第五話 「ふたたびの、夏」
六月。とうとう高校総体がやってきた。
御勢学園大学教育学部附属高等学校から高校総体への出場はないため、去年この時期の体育の時間を高校総体の見学に充てた杉谷高校とは違い、何も変わらない通常の授業が行われる。
御勢学園大学教育学部附属高等学校で体育専攻という生徒も数年に一度いるらしいが、毎年いるわけではないらしい。そのため、体育部というものは常時存在せず、それゆえ高校総体へは出場がないのだそうだ。
渉は、念願が叶い、先輩と二人で杉谷の水泳部の自由形百メートルの代表に選ばれたのだそうだ。
「先輩にはやっぱり勝てなかった。速いよ、先輩は。でも、俺も負けない。他の学校の奴らに負けてたまるか」
と躍起になっていた。
「自由形の俺の出番が土曜日になった。美咲、見にきてくれるか?」
「うん、何をおいても応援しに行くよ。良かった。平日だったら、学校が全然休みにならないから」
「お前の学校から出場ないもんな」
「体育の時間は普通に体育だよ。総体の見学なんてない」
「そういえば、美咲の学校にはプールあるのか?」
「ない。安心したよ」
「ちょっと残念だろ。お前、泳ぐの好きだったからな」
「授業となるとやっぱり……ね。授業には参加できないし、泳いでる人を見ると、きっと嫌な気分になるだろうし」
「そういえば、ちゃんと病院には行ってるのか?」
「行ってるよ。今度、脳波とるって」
「ちゃんと検査もしておかないとな」
「そうだね」
私は作りかけていたフエルトのマスコットと裁縫道具箱を取り出した。土曜までに渡すためには急いで仕上げないといけない。
去年、杉谷高校にいた頃、バレーボール部のマネージャーをしている子が、一人一人にフエルトのマスコットを作っているのを目撃して、「これだ!」と思ったのだ。その年は渉は試合に出ることがなかったため渡すことができなかったが、今年は試合に出るということで時間を見つけては作っていた。
去年作ったものは自分の部屋に飾っている。来年、もっと上手に作れるようにと心に誓って。
そして、今、一番難しい顔の刺繍を繰り返している。何度も縫ってはほどきをくりかえしているところである。
ようやく納得の行く顔が縫えたのはその日の夜遅くだった。
そして、金曜日の夜。
「渉、渡したいものがあるんだけど、今から家に行ってもいい?」
「ああ、やっと飯食ってゆっくりしたところだ。あまり長くは話せないけど、いいか?」
「全然いい! 今からいくね」
「ちょっと渉の家に行ってくる」
「明日渉くん試合でしょ? 早く帰ってきなさいよ」
あれからコツコツと縫い上げ、これまで作った縫い物の中で最高の出来と思えるマスコットを手にして、私は家を出た。
ピンポーン 私は渉の家のインターホンを押す。
「あら、美咲ちゃん、久しぶりね。新しい学校はどう?」と渉の母、美香が出た。
「ずいぶんと慣れてきました」
「お、来たな美咲」
「美咲ちゃん、何が食べたい?」
「お気になさらないでください、すぐ帰りますので」
「あら、そう?」
「で、なんだ?」
「……これ……」
「お、お前の手作りってやつか! 嬉しいな! お揃いの売ってるものっていうのもいいけど、手作りのをもらうっていうのは格別だな」
目尻が下がりっぱなしだ。
「あまり……綺麗にはならなかったけど、がんばった……」
顔が赤くなっているのがわかる。
「綺麗かどうかなんて関係ない。美咲が手作りしてくれたものがそばにある、それだけで俺は百人力だ。ありがとう、絶対に頑張ってくるからな」
目的を果たしたことで、私は帰宅することにした。送っていく、という渉の提案は明日のことを考えて固辞した。
翌日。いつもの市営プールは高校総体の水泳会場となっていた。
自由形百メートルは午後の二時開始。一番暑い時間だ。
とにかく渉の泳ぎを見逃さないように、見やすい位置を確保し、プログラム通りに進行する大会を見つめていた。
来た。三コースだ。
自由型百メートルは予選四組、各組上位三着と上位タイム四人が準決勝に進出、準決勝は二組、各組三着と上位タイム二人が決勝進出である。選手がいかに多いかがわかる。
渉は予選二組を二位で通過した。準決勝進出を決めたが、あまり納得いかない顔をしているように見えた。準決勝は予選が終わり次第すぐ、である。
準決勝は一組の六コースになっていた。スタート。みんな速い。渉も必死についていくが、置いて行かれそうになる。
渉は五位でゴールした。市営プールには観客に全選手のタイムをすぐに分かるような装置はない。かろうじて上位タイム二人に入ることができたのか、祈るのみだった。
決勝進出者が出揃った。渉の姿はそこにはなかった。
