第九話 「いいお茶、その理由」
あれから原香奈子の話はぱたりと止んだ。
そして私は、学会の話にまぎれてすっかりとその話は忘れてしまっていた。
夏の風が完全に秋の風に、そしてもうその空気の中に冬の雰囲気を感じ始め出した頃、いよいよ京都での学会に先輩たちが出発していった。
学会には、島本先輩と自分もついて行きたい、と言い出した川口先輩が同行したとのことだ。
いくら桜小路先生がついているとはいえ、あの二人だけを一緒にするのはね、と最後まで心配していた川口先輩だ。発表が無事に終わるまで見届ける義務があると思っていたのだろう。
自分の勉強のために聞きたいこともあったのだろうか。川口先輩は東都経済大学の経済学科を目指しているそうだ。御勢学園大学には経済学部もあるが、他の大学で経済学を専門的により深く究めたい、と言っていた。
先輩たちの真意は分からないが、ただただ、残っている私たちは学会の成功を願うだけである。
無論、土、日曜にかけて学会は行われるため、前泊の金曜日が桜小路先生は出張扱いとなり、桜小路先生の授業も自習だ。ホームルームも二組の先生が代わりにしてくれた。
この学校ではそのようなことはよくある話、クラスの誰かが何らかの事情で数日間学校を休むこともしばしばだ。
「先輩たち、行っちまったな」
「相変わらず、みんな会話もろくすっぽしないような有様だったがな」
「桜小路先生がいるから大丈夫だとは思うけど、川崎先輩、大丈夫かな」
「明らかにげっそりしてたよね」
「川口先輩も、心配なんだろうね」
「俺たちも、誰かが来年、ああやって桜小路に共同発表者として指名されるんだよな」
「誰になるんだろうね」
「みんなに可能性があるんだからね」
「まあ、誰が桜小路に指名されようと、俺らは協力を惜しまない。それが誰にとっても一番いいだろう」
そして、先輩たちはやり遂げた、という顔をして帰ってきた。
部室に集まり、お茶を飲んでいる。そこに桜小路先生の顔もある。
さらに、山崎先輩、清水先輩など、学会には参加しなかった先輩たちも集まってきて、とても和気あいあいとしたお茶会が繰り広げられていた。
私たちはその様子を遠くから見つめ、「最後は、うまく行ったんだな、先輩たち」と胸をなで下ろした。
二学期の学期末考査期間が始まった。
一学期と変わらず、提出物とこの試験、そして日頃の生活態度、さらに出席日数で成績が決定される。
日頃学習していることはセンター試験から御勢学園大学の入学試験内容までであるが、試験内容も一学期よりは難しくなっていた。
「あーー! 試験が少ないっていうのはいいけど、その分範囲が広いのはキツい!」
「初日からそういうこと言うなよ、早希嬢。残り日程のモチベーションが下がる」
「でも、確かに、疲れた……」
「難しかったよね、今回……」
杉谷でももう二学期の期末テストが行われているのだろうか。学期末考査が近づいてからは渉とは電話でしか会話していなかった。
渉も塾通いと練習に追われ、なかなかうちに遊びに来れるような時間も取れなくなってきていた。
そういうことを考えていると、ちょうどのタイミングで着信メロディーが鳴る。渉からだ。
「おっす。忙しい時に、すまないな」
「そっちも、忙しいんでしょ?」
「ああ、体力には自信があると思ってたがな、テスト前ってやっぱりつらい」
「部活は休みでしょ?」
「ああ、一応な。でも、たまには体を動かしておかないと、テスト明けの体が重くてよ」
「渉らしいね」
「お前は? そろそろそっちの学校に行って一年になるけど、授業とかついて行けてるか?」
「真面目に聞いてれば大丈夫、なはず……」
「おいおい、大丈夫か?」
「今、期末テスト中でね、かなり難しい」
「やっぱりそうか。私立だし、授業も難しくなるんじゃないかとは思ってた」
「まあ、授業って言っても、もうほとんど入試問題の演習だけどね」
「俺らも、センターとかの演習が増えてきたな」
「うちの学校は内部進学希望が多いから、テストとか手抜けないのが厳しい」
「テストが極端に少ないって言ってたよな、御勢学園大附属は」
「だから学年末必死なんだよ」
「そうか、すまないな、貴重な時間を」
「ううん、話ができてスッキリした」
「俺も赤は取らないようにしないと。俺も、優子姉ちゃんと同じ医学部三枠狙いだから」
「え! そうなの?」
「何も、驚くことはないだろう。目標は高く持っておかないとな」
「じゃあ、お互い、頑張ろうね」
「ああ、頑張ろうな」
二学期の学年末考査は、また科目ごとの差が出てきた結果となった。
相変わらず文系科目は余裕を持って赤点を越えられるのだが、理系科目は赤点に近い点の科目も出てきた。
「う……まずいぞこれは……」
一度でも赤点を取ってしまえば、限りなく内部進学の道が狭くなる。それだけは避けたい。
それからしばらく、私は真理先生の教えに戻り、教科書の復習に戻った。
