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企業監査ミステリー『監査法人の密室(ブラックボックス)』  作者: 如月妙美


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第二章 悪魔の証明

小章① 敵地潜入

 四月一日。  神谷は、虎ノ門にあるニブス建設の本社ビルを訪れていた。  巨大なガラス張りのビルは、春の陽光を反射して輝いている。だが、神谷にはそれが、巨大な墓標のように見えた。

 通されたのは、地下一階にある「監査室」だった。  窓のない、狭苦しい部屋。パイプ椅子と長机が並べられ、埃っぽい空気が澱んでいる。  企業にとって、会計士は「招かれざる客」だ。粗探しをして、耳の痛いことを言う邪魔者。だからこそ、多くの企業は監査人をこうした劣悪な環境に押し込め、精神的に疲弊させようとする。

「初めまして、神谷先生」

 ドアが開き、一人の男が入ってきた。  毒島ぶすじま常務。ニブス建設のCFO(最高財務責任者)だ。  銀縁眼鏡の奥の目は笑っておらず、爬虫類のような冷たさを湛えている。高級なイタリア製スーツを着こなし、甘いコロンの匂いを漂わせていた。

「鬼島先生の件は、本当に残念でした。あんなに優秀な方が……」

 毒島はハンカチで目元を拭うふりをした。  白々しい。  神谷は表情を崩さずに名刺を出した。

「急な交代でご迷惑をおかけします。今期から私がインチャージを務めます」

「お手柔らかにお願いしますよ。我々は現場第一のドカチン屋だ。細かい数字のことは苦手でね」

 毒島は笑ったが、その目は神谷を値踏みしていた。  こいつは御しやすいか。それとも、鬼島のように嗅ぎ回る犬か。

「早速ですが、資料を追加でいただきたい。湾岸エリア再開発プロジェクトに関する発注書と工事日報だけではありません」

 神谷は手帳を開き、淡々と要求した。

「販売用不動産の不動産鑑定評価書、海外支店の連結パッケージ、それに主要な下請け業者との過去三年分の取引履歴も全てです」

 毒島の眉がピクリと動いた。

「……湾岸だけでなく、不動産や海外まで? 広げすぎではありませんか。決算発表に間に合いませんよ」

「確認したい点がありまして。例えば、未成工事支出金の内訳や、海外支店の借入金残高について」

 未成工事支出金。製造業でいう「仕掛品」にあたる。完成していない工事に使った金は、費用ではなく「資産」として計上される。  これがゼネコンの粉飾決算の温床だ。  赤字工事の費用を、架空の「未成工事支出金」として資産に計上してしまえば、表面上の利益は守られる。ゴミをカーペットの下に隠すようなものだ。

「分かりました。現場に手配させましょう。……ただし、時間がかかりますよ。現場は戦場ですからな」

 毒島は不敵に笑い、部屋を出て行った。  宣戦布告だ。  彼らは徹底的に資料を出し渋り、のらりくらりと時間を稼ぐつもりだ。決算発表までのタイムリミットが迫る中、監査人が諦めて判子を押すのを待つ戦術。

 神谷は狭い監査室に一人残された。  机の上に、ノートパソコンを開く。  鬼島が遺した「B面の帳簿」。これがあれば、彼らの嘘は暴ける。  だが、このデータはあくまで「内部告発」扱いであり、公式な監査証拠エビデンスにはならない。  このデータを裏付ける、物理的な証拠が必要だ。

「やってやるさ」

 神谷は呟いた。  電卓を叩く指に力が入る。  ここからは、数字という名の弾丸を使った、静かなる銃撃戦だ。


小章② 工事現場の幽霊

 数日後。  神谷は、湾岸エリアの工事現場に足を運んでいた。  ヘルメットを被り、作業着を着て、現場の視察(往査)を行う。会計士の特権だ。  巨大なクレーンが林立し、ダンプカーが土煙を上げて行き交う。  帳簿上では、この現場は「順調」に進んでいることになっている。

 神谷は、現場事務所のプレハブに入った。  現場監督の男は、明らかに不機嫌そうだった。

「忙しいんだよ。会計士なんかが来て何になる」

「在庫の確認です。……帳簿によると、この現場には鉄骨資材が五千トン、仮置きされていることになっていますが」

 神谷は資料を指差した。  「B面の帳簿」によれば、この鉄骨代金は既に支払われているが、現物は納入されていない。「架空発注」の疑いがある。

「あ? 鉄骨? ……ああ、あれは第2ヤードだ。こことは離れた場所にある」

「案内してください」

「無理だ。今は地盤改良工事中で立ち入り禁止だ」

 監督は視線を逸らした。  嘘だ。  神谷は食い下がらない。代わりに、別の切り口で攻める。

「では、日報を見せてください。鉄骨五千トンなら、搬入に大型トレーラーが何百台も必要なはずです。搬入日のゲート通過記録があるはずだ」

 監督の顔色が変わった。  現場の人間は、会計の嘘はつけても、現場の事実ロジについては嘘をつくのが下手だ。

「……記録は本社に送った。ここにはねえ」

「そうですか。では、本社に問い合わせます」

 神谷は事務所を出た。  確証は得た。鉄骨は存在しない。  五千トンの鉄骨代金、およそ五十億円。それがどこかへ消えている。  おそらく、毒島たちが裏金を作るために協力会社へ架空発注し、キックバックさせているのだ。

 その時、神谷の背後でシャッター音がした。  振り返ると、フェンスの外からカメラを構えている男がいた。  作業員風の男だが、目つきが鋭い。  神谷が視線を向けると、男はすぐに姿を消した。

(監視されている……)

 ニブス建設は、ただの粉飾企業ではない。  もっと深い、暴力的な闇を抱えている。  鬼島は、その闇の深淵を覗き込んでしまったために殺されたのだ。

 神谷はタクシーを拾い、都心へと戻った。  車窓から見える東京湾の海は、鉛色に濁っていた。  恐怖はない。あるのは、冷え冷えとした怒りだけだ。  数字は嘘をつかない。  その真理を、奴らの喉元に突きつけてやる。


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