第八話 「夢、そして恋」
事件についてはひと段落ついた。
次に私を待ち受けていたのは内部進学にかかる試験への勉強と、学会発表のためのレポート作成だ。
「匠、桜小路先生の論文読んだ?」
「ああ、ずいぶん前に読んだぞ。それがどうかしたか?」
「あれから、桜小路先生何か言って来た?」
「俺には……指導案を考えてみろって言われたな。高校生向けの指導案を見たのは初めてなのに、いきなりさらに指導案を考えてみろって……ムチャだなと思ったよ。まあ、一部だけど、桜小路の指導案を真似て作ってみたんだけどさ」
「桜小路先生、やっぱり結構いろいろ無茶振りしてるんだね……」
「今日の放課後、論文の読み合わせと、レポートの突き合わせでもやるか? お互い違うことやってるなら、たまにはお互いのレポートの突き合わせも必要だろ」
「いいよ」
期末考査までは約一ヶ月。渉の最後の高校総体も近づいている頃だ。
放課後の部室。いつものソファーではなく、長机にパイプ椅子の、各科会や全体会などで使う場所に資料を広げて話し合いを始める。
「みさみさは今までやってきたことを桜小路の発表に活かせるからいいじゃないか。俺、共通点と言えば、昔桜小路に指導案について聞いてレポートにしたぐらいだぞ。しかも小学校の」
「でも、教えることに関しては、私よく分からない……。指導案についてはお父さんにちょっと聞いたけど、あまりよく分からなかったし」
「みさみさ、お父さんが先生だもんな。先生になりたいって思ったことないの?」
「ないなぁ。先生って、何でもできないといけない感じだし、私みたいに興味や関心が偏った人間は先生には向いてないんじゃないかな、って思う」
「先生って、そんなに大げさなものでもないと思うけどな。俺も、そんなに大した人間でもないし、いろいろと興味や関心も偏ってると思う。でも、子どもとふれあうのが昔から好きだったんだ。それだろうな、俺の意志を突き動かしてるのは」
「私、歳の近いいとことかいなくて、あんまり子どもと接する機会がなかったんだよね。一番歳が近くて優子お姉ちゃんくらい。だからかな、あんまり子どもと接するのは得意じゃない……」
「そういう人だっているもんさ。みさみさは自分のやりたいことを見つけてるなら、それを貫くのが一番いいと思うぞ」
「ありがとう」
「で、みさみさは桜小路に何をしろって言われてるんだっけ?」
「論文の大筋に間違いがないかと、指導案に加えるべきことはないか、って言われた。でも、あまり細かいこと加えても眠くなっちゃうし、高校生向けにどういうことを教えたらいいんだろう?」
「桜小路の論文には、模擬裁判も入ってたな。まあ、ざっとした形だったけど。その中に、みさみさの知識をいれていくといいんじゃないか?」
「じゃあ、匠は模擬裁判の指導案を書く感じ?」
「まあ、その前の知識を定着させる段階とかも必要なんだけどな。そのあたり、桜小路にも書いて欲しいな」
「じゃあ、その方向でレポート作成してみようかな」
「次、いつ桜小路の面接とレポート提出だっけ?」
「来週末かな?」
「それまでなら、ちょっとは時間があるな。みさみさ、また時間作って打ち合わせしようぜ。レポート提出の直前にでも」
「うん、そうだね」
私たちはずいぶん暗くなった道を帰宅した。
「俺の最後の総体だ、見に来てくれるか?」
練習と勉強に明け暮れていた渉が、久しぶりにうちに来た。
「もちろん行く! 渉の晴れ舞台だもん」
「今年も自由形百m一本に絞る。諸事情で、俺はこの総体で引退することに決めた。だから、最後の高校総体だ。美咲には、ぜひ見に来て欲しい」
「分かった。絶対に見に行く」
「去年のお守り、大事にしてる。今年は、自分の力を全部出し尽くしたい」
「渉ならできるよ、信じてる」
県高校総体、水泳競技。渉は、自由形百m予選、準決勝と順調に勝ち上がった。
そして、渉はとうとう渉も私も夢見た、総体の決勝の舞台に立つことができた。
「渉、がんばれー!」
私は声を張り上げて応援する。
スタートの号砲が鳴る。百mという距離はあっという間だった。
渉は五着だった。しかし、晴れ晴れした顔をしていた。
「渉、全力で泳ぎ切ったんだね……」
タイムが出た後、渉は小さくガッツポーズをしていた。
その夜、渉から電話があった。
「美咲、見に来てくれてありがとうな。俺、最高の結果で総体を終わることができた」
「決勝進出おめでとう。渉、タイムが出た時、小さくガッツポーズしてたけど、なんで?」