理解できていない点の復習をすることで、苦手な点を潰すことに専念した。
そのため、研究が少しずつ遅れ気味になっていた。
今年も残すところあと二週間と言った頃、ちょうど去年の今頃なら御勢学園大学教育学部附属高等学校への転入試験を受けていた頃だ。
今年も転入試験は実施されたようで、土曜日は一日学校への立ち入りを禁止するという連絡があった。
毎月定例の桜小路先生の面談。
「中村さん、最近少しペースが落ちてないか?」
「……ペース?」
とぼけたふりをしていたが、自分でも分かっていた。
「日常の勉強と社会部の研究、それを両立させられる。それを見込んで去年の今、私はあなたを合格とした。無論、話は聞いているから、体を壊すほどまで無理をしろとは言わない。ただ、ここにいる以上、両立が絶対条件なのだよ。今回はレポートの提出はいい。次回、どのくらい研究が進んだかまた報告してくれればいい」
「……はい」
確かに、今回のレポートは前回とあまり変わったものではなかった。それゆえ、桜小路先生との今回の面談が憂鬱だった。
桜小路先生に指摘され、改めて研究にも力を入れないといけないな、と思い、その足で部室に向かった。無性にお茶が飲みたかった。
部室は無人だった。こういう時には美味しいお茶、と思い、いいお茶をいれる。
電気ポットがお湯を沸かしている間、私はこれからどうしようか、と考えた。
とりあえず、遅れている研究を進めなければ。同時に、教科書レベルの復習を……と考えていると、部室のドアが開いた。
「ああ、みさみさか」
匠だった。
「匠、どうしたの?」
「俺も、今日桜小路の面談だったんだよ。あの部屋、なんだか空気が乾燥しててさ、喉乾く」
「お茶飲む? あたしもお茶飲もうと思ってお湯沸かしてたところだったんだけど」
「おお、さんきゅ」
茶葉が入った急須に二杯分のお湯を入れ、茶碗に注いで匠の前に置いた。
「いただきます。おお、いいお茶だな」
「何だかね、おいしいお茶が飲みたくなって」
「桜小路に何か言われたのか?」
ドキッ。 何かまずいことでも言ったのだろうか。
「ここにあるいいお茶は、もてなし用の他に桜小路にキツイこと言われた奴が飲むことが多いんだよ。だから三ヶ月に一度、千五百円の部費徴収があるんだ。たぶん、このいいお茶がなかったら半年に一度、二千円の部費ぐらいで済んでると思うぞ」
私は、さっき桜小路先生に言われた話を匠に話した。匠は、「ああ、やっぱり」という顔で聞いている。
「桜小路はそういう人間だ。まあ、付き合いが二年ぐらいの俺が言うのもなんだが。あいつは、どっちかというと普段の勉強より研究を重視している。もちろん、進路希望っていうのも無視できないから、普段の勉強をないがしろにしろとは言わないがな。だから今年の先輩たちの学会みたいな揉め事もあった。
でも、みさみさはできるって桜小路に認められたんだろう? そこのところは自信を持っていいと思うぞ」
「そうか、そうだよね……ありがとう」
自分の目の前においていたお茶はすっかり冷めていた。
二学期の終業式。
通知表にここまで緊張するのも久しぶりだ。一学期より少し下がっているくらいで済んでいた。安心した。
出席も今のところほぼ皆勤である。内申点が気になるというのはやはり疲れるものだ。
「ねえ、桜小路会でクリスマスパーティーしようよ」
「あ、それいいかも! 部室にケーキとか買ってきてみんなで食べるとか楽しそう」
「プレゼントはいくらまでですか?」
終業式の解放感で桜小路会は異様に盛り上がっていた。
「誰も出入りしない時間帯がいいよね」
「まあ、冬休みならそんなに出入りもないだろ」
「夏は結構多いんだけどね」
「課題もそんなにないしね」
冬休みは夏休みと違い、大量の課題が課されているわけではない。学会も終わっているため打ち合わせに部室を使うこともない。研究を進めるにはもってこいなのだが、さすがに冬の寒さにわざわざ家を出たがらないのだそうだ。
「じゃあ、いつにする? そのまま二十四日?」
「ごめん、二十四日は先約アリ」
百花が早速パスを出す。
「じゃあ、二十五日でどう?」
「いいよ!」
「俺はいつでもいい」
「俺も基本的に何もないからな」
「あたしも大丈夫」
「じゃあ、二十五日ね、決定!」
そして、今年は桜小路会でクリスマスパーティーを行うこととなった。
「へえ、学校でクリスマスパーティか、面白そうだな」
「二十五日の昼間にね。ところでさ、二十四日、うちで久しぶりに遊ばない? 優子お姉ちゃんも帰ってくるって」
「二十四日か、少し遅くからでいいなら行く。冬季講習が始まる頃だからな」
「分かった。だいたいの時間がわかったら教えて。パーティーしようよ」
「いいのか? やった!」
「楽しみだね」
冬休みが始まり、街はクリスマス、年末年始と浮かれていた。




