第三章 不可視の包囲網
小章① 内部の敵
帝都監査法人、パートナー会議室。 神谷は、数人のシニア・パートナー(上級代表社員)たちに囲まれていた。空気は冷たく、重苦しい。
「神谷君、君の監査手法には苦情が来ているぞ」
口を開いたのは、筆頭パートナーの財前だ。白髪の初老で、業界の重鎮として知られる人物だが、その目は常に権力の方を向いている。
「ニブス建設の毒島常務から、君が現場で過度な要求を繰り返し、業務を妨害しているとの抗議があった。どういうことかね?」
「過度な要求ではありません。必要な監査手続きです」
神谷は毅然と答えた。
「湾岸プロジェクトの在庫データに重大な疑義があります。実地棚卸しを拒否され、搬入記録の開示も拒まれました。これは監査範囲の制約にあたります」
「疑義? 君の思い込みではないのかね」
財前は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「ニブス建設は我が法人の最重要クライアントの一つだ。年間数億円の監査報酬を支払ってくれている。彼らとの信頼関係を損なうような真似は慎みたまえ」
「信頼関係と馴れ合いは違います。不正の兆候がある以上、徹底的に調べるのが我々の義務です」
「……君は鬼島君に似てきたな」
財前が低い声で言った。その言葉には、明確な警告が含まれていた。
「鬼島君も、晩年は少し神経質になりすぎていた。それが、あのような悲劇を招いたのかもしれん。……神谷君、君にはしばらく休暇が必要なんじゃないか?」
監査担当からの更迭の示唆だ。 神谷は悟った。 敵はニブス建設だけではない。この監査法人の中枢もまた、毒島たちに取り込まれている。 鬼島の死は、単なる口封じではなかった。組織ぐるみの隠蔽工作の一環だったのだ。
「……ご配慮ありがとうございます。ですが、決算発表までは任務を全うさせてください。それが鬼島さんへの供養ですから」
神谷は頭を下げ、部屋を出た。 背中に突き刺さる視線は、もはや同僚のものではなかった。
小章② 深夜の訪問者
その夜、神谷は自宅のタワーマンションには帰らなかった。 監視されていると感じていたからだ。彼は都内のカプセルホテルを転々としながら、監査調書を作成していた。 手元にあるのは、鬼島の「B面の帳簿」と、現場で掴んだ状況証拠だけ。 これをどうやって「公式な証拠」に昇華させるか。
深夜二時。 神谷のスマートフォンが震えた。 非通知設定。
「……はい」
『神谷先生ですか?』
若い女性の声だった。震えている。
『私は、ニブス建設経理部の、青山です。……鬼島先生にお世話になっていました』
青山。経理部の一般社員だ。監査の際、お茶を出してくれた大人しい女性の顔が浮かぶ。
「どうしました? こんな時間に」
『……怖くて。毒島常務が、シュレッダーをかけているんです。経理部の倉庫にある、過去の請求書や日報を、全部』
「証拠隠滅か」
『私、見ちゃったんです。常務が、裏帳簿のデータが入ったハードディスクを持ち出すところを。……「これを海に沈めれば終わりだ」って、電話で話していました』
神谷はベッドから飛び起きた。 ハードディスク。それこそが、決定的な物証だ。
「青山さん、常務は今どこに?」
『これから、自社所有のクルーザーで東京湾に出るそうです。芝浦の船着き場です』
「分かった。すぐに行く。君は身を隠していてくれ」
神谷は電話を切り、ジャケットを掴んだ。 会計士の武器は電卓とペンだ。だが今夜だけは、足を使わなければならない。




