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残された季節のひかり

作者: 久遠 睦

第一部:亀裂(1ヶ月目〜3ヶ月目)


第一章:告知


秋の光が、磨き上げられたフローリングに長い影を落としていた。横浜市の郊外に佇む、ありふれた二階建ての家。それが、宮古の守るべき城であり、彼女の世界のすべてだった。朝のルーティンは、祈りのように静かで、満ち足りていた。中学二年生になったばかりの一人娘、花の弁当箱に、彩りよくおかずを詰める。夫の貴志が好きな少し濃いめの緑茶を淹れ、彼が新聞を広げる音を聞きながら、自分はベランダの小さな家庭菜園に水をやる。ミニトマトの青い匂い、土の湿った感触。愛とは、言葉ではなく、こうした繰り返される日々の小さな営みの中に宿るのだと、宮古は信じていた。四十二年間、穏やかに流れてきた時間。それが永遠に続くと、疑いもしなかった。

その日、郵便受けに入っていた一通の、何の変哲もない白い封筒が、そのすべてを覆す序章になるとは、知る由もなかった。市の健康診断の結果だった。開封すると、当たり障りのない文面の中に、赤いスタンプで押された「要精密検査」の文字が、不穏な染みのように浮かび上がっていた。


第二章:色のない部屋


横浜市立大学附属病院の診察室は、無機質な白で統一されていた 。蛍光灯の光がやけに眩しく、消毒液の匂いが鼻をつく。宮古の隣には、固い表情の貴志が座っていた。彼の大きな手が、宮古の震える手を固く握りしめている。

初老の医師は、机に並べた画像データを指しながら、淡々とした口調で説明を始めた。声が遠くに聞こえる。まるで分厚いガラスを一枚隔てているかのようだ。専門用語が、意味をなさない音の羅列となって鼓膜を滑っていく。

「……乳がんです。ステージ4。すでに骨と肺に転移が見られます」。

ステージ4。転移。その言葉だけが、鋭い棘となって宮古の意識に突き刺さった。医師は治療方針について話し続けている。化学療法、放射線治療、緩和ケア 。だが、宮古の耳にはもう届かなかった。自分の身体が、いつの間にか自分のものではない、見知らぬ土地になってしまったような感覚。医師という名の異邦人が、理解不能な言語でその土地の地図を広げ、ここはもう不毛の地だと宣告している。

「余命は……慎重に見ても、一年ほどでしょう」

貴志の息を呑む音が、やけに大きく響いた。彼の役割は、いつも家族を守ることだった。だが、今、彼はこの見えない敵の前で、あまりにも無力だった 。ただ、妻の手を握りしめることしかできない。帰り道、車の中は重い沈黙に支配されていた。窓の外を流れていく見慣れた街並みが、まるで知らない国の風景のように色褪せて見えた。


第三章:嵐


家に帰り着いた途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。宮古は、貴志が何かを言いかけるのを遮るように、リビングのドアを乱暴に閉めた。そして、叫んだ。声にならない、獣のような叫びだった。棚にあったお気に入りのティーカップを掴み、壁に叩きつける。甲高い音を立てて砕け散る陶器の破片が、彼女の心のようだと思った。

「なんで!なんで私が!」

絶望が、黒い嵐となって彼女のすべてを飲み込んでいく。自暴自棄だった。自分の身体への裏切られたという怒り。世界の理不尽さへの憎しみ。バスルームに鍵をかけて閉じこもり、浴槽の縁に蹲った。貴志がドア越しに何度も名前を呼ぶ声がする。花の心配そうな気配も。だが、彼らの存在そのものが、今は耐え難い苦痛だった。失うものの大きさを、まざまざと見せつけられているようだった。愛しているからこそ、今は顔を見たくない。彼らの優しい眼差しが、自分の惨めさを浮き彫りにするようで、たまらなかった。これは悲しみがもたらす正常な反応なのだと、頭のどこかで誰かが囁いていたが、そんな冷静さは何の慰めにもならなかった 。


第四章:約束


嵐が過ぎ去った後の、深夜の静寂。宮古は、そっとバスルームのドアを開けた。リビングのソファでは、貴志がうなだれたまま眠っていた。彼の疲れ切った寝顔が、胸を締め付ける。子供部屋を覗くと、花がベッドの中で丸くなっていた。眠っているはずなのに、眉間には深い皺が刻まれ、枕が涙で濡れているのが分かった。