「俺の自己ベストタイムだったんだ。俺のこの総体の目標は、自己ベストを出すことだった。だから、俺は潔くこの部を引退できる。あとは、後輩たちに安心して任せられる」
「そうだったんだ。おめでとう、渉。本当に、よくがんばったね……」
「ああ、今日くらいは、ゆっくりしたい……」
「そうだよ、今日くらい、ゆっくりしても悪くないよ。渉の次の目標があるから、今ここで引退する。先はまだ長いよ。ゆっくり行こうよ」
「本当に、今日はありがとうな。美咲には、三年間、支えられたよ。美咲の支えで、俺の今日がある」
「これからも、ずっと支え続けるよ。私も渉に支えてもらったから。お互い、これからまた新たな目標に向かって、がんばろ」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、今日はもう休んだら、渉?」
「そうするか」
「おやすみ」
「おやすみ、美咲」
総体を終えた渉は一層勉強に拍車をかけ始めた。
最近は家に遊びにくることもめったにない。日々のことを電話で十分程度話すのが関の山だ。
私も、どうしてもこれからの試験の成績は落とせないし、学会発表へのレポート作成もある。
忙しくなったお互いを繋ぐのが渉からもらったこの電話だった。
そして、私は一つ歳を取った。
今年はあのようなことがあったがゆえに、誕生日を迎えられたことがありがたい、と思った。
桜小路会ではあまり大げさな誕生日祝いということはしないのだが、その日だけは部室に集まって久しぶりの桜小路会を行った。ささやかではあるが、ケーキを買ってきてもらっていた。
家に帰ってきて、まず驚いたのは渉がお母さんと一緒に料理を作っていることだった。
「え……」
「お帰り、美咲。飯、できるからな。待ってろよ。俺の手作りだ」
「渉くんが台所貸して欲しいっていうから、私と二人でご馳走を作ることにしたの。渉くん、唐揚げ作りたいっていうから、いろいろ私も手伝って一緒に作ったのよ」
そこにはあからさまに三人分にしては大量すぎる唐揚げがテーブルに盛り付けてあった。
「美味しそう!」
「今まで、ずっと美咲の誕生日って総体と重なっててきちんと祝えなかったからさ。今年はあっと言わせてみたかったんだ」
「なかなかいい手際だったわよ、渉くん」
「ありがとうございます」
「早く着替えて、手洗って、うがいしておいで、美咲。熱いうちにいただきましょう」
「はーい!」
ワクワクした。渉の作る料理なんて、食べるのは初めてだ。杉谷の調理実習でも違う班だったから、食べたことはない。
きちんと着替え、うがいと手洗いを済ませて台所へ戻る。ご飯と味噌汁も盛り付けられて、いつでも食べられる状態になっていた。
「いただきます」
まずは唐揚げに手を伸ばす。さくり。衣の食感と鳥肉の旨みがちょうどいい。
「美味しい、美味しいよ、渉、お母さん」
「よかったわね、渉くん」
「ありがとうございます、いろいろ教えていただいたおかげです」
私はパクパクと食べていく。止まらない。
「美味しい! 止まらないよ」
「美咲、お父さんの分も残しておくのよ」
あ、そうか。お父さんの分を残しとかないと。
「ところで、お母さんと渉は?」
「私たちも食べましょうか」
「そうですね」
「まだ食べてなかったの?」
三人分残すにはずいぶん少ない量だ。特に、食べ盛りの渉には物足りないだろう。
「俺は家に帰れば何とかなる。美咲の誕生日なんだ、お母さんとお父さんの分を気にしてくれればいい」
「鶏肉ならまだあるから、揚げればいいのよ。渉くんも、食べて」
そうして、思わぬ十八歳の誕生日最後のサプライズはこうして幕を下ろした。
その食事中に、優子お姉ちゃんから「十八歳おめでとう」のメールが届いていたことを知ったのは、食後しばらくしてからのことであった。
藤の花はあっという間に咲いては枯れて行った。それほど慌ただしい生活をしていた。
期末考査が迫っているわけではないが、苦手な科目を落とす訳にはいかない。私は放課後も匠と打ち合わせをしない日は杉谷で買った教科書も引っ張り出して復習をしていた。
桜小路会メンバーも、それぞれの進路対策を始めていた。
御勢学園大学文学部に社会学科の開設が正式に認可され、今まで進路を悩んでいた早希や百花は進路をそこに定めたようである。
福祉系の資格を取ることもできるようで、他大学にいくか正式認可が下りるかを待っていた早希は安心していたようだった。今から他大学への受験対策は精神的にも辛いとのことだ。
