第十九話「響」
二週間後の週末。私たちは音楽教室へ集まった。
一般的にはオーケストラと合唱で演奏されることが多い、ベートーベンの交響曲第九番第四楽章、通称第九。
たった七人で、できるのか?
その答えを持ってきたのは、あずさだった。
「ピアノ二台で構成されている第九の楽譜があるの。それに響のバイオリンとか、手伝ってくれるみんなのコーラスとか、美咲ちゃんのソロを重ねていけばいいんじゃないかな。まあ、やってみないとわからないけど。ちゃんといつも使ってるコーラス用の楽譜も人数分あるから」
「ピアノ弾けそうな子が結構いるから、いけるかも。ありがとう、あずさ」
「あたしも楽しみにしてるから、響のバイオリンと美咲ちゃんのソリ」
そして行われた、顔合わせ。
「とりあえず、各自簡単に自己紹介でも。まずは私から」その場を仕切っているのはあずさだった。
「永島あずさと言います。去年は合唱団の部長をやってました。主に声域はアルトです。よろしくお願いします」
「中村響です。去年まで管弦楽団で第一バイオリンに座らせていただいていました。私と美咲の話に、皆さんに集まっていただいて本当にありがたく思っています。どうぞよろしくお願いします」
「中村美咲です。去年第九のソリストのオーディションの一次選考で落選しました。声域はソプラノです。合唱経験は中学と大学の三年間です。さっきの響の話の通り、私たちの話に、皆さん集まっていただいてありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
「水野匠です。ピアノに関しては小学生の頃からずっと弾いて来ました。合唱ではバスパートを担当していました。よろしくお願いします」
「安藤智也です。俺はコーラスのヘルプくらいしかできないですが、助けになるなら嬉しいです。合唱ではテノールパートを担当していました。よろしくお願いします」
「高月更紗です。合唱団でソプラノパートを担当していました。今日は楽しみにしています。よろしくお願いします」
「市川さくらです。吹奏楽団でトランペット担当でした。私は歌うことは苦手なので、ピアノでお手伝いできたらと思っています。よろしくお願いします」
「さて、全員の自己紹介も終わったし、どういう割り当てにしようか?」
「あずさ、ピアノ弾きながら歌うって苦手でしょ?」
「う……て言うか更紗もでしょ」
更紗に図星を突かれたあずさはそう返すのが精一杯のようだ。
「あたし、歌えないから、ピアノ担当でお願いします」
申し出たのがさくらだった。
「市川さん……よね。初見でも大丈夫?」
「問題ないです」
「じゃあ、一台目のピアノは決まりね」
「もう一台は?」
「俺が弾く。俺は弾きながらでも歌えるし」
そう申し出たのが匠だった。
「ま、先生の卵なんだし、春からは小学校の先生になるんだしね」
「よし、これでピアノは決定ね。コーラスは……」
「美咲ちゃんのソリと、響ちゃんのバイオリンを聞く会でしょ? あたしはソプラノのコーラスでヘルプするわ」
更紗が言う。
「あたしはアルト。もしソリスト部分が必要なら、見よう見まねで対応するかな」
あずさが続く。
「俺がテノールを担当します。俺は歌うしかできないから」
智也が言う。
「俺がピアノを弾きながらバスパートの担当。これで決まりだな」
「じゃあ、各自準備お願いします」
あずさの声で、みんなが動き出した。
私は初めて会う更紗と一緒に発声する。更紗の声量に驚かされる。
「更紗ちゃん、すごいね」
「最近まで練習してたしね」
「試験で?」
「うん」
「更紗ちゃん、大学卒業したらどうするの?」
「こう言う時に野暮だね、美咲ちゃんも。あたしは、幼稚園の先生になることになったの。御勢のね。だから、歌の練習ってかなりしたのよ」
「すごい!」
「でも今日はあたしが推薦した美咲ちゃんの歌声が聞いてみたいと思ってるから。期待してるわよ」
一気に緊張が高まる。
それぞれに準備をしていた面々が、再び集まる。
指揮はあずさが簡単ながらやっている。
響はバイオリンを構え、ピアノの伴奏に合わせてあの聞き慣れたフレーズを奏で始める。
そこにはブランクを感じさせない、力強い響きがあった。
ああ、響の音ってこんななんだ。やっぱりすごいや、響は。
ピアノ二台とバイオリンでも全く違和感を感じない。
本来ソリストの歌う部分はそれぞれのパートの担当に任せているが、歌い慣れていないところをいきなり歌うのは厳しいだろう。
それよりも、私の練習していたソプラノのソリスト部分をみんな楽しみにしているのだ。入り損ねないように気をつけなければ。
とはいえ、みんなそれなりに上手くソリスト部分も合わせてくれている。さあ、自分の番だ。
歌い始めると、その時の感覚でいい悪いと言うのがわかる。ああ、今日はいい感じだ、今日はなんだかダメだと。
今日はうまく流れてくれている。高音域で詰まることもない。
後ろで更紗がコーラスパートを歌ってくれていると言うのも大きいだろう。
曲は後半から終盤へ、盛り上がるところへ差し掛かる。
それぞれが全力でそれぞれの部分を演奏し、歌っている。
そして合唱が終了し、曲は最後のピアノとバイオリンで終了した。
「ブラボー!」
その一声を発したのは、さくらだった。
「ブラボー!」
「ブラボー!」
「ブラボー!」
それぞれが口々に、ブラボーを叫び出す。
そして指揮をしていたあずさと、響ががっちりと握手をした。ああ、涙が出そう……
即席ながらもアンサンブルを成し遂げた七人は場所を移動し、学食で簡単な打ち上げを行った。
