第十四話「コンミス」
「中村さん」
「はい」
「日常生活で困っていること、何か悩んでいることなどはないですか?」
「……特には、思いつきません」
「進路の希望としては、最初にここで聞いた目標と、変わりはないですか?」
「はい、変わりありません」
「研究の進み具合はどういった感じですか?」
「そうですね、これまでの文献や報道などを基にした考察に加えて、意識調査をしたいと考えています。できるだけ幅の広い年代の意見が聞きたいと考えています」
「そうですか。最近はアンケートの集計方法も数多くなってきたから、もしやりたい方法で私に手伝えることがあったら相談してください。ところで……」
「……?」
「中村さん、あなたは研究者として最終的には裁判員制度を研究対象としてどう捉えたいと思っていますか?」
「……」答えに詰まる。
「こういう質問は、どちらかというと大学院の入学試験、しかも博士課程の入学試験の面接で聞かれることかもしれませんね。ただ、あなたはすでにゴールをそこに、その先に見据えている。それならば、今のうちからそのような意見をしっかりまとめておくことも悪いことではないと思いますよ」
「私は……裁判員制度を大まかには存在していいものとして捉えています。これまで司法だけで行われてきた裁判という制度に、市民が参加できるということは閉ざされたものを一部ではありますが開放するものだと思います。むろん、それに対する批判論もあります。それらも踏まえた上で、あえて裁判員制度に賛成したい、そう思います」
「そうですか。ところで、このままうちの大学院に進むつもりですか?」
「そのつもりです」
「外の大学院に出て、他の先生のところで勉強してくるというのも一つの手なんですよ。もちろん、ここに残りたいというものを無理に外に出すことはしませんが」
「矢川先生、なんでそういうお話を……?」
「私も修士課程は他の大学で勉強してきたという経験があることと、中村さん、あなたには法学だけでなく教育学の知識もあるようだから、その知識を無駄にしてしまうのも勿体無いかな、と考えただけですよ」
「私は、ここに残りたいです」
「それならば、修士課程の試験対策も早めに始められたがいいでしょうね。学生課の入試部に聞けば、過去数年分の法学部の修士課程の入学試験問題はコピーさせてくれますから、早めに手に入れて対策をされておいた方がいいと思います。特に、来年の春から夏先には教育実習があられるなら、なおさらです。夏の試験で合格しておいた方が、あとあと安心ですしね」
「分かりました。ありがとうございました」
私は矢川研究室を出ると、その足で学生課へ向かった。
入試部にいた女性に声をかけ、法学部の修士課程の入学試験問題をコピーさせてもらう。
一部十円で、過去三年分の夏に行われる試験と冬に行われる試験をコピーさせてもらった。
専門の問題に、英語。英語の試験なんて、最後に受けたのは教養の試験だろうか。
しかも私は大学入試は受けていない。英語のレベルとしてはかなり自信がない。
「今からでも間に合うのかな……」
この前のオーディションといい、自信のなさが口について出てしまう。
紙の英和辞書を使うのは高校以来だろうか。
電子辞書や携帯の和訳に慣れてしまっている環境から、久しぶりに辞書を引くのは骨が折れる。
しかし、これもまた自分の夢への道なのだ。あのオーディションとは違う。
諦めたら、みんなの期待を裏切ってしまうのだ。
一念発起して、辞書と英文と格闘し、久しぶりに英語の勉強を始めた。
三年生の後期が始まる。
もう残すところは数少ない専門科目、ゼミくらいのものだ。それに私や有沙、和菜には教職科目の専門科目が入る。
今年の第九、どうしようかと考えて、あずさに聞いてみる。
「三年生は忙しいからね、練習に最初から毎回来れる子そんなにいないみたいよ。あたしもできるだけ練習に出るようにはしてはいるけど。美咲ちゃんも、今からでも大丈夫だし、これそうにない時は欠席しても大丈夫だから、コーラスで参加してよ」