百花は福祉系の資格というより、そこでさらに社会対策について考えたり、ボランティアやNPOについて関わって行きたいと言っていた。
匠に祐樹、麻衣子、優については進路希望に変化はない。匠や麻衣子、優のような内部進学希望組は今の勉強を続けて行くことだが、祐樹のように他大学への進学を希望している子はその大学への入試対策も行わなくてはならない。もちろん、面談等でその点はフォローされ、授業やそれ以外でも対策を行ってくれる。それは、他大学への推薦に対しては他校より不利な形式になってしまう内申をとる御勢学園大学教育大学附属高等学校は、一般入試に力を入れざるを得ない。そのため、他大学へ進学する生徒はほぼ一般入試で合格している。逆に、他大学からの推薦入試の話はほとんどない。
匠との打ち合わせもあまり進まなかった。とりあえず、前回提出したレポートの読み合いをする程度にとどまった。
放課後の桜小路会も、あって週一回、ここ最近はほとんど行っていなかった。
ある日の放課後。私は杉谷で買った教科書を持ち込み、化学の復習を行っていた。
「美咲、化学苦手だもんな。俺、化学だったら何とか教えられるぞ」
優だった。優は化学だけでなく、どの科目もかなりの成績である。学年でもトップクラスだ。
「じゃあ、お願い、教えて。私、期末と二学期の中間で成績落とすと、内部進学が危なくなるって……」
「よし、任せた。化学とか理系科目は、最初を理解できないと、どんどん分からなくなっていくからな。いっそのことだ、最初に戻るぞ。分かることだったら、言ってくれ。分からないことを中心に復習していくから」
「ありがとう、優。お願いします」
それから、あたりが暗くなり、桜小路先生が「おい、今日はいい加減帰れ。勉強は毎日やって身につくものだぞ」と言いにくるまで私は優に化学の復習をしてもらっていた。
「遅くなっちまったな、近くまで送るぜ」との言葉に甘え、珍しく優と二人で帰宅することとなった。
「美咲、他の科目もかなりの成績取らないとヤバイんだろ?」
「うん……」
「わかった。俺だけじゃ全科目教えきれないし、そもそも俺は教えるのそこまで得意じゃないしな。美咲は社会系は自力で大丈夫だろ?」
「うん、何とか」
「困ってる科目は?」
「数学と化学、生物あたりかな……」
「もろに理系科目ばかりだな。俺も手伝える範囲は手伝うよ。ただ、生物は期待しないでくれ……」
「優、生物苦手?」
「ああ。実は一番苦手な科目だ。内部進学希望だと捨てられないから困るよな……」
「東都経済大受けようとか思わないの?」
「俺、この街が好きなんだ。できれば、離れたくない。この街で一人暮らしする分には大歓迎なんだが」
「そうなんだ。川口先輩を追いかけようとしてるのかと思ってた」
「……」 優は黙り込んだ。
「ごめん。まだ心の整理がついてないんだよね」
「俺、今、麻衣子と付き合ってる」
「ええっ!」
驚きのあまり、自転車から転げ落ちそうになった。これまで一切気がつかなかった。
「とうとう桜小路会メンバー内で……」
「麻衣子といると、楽しい。ああいう性格の子だし。でも、やっぱり、川口先輩とは違うな、って思う……」
「当たり前だよ。川口先輩の代わりに麻衣子と付き合ってるんだったら、麻衣子がかわいそう。麻衣子そのものを見てあげて。麻衣子は川口先輩じゃないよ……」
「そうだよな、そうなんだよな……」
「麻衣子のこと、好き?」
「ああ、好きだ」
「なら、川口先輩と重ねるのはやめて、麻衣子そのものを見てあげて。じゃないと、麻衣子も川口先輩も悲しむよ……」
「わかった。すまない、こんな話になって。でも、美咲も気をつけろよ。風の噂だけど、美咲に彼氏がいることを知らない奴等が、匠と美咲が付き合ってるって誤解してるみたいだから」
「……学会の発表の打ち合わせで一緒にいるから?」
「事情を知らない奴等は好き勝手に物を言う。俺は知っている限り、そう言った間違いはただすようにしているが、どこまでその噂が広まっているかわからない。気をつけろよ」
「……って言っても、これに関しては仕方ないよ……」
「だったら、匠に彼女がいることを証明するしかないな。って言っても、他校か……」
さくらちゃんには、別に彼氏がいる。そして、今匠が付き合っているのは智也……。口が裂けても言えない話だった。
「おっと、遅くなっちゃったな。この辺りで大丈夫か?」
「うん、いつも匠と帰るときもこのあたりで別れるし」
「気を付けて帰れよ」
「また明日ね」
「じゃあな」
それから、私は匠と打ち合わせをしない日はほぼ毎日放課後に何らかの科目の復習をするようになった。
