第一章 死者からのメール
小章① 数字の墓場
三月三十一日、午後十一時。 大手町ギャラクシータワーの二十八階。『帝都監査法人』のオフィスは、静まり返った熱気に包まれていた。 三月決算の期末日。会計士たちにとって、一年で最も長く、最も神経をすり減らす季節の始まりだ。広大なフロアには、数百台のノートパソコンの排気音と、キーボードを叩く乾いた音が、まるで電子の雨音のように響いている。
神谷蓮は、自身のデスクで分厚い決算短信のドラフトに赤ペンを入れていた。 三十二歳。シニア・マネージャー。黒髪を短く刈り込み、無駄のない所作で数字を追う姿は、会計士というよりは外科医のように冷徹に見える。 彼の周りには、栄養ドリンクの空き瓶と、コンビニのおにぎりの包装紙が散乱している。部下たちは死んだ魚のような目でモニターを見つめているが、神谷の目だけは冴え渡っていた。
「……またか」
神谷は舌打ちし、赤ペンで数字を丸く囲んだ。 減損処理の先送り。在庫評価の恣意的な操作。 クライアントである企業は、少しでも利益を良く見せようと、ありとあらゆる化粧を施してくる。会計士の仕事は、その厚化粧を剥ぎ取り、醜い素顔を白日の下に晒すことだ。だが、それは同時に、クライアントとの終わりのない戦争を意味する。
「神谷さん、これ……」
隣の席の若手会計士が、怯えた声で受話器を差し出した。 外線だ。こんな時間に。
「誰からだ?」
「警察……です。丸の内署の刑事だと言っています」
神谷は眉をひそめ、受話器を取った。
「神谷ですが・・・」
『……夜分に恐れ入ります。帝都監査法人の鬼島聡さんをご存知ですね?』
鬼島。 神谷の七年先輩であり、パートナー(共同代表社員)の一人。そして、神谷に「数字は嘘をつかないが、人間は息をするように嘘をつく」と教えた師匠でもあった。
「知っています。上司ですが」
『残念なお知らせがあります。……先ほど、港区の自宅マンションから転落されました。搬送先の病院で死亡が確認されました』
神谷の思考が一瞬、空白になった。 転落。死亡。 あの鬼島が? 誰よりも慎重で、誰よりもタフだったあの男が?
「事故ですか?」
『現場の状況から見て、突発的な自殺の可能性が高いと見ています。遺書はありませんでしたが、パソコンに……』
神谷はそれ以上の言葉を聞く気がしなかった。 自殺なわけがない。 鬼島は昨日、神谷にこう言っていたのだ。 『面白いネタを見つけた。とびきりデカい、腐った内臓だ。裏が取れたらお前にも見せてやる』 その時の彼は、獲物を前にした獣のように笑っていた。 そんな人間が、その翌日に空を飛ぶはずがない。
小章② B面の帳簿
翌朝。オフィスは鬼島の死の噂で持ちきりだった。 過労による発作的な自殺。法人の上層部は、早々にそういうストーリーで幕引きを図ろうとしていた。クライアントへの動揺を防ぐためだ。 神谷は、自身のメールボックスを開いた。 未読メールが一件。 受信時刻は、昨夜の午後十時四十五分。 鬼島が死ぬ、わずか一時間前だ。
差出人:鬼島聡 件名:ギフト
本文はない。 添付ファイルが一つだけ。 『Project_D_B-Side.xlsx』。 パスワードがかかっている。 神谷は迷わず、鬼島が好んで使っていたパスワードを入力した。 『Auditor_is_Dead(監査人は死んだ)』。
ファイルが開いた。 画面に展開されたのは、膨大な数字の羅列だった。 工事番号、発注金額、実行予算、支払先……。 一見して、建設会社の工事台帳に見える。 だが、神谷の目は、ある一点に釘付けになった。
『ニブス建設 湾岸エリア再開発プロジェクト 裏原価明細』
ニブス建設。 国内準大手ゼネコン。現在、帝都監査法人が監査を担当しており、その責任者は鬼島だった。 神谷は、別のモニターでニブス建設が公表している決算短信と、このエクセルファイルを突き合わせた。 「……食い違っている」
公表データでは、湾岸プロジェクトは順調に進捗し、利益率も15%を確保していることになっている。 だが、鬼島が送ってきた「B面」のデータでは、実際には巨額の追加工事が発生し、赤字が垂れ流しになっていた。その赤字額は、およそ三百億円。 三百億円の損失が、帳簿上から綺麗に消されている。 これを隠すために、他の黒字工事へ原価を付け替えているのだ。いわゆる「飛ばし」だ。
「これを暴こうとして、消されたのか……」
神谷は拳を握りしめた。 これは自殺ではない。 口封じだ。 ニブス建設か、あるいは監査法人内部の協力者か。誰かが鬼島を殺した。
神谷はエクセルファイルを閉じ、暗号化してUSBメモリに移した。 そして、内線電話を取った。 相手は、監査法人の理事長室だ。
「神谷です。……鬼島パートナーの後任として、ニブス建設の監査担当を志願します」




