潔にお願いします」と言われた。
私はちょうど十人の真ん中ぐらいだ。
そして、一番最初の子の挨拶に私は驚く。
「上野原 葵です。中城学館大法学部法学科出身、研究テーマは「罪刑法定主義の限界について」です。矢川先生のゼミで研究させていただきます。よろしくお願いいたします」
さっそく矢川ゼミの子がいた。一番最初からでびっくりしてしまった。
自己紹介は進む。半数はこの御勢学園大法学部出身、後半数は他大学出身のようだ。ここまでで矢川ゼミの子は他にはいない。
私の番だ。
「中村 美咲です。御勢学園大法学部法学科出身です。研究テーマは「裁判員制度の市民への受容とこれから」です。引き続き矢川先生のゼミで研究させていただきます。よろしくお願い申し上げます」
ちょっと緊張してしまった。拍手をもらうとホッとして気が抜けてしまいそうになる。
十人全員の自己紹介が終わった後、「では、大学院の授業の取り方を説明します」と説明が始まった。
一時間ほどだろうか。説明が終わった後、私たちは別の部屋へ案内され、「大学院生には控え室とロッカーがあります。そうですね、こちらを男性用、こちらを女性用としましょうか。また、先生によってはそれぞれゼミの学生控え室を持っている先生もおられますので、それを使用できるかどうかは先生に各自確認して下さい」との説明を受けた。
矢川先生は「来年から隣の部屋が空くかもしれないから、自由に使っていいですよ」とそういえば言っていた。その辺りも確認しよう。
矢川先生を見つけ、「先生、隣の部屋って使用しても大丈夫ですか?」と聞く。
「ああ、空き教室、と言うより、準備室みたいにしてもらいましたよ。ゼミ生や院生の皆さんで使ってもらって大丈夫です」
これでちょっと息抜きの場所ができた。匠やさくらに招待された教育学部の学生控え室のようなものだろう。
「上野原さんも、ここ使っていいですからね。遠慮なく」
「はい、ありがとうございます」
やっぱり、今年の矢川ゼミは私たち二人らしい。
「中村さん」
「はい?」
「同じゼミ同士、どうぞよろしく。上野原 葵です。葵でいいよ」
「じゃあ、美咲って呼んで」
「分かった。ところで、初対面でこう言うの聞くのもなんだけど……」
「?」何だろう。
「美咲ちゃん、腐女子?」
ああ、高校二年生のあの日が蘇る。と言うことは……
「葵ちゃんも?」
「もちろん! そうじゃないと、こう言うこと聞けないじゃない! ごめんね、いきなりこんなこと聞いて」
「ううん、同じこと聞かれたことあるから」
「誰に?」
「昔の同級生」
そして、私は葵に、匠のことを話したのだった。
「うーん、やっぱり同じ感性を持ってる人間っているんだねえ。あたしも、美咲ちゃんをみた瞬間、この子は!って思ったもん」
「そんなに?」
「分かる人には分かるって感じかな」
その日は葵とはそこで別れたが、思わぬところで同じ趣味を持つ友達と出会ってしまった。
そうして、矢川ゼミにて、研究と葵との女の子トークに溢れた大学院生生活が始まろうとしていた。