自分だけでなんとかできる科目もあれば、さっぱりお手上げな科目もある。
優があのあと桜小路会メンバー、あるいは麻衣子に話をしたのだろうか、私が放課後に勉強を始めると誰かが「美咲、大丈夫? 手伝おうか?」と誰かが声をかけてくれるようになった。
そして桜小路に「帰れ」と言われるまで勉強を教えてもらうのだった。
その輪は日に日に広がり、とうとう桜小路会メンバーを超え、その他の社会部やほとんど話したことのない国語部の子、英語部の子まで、部活の合間、もしくは自分の勉強の合間を縫って私の勉強を手伝ってくれるようになった。
「私、実は数学ちょっと得意なんだ」
「生物、好きだぞ。任せろ」
「世界史、もう少しつめたほうがいいね。その方が安心できるよ」
三年一組のみんなが、部活の枠を超え、自分の勉強もあるだろうに、私の勉強に付き合ってくれた。
「水野くんと付き合ってるの?」勉強の合間によく聞かれた。
「違うよ。桜小路先生の学会発表の共同研究者なだけだよ」
「なーんだ、そうなんだ。いつも一緒にいるから、てっきり付き合ってると思ってた」
「水野くんとばかり一緒にいるわけじゃないのに……」
「うーん、傍目で見ててね、何かあやしいかんじを受けたからさ。戸塚くんは福田さんと付き合ってるみたいだし、安田くんが西山さんにメロメロなのは見ててバレバレ。それと同じ感じを受けるよ」
「そうなんだ……」
とはいえ、渉の話をする必要はない。匠と付き合っていることを否定しておけばいい、と思っていた。
その間にも、各科会は数回開かれていたが、私と匠は桜小路先生の共同研究者に指名されて以降、各科会から外れ、桜小路先生の研究の管轄に置かれていた。
これも異例で、去年の共同研究者だった川崎先輩は地理科のリーダーだったため、地理科会を開かざるを得なかった。それも川崎先輩にとってはプレッシャーになったのであろう。 私たちは参加は自由だったため、私は一度だけ公民科会へ参加した。私に発表義務はないが、進捗状況を軽く口頭で説明した。
公民科会の後、私は麻衣子を部室へ呼び、ソファーに座ってお茶をいれ、優の話を切り出した。
「うん……実は、私、優のことが前から好きだったんだけど、優は川口先輩と付き合ってたし、完全に諦めてた」
「そうだったの?」
「だから、川口先輩が卒業してから、抜け殻みたいになった優を見てるのが辛かった。私から言ったの。付き合ってって。川口先輩のことが忘れられなくてもいいって」
「……そうだったんだ……」
「今は、私、幸せだよ。たとえ短い期間でも、本当に好きになった人と付き合えることが嬉しい。優の中にまだ川口先輩がいるのはわかってるけど、でも、それでもいいの」
「そう、今、幸せなんだね、麻衣子」
「うん、私は幸せだよ」
そうして、この地域にも梅雨入りが宣言された頃、私の復習もずいぶん進んだ。
「みさみさ、ずいぶん勉強進んだみたいだな」
「うん、やっとでもみんなに追いついた感じ」
「成績落とせないなら、必死だよな。期末まであと二週間か。今日あたり、レポートのうち合わせやるか? 試験前最後の」
「最近レポート全然手つけられてないけど……」
「とりあえず、期末終わったら桜小路が呼び出すのは間違いない。これまでのまとめとプラスアルファでいいじゃないか」
そう言われればそうだ。前回と全く変わらないレポートでは桜小路先生にも怒られてしまう。
「じゃあ、放課後部室で打ち合わせしようか」
周囲へ情報が正しく伝わってきたからだろうか、二人を特別な目で見る子は減っているような気がした。
「マジで! 俺ら、そんな風に見られてたのか……」
「私も驚いたよ。お互い、彼氏いるしね」
「まあな」
「優と麻衣子のことは知ってた?」
「ああ、何となくだが、気づいてはいた。みさみさが入院してた頃だったからな、付き合い始めたのが」
「全然気づかなかった」
「でも、あの二人、うまくいかない気がするな、俺。優が川口先輩を追いかけすぎてる。麻衣子がかわいそうって思うくらい」
「でも、麻衣子は今の状態でも幸せなんだって。優の中に川口先輩がいても」
「恋愛って、それぞれだな」
「そうだね……」
お互いがお互いを想い合う恋、相手が誰を思っていても自分の好きになった人と付き合うことができることに幸せを見出せる恋、そして自分の好きになった人の彼女を蹴落としてでも自分のものにしようとする恋……最後のパターンは事件を起こしてまでも成就しようと思った恋なのだろうか?