ということで、今年もゆるやかなスケジュールながら第九の舞台に乗ることとなった。
御勢学園大学法学部修士課程の入学試験対策を取りながら、私は卒業論文のためのアンケートも作成していた。
やっていることは高校三年生の秋とあまり変わらない気がする。ただ、その範囲が広がった。
協力してもらう対象も、自分の考えられるあらゆるところを想定し、お願いして回った。
これじゃああまり前期と忙しさは変わらないな、と思いながら日々を過ごしていた。
アンケート用紙がポツリポツリと戻ってくる頃。
練習に出るだけ出た三度目の第九の舞台が迫ってきていた。
「美咲……」
いつになく元気のない、ちょっとやつれた響が私を捕まえた。
「響、どうしたの?」
「やっぱり、今回の演奏会、コンミス取れなかった……」
「私、吹奏楽とかオーケストラとかほとんど分からないけど、そんな大事な役って今頃決まるの?」
ソリストのオーディションは夏前に行われた。それから考えると、コンミスのような大事な役が今決まるのは異例な気がする。
「本当はね、もっと早く決まるものなんだけどね。今回はギリギリまで決まらなかった。オーディションもやったのよ。話し合いもした。それでも、決まらなかった。共同コンマスっていう手もあったんだけどね」
「コンマス……ってことは、ライバルは男の人だったの?」
響は黙って首を縦に振る。
「こんなギリギリまで競り合ったんでしょ、その人と響は。それってすごいことだと思うよ。私はソリストオーディション一次であっさり落ちたんだもん。ここまでこれただけでも、響はすごいと思うよ」
「悔しい……」
「そりゃあそうだよね。絶対やりたいって言ってたんだもんね。あっさり響が前からやりたいって言ってたことを諦めちゃうのって、もったいなさすぎると思うんだ。だから、その気持ちを忘れちゃだめだと思う。まだ、挑戦する機会ってある?」
「春の定期演奏会かな……」
「響、頑張り屋さんだから、きっとできると思う。今回もギリギリまで競り合えるくらいの力があるんだから、大丈夫だよ」
「ありがと、美咲。結局、二人で舞台の真ん中には立てなかったね」
「夏前にはわかってたことだよ。私はド素人なんだし」
「定期演奏会に向けて、頑張ってみる。ありがとね、美咲!」
そう言って、響は去って行った。
今回の第九はずいぶん顔ぶれが変わった感じがする。
同じ学年で去年まで出ていたヘルプの子も、今年は出ないという子が多い。
匠と智也も今年は第九には出ないとのことだった。それだけ教育実習が大変だということだろう。
来年は就職活動でさらに減って行くのだろうか。来年は、私は、どうなっているだろうか?
リハーサルで初めて、私たちはソリストの方たちと合わせることとなった。
直接顔を合わせることはないが、流石に声はよく通る。ホール全体に響き渡らせることのできるあんな声、私にはやっぱり無理だ。
あのオーディションは無謀な挑戦だったな、と改めてコーラス側に立って思う。
そして三度目の第九の演奏会が、滞りなく終了した。
指揮者の先生と握手をしているのは男の人だ。あの人が、響と最後まで競い合ったのか。
響の音、そういえばきちんと聞いたことなかったな。一度、落ち着いたら何か聞かせてもらおうかな。
一昨年より、去年よりも落ち着きなく過ぎて行った三度目の第九の演奏会だった。
冬休みになり、実習や勉強で多忙な渉のかろうじて空いている日に、久々にうちでのんびり過ごす。
「渉、忙しいでしょ」
「まあな。って言っても、まだそれほどでもないか。家に帰れる余裕あるしな。美咲こそ、一番忙しい時期なんじゃないのか?」
「うーん、山場は来年の春頃かな。試験を控えながら、教育実習にも行かないといけないしね」
「教育実習、行く場所決まったのか?」
「まだ。出身校だろうから、御勢の附属高だろうけどね」
「まだしばらく、お互い忙しいな」
「そうだね。でも、頑張らないとね。あ、そういえば、優子お姉ちゃんから内祝いって届いた?」
