1.ワタシを包む優しい声
もし、世界の向こう側から歌声が聞こえたら貴方はどうしますか?
幻聴のように不確かで、夢のような曖昧な誰かが貴方を呼んでいたら…
…どうしますか?
私は、会いたい。
会ってみたい。
あの優しくて温かい、歌声の持ち主に…。
《ダブル》 それは、私とあの人を繋ぐ絆。
そして《ダブル》であったことこそが、私の罪。
「待っていて、何時の日か、必ず君を呼び寄せる」
ワタシがワタシとして母の体から飛び出したとき、ワタシはたしかに聞いたんだ。
「ありがとう」って。
誰も信じてくれないだろうけどね。
これはワタシが知っていればいいことなんだ、ワタシは望まれて生まれたんだってさ。
ワタシを見守る温かい眼差しと抱き上げて頬擦りしてくれる人はいなかったけど。
それで、十分。
ワタシの深い部分に響いてくる、優しい歌声は何者よりもワタシを満たしてくれる。
アメリカの片田舎サウスダコタ州の空はいつもどうり、どこまでも澄み渡っていた。
乾燥して茶けた大地は埃っぽい空気を大量生産している。
周りにはトウモロコシ畑がどこまでも広がっている。
六年ほど前に馬鹿でかいミステリーサークルが出現したのがアメリカ中の注目を浴びたが、それ以降なんの話題もない本当の田舎である。
ただ、それもXファイアルが大好きなお隣のジャックおじさんがコツコツ作った代物だ。
テレビのインタビューにホントの事を言ってしまおうとも思ったが、おじさんの嬉しそうな顔を見て言えなかった。
つまり、まあそれくらい平和な所ってこと。
その平和なサウスダコタの埃の中で眠っている男が一人。
紅いレシプロ機の羽できつ過ぎる日差しを防ぎながら、
すー、すーっと静かな寝息をたてていた。
顔には飛行帽をかけているので、その風貌を見ることはできない。
しなやかな長身にボロボロのジーパンを履き、上着はもとは白かったと思われる灰色のシャツそして空軍の紋章の入った年期者のジャンパーを引っ掛けていた。
そんな男に一人の男が近づいてきた。
ただ、その男は目の前の飛行機をよくよく見つめると、そのまま固まってしまっていた。
たっぷり、五分は固まっていただろうか?男はそのままクルリと反転した。
「ネブラスカのオハマまでは車で四時間。四時間もたてば、ハリケーンの暴風域に入るから旅客機は飛んでくれないよ」
男がぎょっとした様に振り返る。
さっきまで寝ていた男がノロノロと起き上がってきていた。まだ年若い青年に見える。
「うちに来たってことは急ぎなんだろ?ここ以外にこの田舎から脱出させてくれるところはないよ」
体に積もった埃を帽子で払いながら男を見てニヤリと笑う。
「……これは飛べるのか?」
男としては当たり前のことを聞いたつもりだったが青年は爆笑した。
「当然。今まで落っこちた事はないよ。整備もちゃんとやってるし、エンジンだってこないだバラしたばっかり」
胸を張って答える声は誇らし気だった。
「バラしたって……この骨董品をか?」
心底、驚いたようだ。
「見てくれは古いがエンジンはそれ程じゃない、ほんの50年ほど前のやつだから。生きてる奴は探せば他にもあると思うし」
「それでも相当なもんだ……全構造、木造で出来てる船だと。いったい何百年前の奴だ」
男の知る限り、木造で飛ぶ船などここ数十年作られていないはずだった。
「愛しのピッグの詮索はいいからさ~うちを使ってくれんのか、くれないのか教えてくれないかな」
こっちも暇じゃないんだよね、と昼寝をしていた青年。
「頼む」
即答した割りに男の顔色は悪かった。
「こんなに揺れるのか!」
最新かそれに近い航空機にしか乗った事のない男にとってキャノピーの開きっぱなしの飛行機の乗り心地は最悪だった。
飛ぶための機械しか載っていない狭い座席には前部座席と会話するための無線の類がなかったので叫ぶしかない。
「こんなもんだ!」
後頭部だけが見える青年が叫び返す。
「それより、下! あれが有名なマウントラッシュモア! 有名だけど実際に見たことはないんじゃない!」
叫ぶと同時に飛行機の羽が四十五度傾く。
「いきなり傾けないでくれーー!!」
重力に引かれて体が空に放り出されそうだった。
思わず見てしまった地面には歴代大統領の顔が二十六あるはずだったが、男には地獄の悪魔たちが笑っているような気がした。
前から青年の爆笑が聞こえたが男には頓着する余裕がなかった。
水平上体に戻った飛行機は飛び立つときの揺れを感じさせない伸びを見せている。
スピードに乗った機体は信じられないほど安定していた。
「良く飛ぶもんだな! ここまでスピードが出るとは思わなかったぞ!」