その二つの寝顔を見た瞬間、宮古の中で何かが変わった。自分の死への恐怖が、彼らがこれから生きていく未来への想いへと、静かに反転したのだ。このまま絶望の嵐の中で、残された時間を使い果たしてはいけない。この一年は、自分のためではない。この愛する二人のためにあるのだ。彼らがこの先、自分のいない世界を生きていくための、記憶と愛の砦を築くのだ。

宮古はリビングに戻り、ソファの前の床に静かに座った。そして、物音で目を覚ました貴志の肩に、そっと頭を乗せた。

「ごめんなさい」

小さな声だったが、その一言にすべての想いが込められていた。

「これからは、あなたと花のために生きる。残りの時間、全部使って」

それは、誰にも聞こえない、彼女自身の魂との静かな約束だった。死という絶対的な無力感の中で、彼女が初めて自らの意志で掴み取った、たった一つの能動的な選択。それは自己犠牲ではなく、母として、妻としての自分を、最後まで貫き通すという、誇り高い決意表明だった。


第二部:長い待ち時間(4ヶ月目〜8ヶ月目)


第五章:別の種類の戦争


化学療法の日は、いつも曇り空のように心が重かった。横浜市立市民病院の化学療法室は、明るく清潔だったが、点滴スタンドの列と、リクライニングチェアに深く身を沈める人々の姿が、ここが戦場であることを物語っていた 。

ドセタキセルと名付けられた薬液が、点滴の管を通ってゆっくりと宮古の体内に流れ込んでいく 。命を繋ぐための毒。その矛盾が、彼女の心身を蝕んでいった。治療が始まって数日後には、激しい吐き気と倦怠感が襲ってきた 。かつて料理をすることが生きがいだった彼女にとって、食べ物の匂いが苦痛になり、何を食べても口の中に広がる金属のような味覚の変化は、日々の喜びを根こそぎ奪っていった 。

副作用は、容赦なく彼女から「宮古らしさ」を剥ぎ取っていった。治療開始から三週間後、枕にびっしりとついた抜け毛を見た朝、彼女は覚悟を決めた。貴志に頼んで、長く艶やかだった髪を、バスルームで短く切ってもらった。バリカンが冷たい音を立てる。鏡に映る見知らぬ自分の姿に、涙が溢れた。貴志は何も言わず、ただ震える手で彼女の頭をそっと撫でた。

さらに辛かったのは、目に見えにくい変化だった。手足の指先に現れた末梢神経障害は、まるで薄い砂の上を歩いているような奇妙な感覚をもたらし、ボタンをかけたり、お茶碗を持ったりといった日常の動作をぎこちないものにした 。爪は黒ずみ、脆くなって割れやすくなった 。治療は命を延ばすためのものだったが、それは同時に、彼女が大切にしてきた自分自身を、少しずつ解体していく過程でもあった。


第六章:沈黙の監視者


貴志の世界は、妻の病気を中心に再編成された。会社では仕事に集中できず、心配する上司や同僚からの気遣いに、曖昧に頭を下げる日々。デスクの電話が鳴るたびに、病院からの悪い知らせではないかと心臓が跳ねた。夜になると、彼はもう一人の自分と向き合った。眠りについた宮古の横で、スマートフォンの小さな画面に希望の光を探す。効果のないと分かっている代替療法や、海外の臨床試験の情報を、藁にもすがる思いで検索し続けた 。

彼の愛は、言葉ではなく行動で示された。宮古の薬の時間を正確に管理し、副作用を記録するノートをつけ、吐き気を催さないようにと、出汁の匂いを抑えたうどんの作り方を覚えた 。宮古が疲れて話すこともできない日は、ただ黙ってそばに座り、彼女が眠るまで背中をさすり続けた。

「大丈夫だ」と、彼は宮古にも、そして自分自身にも言い聞かせた。だが、その内側では、どうしようもない無力感が渦巻いていた 。彼は、崩れ落ちそうな自分を必死で押し殺し、揺れぎない岩でなければならないと己に課していた。彼の沈黙は、感情の欠如ではなかった。それは、悲しみと恐怖をすべて飲み込み、ただ妻を支えるという一点に凝縮させた、彼なりの愛の言語だった。