「みさみさ、レポートやるぞ」
「うん」
これ以上深く考えるのはやめよう。恋愛の形はそれぞれだ。
そうして、私たちは前回課題としてきた「模擬裁判」についての話し合いを詰めて行った。
「テーマは?」
「成人の事件によくある、覚せい剤とかは不向きだよね……」
「と言って、高校生と殺人、殺人未遂は少年法が関与するから、難しいよな……」
「それに関しては、もう成人扱いでいいと思うよ。裁判員になるのは選挙人名簿に載ることが前提だし」
「そうか……。みさみさ、けっこう裁判傍聴行ったりしたんだろ? 何か参考になる判例ないか?」
「そうだね……保護責任者遺棄、っていうのは傍聴したことあるかな」
「どういう事件だったんだ?」
「母親が、生んだ子供を育てられないってどこかの家の前に置き去った、って事件だったかな」
「覚せい剤所持、よりは高校生向きかもしれないな」
「家庭科にも関連しそうだね」
「ああ、家庭科でもやったな、保育に関すること」
「それで桜小路先生に提出してみる?」
「一気に指導案は作りきれないな。案として提出するくらいだ。期末近いし」
「そうだね」
「とりあえず、まだ各自でレポート提出かな」
「そうなるかな」
「まずは、期末を乗り切らないとな。みさみさは期末が特に大事なんだし」
「……うん」
「さて、俺も頑張らないと、智也と一緒に教育学部に行く約束してるから」
「へえ、そうなんだ」
そうして、今日も一通り匠と智也の話を聞くことになった。
「遅くなっちゃったな。帰るか、みさみさ」
「帰ろう、匠」
「そういえば、雨の日はどうやって学校来てるんだ?」
「カッパ着て自転車」
「バスは……乗りたくないんだな」
「うん……やっぱり怖くてね。大雨だな、って思う日は親に送ってもらうよ。そんな日はちょっと傷が痛むしね」
「やっぱりそういうことがあるんだな。本当に、無理するなよ。なんだか今までのみさみさと変わらないから、今まで通りの接し方しちまう。痛い、辛いとかあったら、我慢しないで言ってくれ」
「うん、無理しないように気をつけてるし、定期的に病院に行ってお医者さんにもきちんと診てもらってるから。大丈夫」
「なら、いいんだけどな」
「ところでさ、匠は私とか早希嬢、百花姉様には特別な呼び方するのに、麻衣子だけは麻衣子って呼ぶよね。違和感ないの?」
「俺のいとこに、同じ漢字の麻衣子ってのがいるんだ。今中学生かな。よくその家に遊びに行ってて、麻衣子、麻衣子って呼ばれてるの聞いてたから、麻衣子に関しては違和感なく呼べるな」
「へえ、それは初耳」
「でも、他の女子を名前で呼び捨てするってやっぱり抵抗がある。市川……もさくら、っていうより市川、って感じだったし」
「ふーん」
そういう話をしているうちに、いつもの分かれ道に到着した。
「じゃあ、また明日な」
「またね、匠。気をつけてね」
梅雨とはいえそれほど大雨を経験することもない空梅雨のまま、梅雨明けが宣言された。
カンカン照りが続き、セミも鳴きはじめたころ、私の内部進学の可能性をかけた一学期の期末考査が始まった。