私は家に帰り、渉から連絡がくるのを待った。私から連絡はできなかった。
着信メロディーが鳴った。 渉からだ。
「見に来てくれてたな。ありがとう。ごめんな、情けない姿見せちまって」
「お疲れ様でした。すごかったよ、かっこよかったよ、渉」
「俺、集中力きれたらもうダメだから……他の種目には出ない。四百メートルとか、二百メートルとかあるが、他の奴らがエントリーしてる」
「ってことは……」
「今年の総体は終わりだ。次の試合に向けて練習する。俺らの代だけじゃなくて、後輩たちにもチャンスを分けてあげたいし」
「渉らしいね。今日は、ゆっくり寝なよ」
「そうだな。なんだか、どっと疲れた。でも、来年こそは、絶対……」
「うん、渉ならできるよ。信じてるから」
「眠たくなってきたな。今日はもう寝るか」
「うん、もう寝よう。また明日」
「また明日な」
今年の総体が完全に終わり、渉はまた気負わない泳ぎを始めた。ものすごい速さで泳ぐ時もあれば、長い距離をずっと泳ぎ続ける時もあるそうだ。総体は渉にとってプレッシャーだったんだな、と思いながら、たまに会う時に見るカバンに決して格好のいいものではないが、私の作ったマスコットがずっとついていることがすごく嬉しかった。
ジ、ジー クマゼミが鳴き始めたようだ。
「もうこんな時期か」と呟く。
今日は予約していた通院日。脳波の検査をすると主治医が言っていたため、学校を早退して病院に来ている。脳波の検査は一日がかりだ。最近になって検査の日に結果までわかるシステムが導入されたため一日がかりになるのだが、その日に結果がわかるのは安心だ。 主治医には無理を言ったが、できるだけ学校には顔を出しておきたかったため、無理を言ってぎりぎりの時間に病院に行った。
「うむ。この辺り。ここ、ここ……。少し、あやしい波があるようだけど、落ち着いてはいるようだね。発作はない?」
「自分で気が付く範囲ではありません」
「これがこの前の血液検査の結果。飲んでいる薬の成分の血中濃度も充分だし、とりあえずはまた発作が起きないように今の量の薬を続けておこう。落ち着いた状態が続くなら、だんだん薬の量も減らしていけるからね」
「はい」
「いつものことだけど、本当に無理はしないようにね。毎日の生活が大切だからね」
「はい」
学期末考査が始まった。実質的に御勢学園大学教育学部附属高等学校で受ける初めての定期試験だ。
この学校では各学期ごとの定期試験は期末考査のみで、中間試験は三年次二学期中間試験が三年次の最終考査となる以外は原則的に行われない。また、模擬試験も義務ではなく、自分の受けたい大学向けの模擬試験を受ける、もしくは担任の意向でクラス単位で受けるという方式だった。
試験範囲が広く、全科目行われるため、準備が大変になる。さらに、その試験結果の点数が内申点にも響くため、内部進学を目標としている子たちには一大行事なのだった。
「うーん、一度習った内容の復習とはいえ、やっぱり大変だな……」
文系クラスの一組は、特に理系の内容はセンター試験レベルを繰り返す。文系の内容は個人的に国立二次や私立レベルまで応じて行い、内部進学希望者は内部進学向けのカリキュラムが組まれている。二組は逆に、文系内容をセンター試験レベルまで繰り返し、理系の内容を個人の希望に合わせてカリキュラムが組まれているそうだ。
それゆえに共通の試験となると、主にセンター試験レベルから、御勢学園大学入学試験レベルの問題が出題される。この学校の赤点は四十点だそうだ。赤点以下を取ってしまうと、内申点に大きく響くらしい。内部進学希望者や推薦希望者にとっては大きな痛手だ。
「とりあえず、授業でやったこと、試験範囲の問題をしっかり解けるようにしないと……」
真理先生の、「教科書をちゃんと理解すること」という話を思い出す。
試験期間は試験に集中するため、一応部活動も休止される。しかし、レポート提出は毎月なため、悠長に休んでばかりもいられない。それぞれの部活動との兼ね合いがあるため、定期試験は各期に一度になっているのだそうだ。
「美咲、勉強してる?」
「うん、やっぱり初めての定期試験だし、内申とかにも響くと思うとね」
再び席替えを行い、今隣に座っているのは早希である。仲がいい子と続けて近い席に座れたのはくじ運がいい、と思う。
「美咲は御勢学園大に内進狙いでしょ?」
「うん、そうだけど」
「じゃあ、定期試験って大切よね。ほとんどこの試験の点数と出席日数で決まるっていうぐらいだし」
「へえ、そうなんだ」
「あたしも、来年にならないとわからないけど、御勢学園大に内部進学するかもしれないし。試験は大事にしないとね」