このまま大学に残る私と智也以外、もう滅多に来ることがない場所だ。
「最初は七人でどうなるかと思ったけど、すごかったね、うまく行くもんだね」
あずさが言う。
「みんなが手伝ってくれないと、あたしのバイオリンと美咲のソリだけじゃどうしようもできないもん。でも、うまく行ってよかった」
響が続ける。
「いい声だね、美咲ちゃん。何回か第九は聞きに来てたけど、美咲ちゃんの歌声を生で聞けるチャンスがくるなんて思ってなかった」
意外だった、というようにさくらが言う。
「レッスンとか受けたの? あれだけの声出すの、やっぱり専門的に練習しないとかなり難しいと思うし」
「中学校の時に合唱部だったんだけど、その時の先生が行為で格安でやってくれたの。でも、もう一年も前の話」
そして、そのままみんなお互いの音楽経験やこれからの進路を語り合いながら、その日初めて会った人間同士とは思えないような盛り上がりを見せた。
「またいつか、アンサンブルしたいね。このメンバーで」
という言葉でこの会は解散した。
みんな楽しかった、という顔をしている。
コーラスの一員としてオーケストラとともに舞台に立つのももちろん楽しいが、このような形で気の合う人たちと音楽をやるのもいいものだな、と思いながら私も帰路に着いた。
今年は本番の第九には出演しないことにした。
出ようと思えば来年出ることもできるし、何しろ今からだと練習期間が短い。
あずさに聞いてみると、やはり四年生の出演は少ないらしい。
「あたしたちの第九は大成功したじゃない」という言葉とともに。
そして、私の大学生活最後の冬休み。
渉が忙しいのは分かっている。だから無理してクリスマスパーティーをしようとか企画はしなかった。
優子お姉ちゃんも圭太さんと水入らずのクリスマスを過ごすのか、仕事なのだろう。
優子お姉ちゃんたちにはマンションにプレゼントを送っておき、渉のためのプレゼントを用意するくらいにした。
そんな冬のある日、私はお母さんから驚くことを聞かされた。
「二月に発表会があるんだけど、先生から出ないかっていわれてるのよ。確かに、レッスンを受け始めてずいぶんたつからそう言いたくなるのもわかるけど、もういい歳だし……」
「いいじゃない、お母さん。せっかくずっと練習してきたんでしょ? 優子お姉ちゃんも今はまだフルートどころじゃないだろうし、一度くらい出てみてもいいんじゃないかな、発表会」
「恥ずかしいけど、ものすごいあがり症なのよね……」
「慣れだよ、慣れ。お父さんも言ってたじゃん、最初から上手にできる人なんていないって。なんだったら、ここで練習してみたら?」
「笑わない?」
「当たり前。的確なアドバイスができるほど私も音楽については詳しくないけど、笑ったりは絶対しない」
「じゃあ、ここであなたに聞いてもらいながら練習してみようかしら」
そして、新たな響きがこの家を満たし始めた。
お母さんの私の前での日々の練習が進む中、新年を迎えた。
大学生としては最後の年末年始だ。
用意しておいた渉へのクリスマスプレゼントは、辛うじて年末年始の休みに自宅に帰宅できた時に渡すことができた。
渉も忙しいながら、私にクリスマスプレゼントを用意してくれていた。
それだけでも涙が出るほど嬉しい。
「美咲、もう少し待っててくれ。俺が国試に受かって、大学を卒業するまで」
「うん、待ってるから」
年が明けると、もう四年生は卒業モードだ。
卒業単位が足りるか、必修科目の単位を落としていないか、みんな必死で確認している。
三月の頭に最終的に卒業が確定するらしく、卒業できない人の元へは電話がかかってくるらしい。恐ろしい。
卒業単位に足りていれば、必修科目でもない限り試験を受ける必要もない。ただ、教職科目に関しては別だ。
四年の後期まで必修科目があるため、少なくともその試験は受けなくてはならない。
そういえば、卒業式の袴を用意していなかった。すっかり忘れていた。
優子お姉ちゃんはどうしたんだろう?
お母さんに聞いてみる。
「優子はかなり早い時期に予約してたみたいよ。あの子なりに卒業式を一大イベントとして捉えていたからかしらね」
そうだ。卒業と同時に圭太さんと結婚することを意識した時点で、卒業式はこれまでの自分との卒業なのだ。
「あなたはそういう話全くして来なかったから、どうするつもりなのかとは思っていたけれど」
「うーん、私はこのまま大学に残るしな……」
「成人式の振袖なら、うちにあるわよ」
そう、振袖は優子お姉ちゃんの成人式の時に購入したのだ。私はそのお下がりを着て成人式に参加した。
「スーツか、振袖でもいいかな……」
「袴がいいなら、何軒かレンタルのお店当たってみるけど」
数日後、私はお母さんと衣装レンタル店の店内にいた。
大学で配られる袴のレンタルのチラシは大規模な店舗がやっているようだが、地元に昔からあるようなあまり大きくない店にはまだ余裕があるようだった。
「この振袖に合いそうな袴を……」
数点出してもらい、一番気に入ったものを予約することにした。
「ごめんね、お母さんも忙しい時に」
「大学の卒業式は一度きりだから。まあ、また他の大学に入学するとかいうのなら別だけど」
「大学院の卒業式って、やっぱり違うの?」
「そうね、あっさりして、大学の卒業式とはなんだか違ったわ。私の時はだけれど、大学院の卒業式はスーツがほとんど。袴もいたはいたけど、少なかったわね。大学院の修了生が少ないから、大学の卒業生に比べたら」
「やっぱり、袴にしといてよかったかな」
二月。あの日から始まったもう一つの響きが、いよいよ大勢の人の元へ届く日がやってくる。