「ああ、届いたぞ。俺らの好みと言うか、くせと言うか、そういうものを見抜いたって感じだったな」
「小さい頃から、お互いにタオルケットが大好きだったもんね、私たち」
「そうそう、もうすっごく小さくなってるけど、いまだにうちにあるな、あれは」
「私も!」
私と渉が一緒に遊び始めるようになったのがいつ頃だったかはもう思い出せない。
ただ、お互いに自分の気に入ったタオルケットを持っていて、昼寝する時は絶対にそれがないと寝ない子達だったそうだ。
そのことを優子お姉ちゃんは覚えていたのか。内祝いとしてふわふわの、気持ちのいいタオルケットを贈ってくれた。渉のところにもそれが届いたのだろう。
「ちょっと気になって調べたけど、かなりいいものみたいだな、あのタオルケット」
「そうなんだ!って、これ?」
早速気に入って使っている実物を渉に見せる。
「そうそう、これ。ちょっと色味が違うけど、素材は同じみたいだ」
「お揃いを選んでくれたんだね、優子お姉ちゃんたち」
「みたいだな」
「嬉しい」
「ちょっと照れるけどな」
「優子お姉ちゃんたちからのクリスマスプレゼントだね」
「もうそんな時期なんだな、あっという間だ」
「渉くん、美咲、晩ごはんよ」
その日をクリスマスのご馳走としてくれたお母さんに感謝だ。
あっという間に年が明け、後期試験がやってくる。
その頃、響から嬉しい知らせを聞いた。
「今度の定期演奏会、コンミスが決まったの! あの時の悔しさ、バネにしてがんばったよ」
「よかった! がんばったね、響」
「美咲が後押ししてくれなかったら、私もう折れてたかもしれない、時期が時期だったし」
「そうだよね……」
響の志望は自治体、いわゆる公務員だ。
「今回の定期演奏会で、自信を持って引退できる。ありがとうね、美咲」
「ううん、私は何もしてないよ。頑張ったのは響だから」
そして、後期試験が終了し、単位が出揃った頃。私たちはそれぞれの進路へ向けて、本格的に走り始めていた。
その時、響からもらった管弦楽団の定期演奏会のチケット。毎年もらっているものだったが、今年は特別だ。
例年渉と行っているが、今年はどうだろうか。家にいるだろう時間を見計らって電話をしてみる。この電話も随分使い込んだ感がある。
「もしもし、渉?」
「おお、美咲。どうした?」
私は例年通り管弦楽団の定期演奏会のチケットがあることと、今年は親友がコンサートミストレスであることを告げた。
「えーと、コンサートミストレスって、指揮者と握手してるコンサートマスターの女性版ってやつだよな? すごいな、その子」
「その日、行けそう?」
「そうだな、なんとかしてみる。なんとかできない感じでもないし」
「ありがとう、渉」
そして、いよいよ定期演奏会当日がやってきた。
優子お姉ちゃんや桜小路先生に贈った花屋で花束を作ってもらい、二人で差し入れとして会場へ持って行く。
すでにコンサートミストレスの響には各種の差し入れが届いていた。
そこに加わる私たちの花束。
高校時代、定期演奏会の日には優子お姉ちゃんもいろいろな差し入れを持って帰ってきた。
響もこれだけの差し入れ、持って帰れるのかな。
毎年のことだが、管弦楽団の演奏には圧倒される。
渉と二人で聴き入る。
そして、演奏の最後。第一バイオリンの一番前で演奏していた響が、指揮者の先生と固い握手を交わした。
その顔には達成感が溢れていた。
「かっこよかったな、あの子。さすが、長く続けているだけのことあるな」
「本当は、第九の演奏会でコンミス狙ってたんだけどね」
「ああ、去年の第九、行けなかったな。コンミスは取れなかったってことか?」
「うん、すごく悔しそうな顔してて。だから、その悔しさを次にぶつけておいでって言ったの」
「それが今回の結果ってことだな」
引退した響は、本格的に試験勉強に取り組み始めた。
他の子も、就職活動が本格的に始まり出した。
私も、専門科目と英語の試験勉強を継続していた。
そして、大学四年生の春がやってくる。