「そうか? なら、もっとスピードだしてもいいね?!」
「なに!?」
「ハリケーンのスピードが上がったって、このままじゃ追いつかれる!」
「なんだと!」
広域無線機を積んでいるのは運転席だけなので男には今の状況はわからない。
グッとスピードが上がったのはエンジン音でわかった。
二十三世紀にもなると、世界の異常気象のレベルも上がる。
ハリケーンの時速が飛行機を越すことだってあるのである。
「こんな船で逃げ切れるのか!」
「ホンダの六発励起エンジン積んでるんだ! 何とかなるって!」
男が再び声を失う。ホンダは二百年前から宇宙産業にしか手を出していない。
「……静止軌道でドッグファイトでもする気か!?」
再び爆笑。
「そこまで上がったら酸欠で死ぬよ。ただ一番安かったんだよ、このエンジン!」
最後の言葉尻に乗っかるようにして機体がドンッと震える。
「なんだ!?」
質問の声が風を斬る音に掻き消されていく。
だが、すぐに理解した、ハリケーンの影響下に入ったのだ。
後ろで男が何やら喚いているが、運転席の青年にはまったく聞こえていなかった。
三番エンジンと四番エンジンに灯を入れて逃げ切る気だったが、食いつかれた。十五号ハリケーン「リトルボーイ」は予想を超えたスピードで大人への階段を駆け上っているようだ。
「そんなに早く大人を演らなくてもいいのにね」
ポツリと呟くと、三番と四番の安定度を確かめる。
視線が計器上を流れるとともに手と足が動く。
さらにスピードの増した「愛しのピッグ号」が、灰色の雲の間を切り抜ける。
パラついてきた雨に視界がより悪くなる。
「マズイかも……」
操縦桿が左に震えだしている。
無理やり押さえ込んではいるが、機体を少しずつ傷めているのには変わりない。
左尾翼をチラッと見ると、スタビライザーのところに白い空気ダマリが見えた。
「さすがに、半年整備サボるとあちこち痛んでくるな~」
聞こえる心配もないので口に出してしまった。
後ろで大声がしたが関係ないだろう、聞こえるはずがない。
ピッグをただで譲り受けてからこのかた(今時、全工程をパイロットが運転する飛行機に乗るような人はいない)、青年は大掛かりな整備をしていなかった。
なんといっても、超がつくほどの骨董品である、下手に工場に持ち込んだらいくら取られるかわからない。
エンジンを代えたのも螺子一本に至るまで特注でないと手にはいらないものだったからである。
「レミちゃん。ピーンチ」
あまり、悲壮感のない顔で呟く。
これは、管制塔の言う通り飛ぶべきか?それとも無視してまっすぐ飛ぶか?
ラジオからは管制官がもよりの空港に降りろ、とがなっているが降りたらハリケーンが去るまで飛べなくなる。
……そうなると、ギャラ減るんだろうな。
中古のエンジンとは言え、航空機のエンジンは高い! 借金を抱えて空を飛ぶ身としては危険と安全を秤にかけるととても悩むのである。
「よし、行っちゃえ」
下に見えている発着場が後方に消えていく。
ラジオから管制員の喚き声が聞こえる。
「レーミちゃん♪レーミちゃん♪すーすんで良いのかな? だ~ってお金がな~いんだもん♪」
どこぞの民謡を勝手に改造。
代え歌を歌う呑気な飼い主とその荷物一匹を乗せた紅い豚は嵐の中を飛んでいた。
老齢の豚としてはそろそろ限界なんじゃあないかな~と思えるほどの嵐の中。
大きく広げた耳(羽)がさっきからミシミシと言っている。
心臓(ホンダ六発励起エンジン)はまだ二本の太い動脈を隠しているはずだがそれでも自分には太すぎる。
気を抜いたらアチコチの血管から血がピューっと出たりして。
ヌアっ。
急旋回に体が錐もむ。
飼い主が雲をかわしたのだ。内部の乱気流に突っ込んだら体はバラバラになっただろうから今の判断はナイスである。
しかし……。
あ~、限界。
豚の動脈に血と老廃物が詰まりだす、人間で言うところの血栓症という奴だな。
プロペラの回転数が一気に下がる。
すまん、主。(合掌)
この世に生をうけてウン百年、長い豚生が一瞬の走馬灯になって走り抜ける! ……と思ったのだが、その有名なイベントはいつまでたってもこなかった。
急に今までのキツイ風圧から開放される。
無風状態のエアポケットにでも入ったかと思ったが、すぐに違うとわかった。
なぜなら、飼い主が変わってからこんなことは日常茶飯事だったから。
愛しのピッグは見えざる力に癒されるようにその馬力を回復させていた。
「……聞こえた」
凶悪な風音を越えて音が聞こえてくる。
最初はドレミの音の破片、そえらが段々と耳の奥で繋がる。
メロディーになっていく。