過酷な九科目の試験がようやく終了し、「夏休み」な雰囲気がクラス内にも漂い出した。
「おい、お前たち、まだ夏休みじゃないんだぞ。気を引き締めろ」桜小路先生が忠告するくらいだ。
「夏休みも補習があるからな。あと、各部での活動予定があるから、きちんと参加するように」
「まあ、仕方ないよな。「夏休み」なんて、小学生で終わったよ」
「なんだかんだ言って、学校に行かないといけなくなるしな」
「あたしなんて三年前は休みも何もなかったんだからね」
「ま、とりあえず、一学期は終わり終わり。って言っても後五日ぐらいはあるけどね」
「テスト結果も却ってくるしね」
「やめてよ―」
テスト結果の返却は迅速だった。各科目とも、今回は赤点を大きく上回ってクリアすることができた。
「ああ、よかった!」
「みさみさ、知ってたか?」匠が話しかける。
「え? 何を?」
「俺ら社会部で、特に社会科系の科目でもし赤点なんて取ったら、桜小路のお仕置きがあるとかいううわさだぞ」
「……それって……」
「まあ、俺らにはあり得ない話だとは思ってるんだが、かつての先輩で、いたらしいんだ……確か、高知の桂浜にある坂本龍馬像まで連れていかれて説教されたとか」
「……社会科の教師らしいというか、何というか……」
赤点だけは絶対取るまい、と心に誓った。
終業式。通知表を渡され、これが内申に影響するのか、と考える。
杉谷にいた時よりは少し厳し目につけられているが、理系の科目に関しては多少上がっている。
両親は高校に上がったら通知表の評価よりも模擬試験の評価の方を気にしていた。しかし、今は模擬試験もないため、学校内での評価は学期末試験と通知表に頼らざるを得ない。
「まあ、仕方ないわね。やっぱりレベルが高い高校にいるんだもの」
お母さんの反応は思ったよりあっさりとしていた。
「それよりも、これぐらいの成績を取り続けられて、内部進学で御勢学園大に行ければいいんだけど」
考えることは同じらしい。
「今は部活も忙しいのよね? 部活よりも勉強を、って言えない学校だから難しいわ。とにかく、あなたのやりたいように今はやりなさい。十七歳、いい時期よ」
過去を懐かしむかのような顔でお母さんは言った。
補習は終業式の翌日から始まった。夏休みではない、本当の普通の日々が続いた。
およそ二週間が前期補習、八月の後半二週間を後期補習として、その間にたくさんの課題が出るのだそうだ。
そして、その間に、社会部の三泊四日の合宿が行われるとのことだった。
「今年も出たな、夏の友」
現代文、古典、数学、日本史、世界史、地理、現代社会、生物、化学、英語……問題プリントを冊子のようにして夏休みの課題として配布される。それを生徒、教師ともに「夏の友」と称している。
とはいえ、提出を求められるのみで、杉谷高校のように課題テストをするというわけではないとのことだ。つまり、その取り組み具合も評価の一環になるということになる。
「ねえ、せっかくだし、みんなで片付けちゃおうよ、夏の友」
「社会部の合宿の前にある程度カタつけといたほうがいいよな」
「っていっても、どこで? 部室、結構夏休みは出入りあるよ?」
「百花姉様の家……なんて」
祐樹が言って見るだけ言ってみる、という気持ち小さめな声で発言した。
「あ、いいかもそれ! っていうより、みんなの家でやってみたくない?」
「五人の家でそれぞれね。楽しそうね、それ」
「一人でやるよりは効率的かな」
「できるなら、合宿のレポートも作りたいよな」
「じゃあ、みんなが空いてる日とお邪魔できる家を調整しようっと」
早希が楽しそうにパソコンを立ち上げ、カレンダーを開いた。
「それで? 七月の終わり頃にお前の家に五人も集まるのか?」
久しぶりにうちに遊びにきている渉に今日の話をする。
「合宿とまではいかないけど、楽しそうだな」
「本筋は勉強だけどね。渉たちは? 補習とかは?」
「今年は去年より長いな。美咲たちとほとんど変わらないよ。でも、今年は先輩が全国大会までいくから、俺もついて行くことになった。ま、いわゆる補欠だな」
「すごい! 補欠でも全国大会ってすごいよ!」
「五日間ぐらい補習も休むことになるかな」
「仕方ないよ。へぇ、全国大会ってことは、東京?」
「だな。俺、はじめて行くけど、行くと思うと結構緊張するもんだな」
「私も行ったことないな……」
今年の学会は京都で行われるらしい。私には東京に今のところ縁がない。
「何か欲しいものあるか? お土産買ってきてやるよ」
「うーん……」
「何もないなら、適当にお菓子買ってくるぞ」
「うん、それでいい」
「分かった。期待してろよ」
「やったあ!」
夏の太陽が煌煌と輝く頃、五人は我が家へやってきた。




