第四章 聖域の崩壊
小章① 午前三時の東京湾
芝浦ふ頭。 冷たい海風が吹き荒れる中、神谷はタクシーを降りた。 倉庫街の陰に隠れながら、船着き場へと近づく。 そこには、一隻の白いクルーザーが停泊していた。船尾には『NIBUS III』の文字。 デッキには、毒島常務の姿があった。彼は何か黒い物体を抱え、海面を覗き込んでいる。ハードディスクだ。
「待て!」
神谷は叫びながら駆け出した。 毒島が驚いて振り返る。
「神谷……!? なぜここが」
「それを捨てても無駄だ! すでにデータのコピーは確保している!」
ハッタリだ。だが、毒島の動きを止めるにはそれしかない。 毒島は一瞬狼狽したが、すぐにニヤリと笑った。
「コピーだと? そんなもの、法廷で証拠能力があるかな。……まあいい。ここに来たのが運の尽きだ」
毒島が指笛を吹く。 クルーザーのキャビンから、数人の男が現れた。工事現場で見かけた、目つきの鋭い男たちだ。作業着の下に、暴力の匂いを隠している。
「やれ。事故に見せかけて処理しろ。鬼島と同じようにな」
男たちが船から飛び降り、神谷を取り囲む。 神谷は後ずさった。 逃げ場はない。背後は海だ。 「鬼島さんは……やはり、あんたたちが殺したのか」
「殺してはいないさ。ちょっと脅したら、勝手に足を滑らせて落ちたんだ。……お前も、足を滑らせるか?」
毒島がハードディスクを抱えたまま、残忍な笑みを浮かべる。 男の一人が、鉄パイプを手に近づいてきた。
その時。 強烈なハイビームが、倉庫街の闇を切り裂いた。 パトカーのサイレン音ではない。重低音を響かせる、大型バイクのエンジン音だ。 一台のバイクが、猛スピードで突っ込んでくる。
「なっ!?」
男たちが怯んだ隙に、バイクは神谷の目の前で急停止した。 ヘルメットを取ったライダーは、意外な人物だった。 青山だ。経理部の、あの大人しい女性社員。 彼女はライダースーツに身を包み、毅然とした表情で叫んだ。
「神谷先生、乗って!」
「青山さん!?」
「早く!」
神谷は無我夢中でバイクの後部座席に飛び乗った。 青山はアクセルを全開にし、前輪を持ち上げながら急発進した。 男たちが怒号を上げて追いかけてくるが、バイクの加速には追いつけない。
「逃がすな! 追え!」
毒島の叫び声が遠ざかっていく。 潮風と排気ガスの匂いの中で、神谷は必死に青山の背中にしがみついていた。 「どこへ行くんですか!」
「安全な場所です! ……私、鬼島先生に言われていたんです。『もしもの時は、神谷を頼れ。そして、神谷が危ない時は、お前が助けろ』って!」
風の音に混じって聞こえたその言葉に、神谷は胸が熱くなった。 鬼島は、死ぬ前からこうなることを予測し、手を打っていたのだ。 孤独な戦いではなかった。
小章② 逆転のシナリオ
明け方。 神谷と青山は、郊外にあるネットカフェの個室にいた。 青山は、USBメモリを差し出した。
「これ、ハードディスクのバックアップです。常務が持ち出す前に、サーバーから抜いておきました」
神谷は目を見開いた。 本物の証拠だ。 中身を確認すると、そこには湾岸プロジェクトの赤字隠しだけではなかった。 販売用不動産の評価額を不当に吊り上げた架空計上、関係会社を使った循環取引による売上の水増し。さらに、下請法を無視した不当な買いたたきの記録や、東南アジア支店を使った簿外債務の隠蔽工作まで……。 それは、十年以上にわたる粉飾の総合商社のようなデータだった。
「……これで、全員終わる」
神谷は震える声で言った。 ニブス建設も、帝都監査法人も、腐った連中は一網打尽にできる。
「やりますか、先生」
青山が神谷を見つめた。
「ああ。決算発表は明日だ。記者会見場が、奴らの処刑台になる」
神谷はノートパソコンを開き、最後の報告書を書き始めた。 それは監査報告書ではない。 『意見不表明』の通知書と、金融庁への告発状だ。 電卓を叩く音だけが、静かな部屋に響き渡った。 それは、巨大な悪に対する、反撃の号砲だった。