「来てくれたんだね、姫」
青年が優しく微笑む。
メロディーと供に美しい歌声が響いてくる。
彼女の発する一音、一音が今の状況を変えていく。
いつの間にか、先ほどはあれほど存在を主張していた風が静かになっていた。
儚くも力強い歌声が青年を包んでいく。
いつの間にか、青年の体が宙に浮き上がる。
シートベルトがなんの抵抗もなくするりと抜ける。
体を大の字にするようにひらく。
そのまま体が宙に吸い上げられる、下にはピッグが精一杯の力で空をかけている。
よく期待にこたえてくれる飛行機だ、ホントならとっくに引退しているはずだから。
「まってて今、手伝うから」
両手を体にピッタリとくっつけて急降下。
紅い機体に体が溶け込む。
拡散した意識がピッグの上を走る。
両手を飛行機の羽のようにスッと出す。
「さあ、行こう」
空気を蹴るように突き出す。
「……なんて奴だ。風を避けてる」
後部座席の男が必死で座席に体を固定させながら呆然と呟く。
先ほどまでとは、まるで走りが違う。
アクロバティックな軌蹟で飛ぶピッグだったが、今の方がずっと安定した飛行だ。
周囲の状況はいよいよ最悪になって来ている。
真っ黒の雲からは絶えず雷の光が見えるし、雨の粒は石のような勢いでぶつかってくる。
なのに先ほどの叩きつけるような風が消えていた。
千切れ飛ぶ雲の動きを見れば、どれほどの強風が吹いているかはうかがい知れた。
なのにその風が来ない。
というより、風を避けて飛んでいる。
テクニックの問題じゃないこれはほんとの神技だ。
「くくっ、ははははっあーはははははは」
男は生まれて始めて天才を目にして、嵐の中笑い続けた。
これより、五時間後に「愛しのピッグ号」は無事に目的地ラスベガスに到着する。
「んん~っ。お尻がゴワゴワ」
先に下りた青年がお尻のお肉をほぐす様に揉んでいる。
「お~いっ、出てこれるかい? 動けないんだったら手ぇ貸すよ?」
「いや、大丈夫。自分で降りられるよ」
長時間、狭い座席に放り込んでおいた客はたいてい筋肉痛で動けなくなるのだがこの男はなかなか鍛えているらしい。
タラップを使っておりる時もふらついていない。
「うわっ中まで濡れてる。……最悪」
座席のバックの中からタオル(黒い)を取り出すと服を着たままタオルを中に突っ込んで拭き始める。
とても、拭きにくそうだ。
「ジャンパーを脱がないのか? 拭きにくそうだが?」
男自身も、借り物のフライト着を脱いで体を拭いていた。……こちらのタオルは白い。
「やだよ。見えちまうだろ! 透けてんだからさ」
「何が?」
「胸に決まってる」
「胸?」
「あ~っそれはセクハラ発言だな。ギャラの上乗せを要求する」
どうにも噛み合わない会話に男がハテナマークを頭の上に三つほどのせる。
青年はニヤニヤと笑っている。
こちらは解かっているのだ。
「お客さま。本日はキイツタクシーをご利用していただいてありがとうございます。わたくし、キイツタクシー社長のキイツ・レミでございます。またのご利用を」
礼の姿勢をとる青年は、今までのが嘘のような楚々とした女性らしい雰囲気を作り出す。
「キミッ……女?」
ニンマリと笑う青年、もとい女性。
正解である。
「騙されたな~なんで男のふりなんか?」
「女は舐められるからね。二十三世紀になっても女性の地位はなかなか向上してくれないのさ……女の声で言ったら着陸許可も簡単に出ないわ。まだ上を旋回してたかもね」
レミが空を見上げて「あはは」と笑う。
実際、レミが女だと解かると料金を渋る客までいる。
そういう時は、暴力に訴えてでもお金はしっかりと取るのだが。
さて、この客はどうだろうか。
「女性はたいへんだな。……これは料金だ、すこし色をつけといたよ。これでさっきの失言は見逃してくれ」
どうやら、上客だったらしい。
密かに握りこんでいた拳を開いてにこやかにギャラを受け取るレミ。
さっと紙幣を数えるレミ、顔がにやけた所を見るとかなりの上乗せがあったらしい。
「一割アップとは豪勢だね。んじゃ、またこのピッグちゃんを見かけたら声をかけてね」
バッグを担ぎなおすとレミは男を置いて管制室に向かう。
「ちょっと待った! 良い儲け話があるんだが一口のらないか?」
ピタリと静止するレミ。
「儲け話?」
「ああ、手の中の紙幣が何百倍にも化けるぞ」
「何百倍だって?!」
レミがすごい勢いで男に掴みかかる。
「教えて! すぐに! 今ここで!」
レミも一般的なアメリカ人である、アメリカンドリームをいつも夢見ているのだ。
彼女の半分の血は日本人のものだったが彼女は「旨い話には裏がある」って言葉をしらないらしい。