第七章:語られなかった真実


花は、何も気づいていないふりをしていた。だが、家の空気の変化を、肌で感じていた。リビングのテーブルに置かれたウィッグのカタログ。両親がキッチンで交わす、ひそひそとした会話。そして何より、いつも太陽のようだった母の笑顔から、時折光が消える瞬間。

思春期の心は複雑だった 。母を心配させまいと、わざと明るく振る舞った。学校での些細な悩み事を話すのをやめ、テストで良い点を取っては「ママのおかげだよ」と笑って見せた。母が疲れているのを察して、宿題の質問をするのも我慢した 。聞き分けの良い子を演じることで、彼女はかろうじて心の均衡を保っていた。子供は、大人が思うよりずっと敏感に、家族の中に漂う嘘や隠し事の匂いを嗅ぎ取るものだった 。

ある週末の午後、宮古と貴志は花をリビングに呼んだ。もう隠し通すことはできないし、何より、花をこの戦いの部外者にしてはいけない、と二人で決めたのだ。

「大事な話があるの」

宮古は、花の目を見て、ゆっくりと言葉を選びながら話した 。ママが癌という病気であること。今、一生懸命治療を頑張っていること。でも、残念ながら、思ったように効果が出ていないこと。嘘はつかなかった。ただ、年齢に合わせて、理解できる言葉で真実を伝えた 。

花は、黙って聞いていた。涙をこらえるように、唇を固く結んでいた。

「ママ、死んじゃうの?」

震える声で絞り出された問いに、宮古は花の小さな手を握りしめた。

「そうならないように、頑張ってる。でも、もしかしたら、そうなるかもしれない。だから、花には知っておいてほしかった。一緒に戦ってほしいから」

その瞬間、花は堰を切ったように泣き出した。宮古と貴志は、ただ黙って、その小さな体を抱きしめた。痛みを伴う告白だったが、それは家族が本当の意味で一つになるための、避けられない儀式だった。この日から、花はもう「守られるべき子供」ではなく、共に悲しみ、共に愛を分かち合う、対等な家族の一員となった。


第八章:こども自然公園の完璧な一日


化学療法の合間に、奇跡のように体調の良い日が訪れた。空は抜けるように青く、風は心地よかった。

「公園に行こう」

宮古の提案に、貴志と花は顔を輝かせた。三人は、お弁当と水筒を持って、こども自然公園へと向かった 。

おしゃれなニット帽を被った宮古は、ゆっくりとなら歩くことができた。広大な芝生広場にレジャーシートを広げ、ささやかなピクニックが始まった。会話は、他愛のないことばかりだった。花の部活の話、貴志の会社の面白い同僚の話。だが、そのありふれた日常の断片が、今は宝石のように輝いて見えた。すべての瞬間に、「これが最後かもしれない」という切ない光が宿っていた。

貴志がスマートフォンで撮った、宮古と花が顔を寄せ合って笑っている一枚の写真。それは撮られた瞬間に、未来に残されるべき、かけがえのない遺物となった。公園に咲き誇る季節の花々の美しさが、太陽の暖かさが、胸を締め付けるほど愛おしかった。

この日は、病気との戦いに対する、ささやかで、しかし断固とした反逆だった。数時間だけ、彼らは「がん患者の家族」ではなく、ただの「家族」だった。だが、普通であろうとすればするほど、その普通さがすでに失われてしまったことを痛感させられる。この完璧な一日は、美しい思い出であると同時に、来るべき別れを予感させる、優しい悲しみに満てていた。彼らはその瞬間を生きながら、同時に、未来の自分たちのために、その瞬間を記憶に刻みつけていた。


第三部:残光(9ヶ月目〜12ヶ月目)


第九章:未来への手紙


季節は巡り、再び秋が訪れた頃、医師は静かに告げた。これ以上の積極的な治療は、もはや宮古さんの体力を奪うだけになるでしょう、と。戦いは終わった。これからは、残された時間をいかに穏やかに過ごすかに焦点が移った。在宅での緩和ケアが始まり、訪問看護師が定期的に家を訪れるようになった 。

宮古の世界は、寝室のベッドの上へと収縮した。だが、彼女の心は、そこから遥か未来へと旅を始めた。貴志に頼んで、美しい装丁のノートと、書きやすい万年筆を買ってきてもらった。それが、彼女の最後のプロジェクトだった。

ベッドの上で、少しずつ、しかし着実に、彼女は未来の家族へと言葉を紡ぎ始めた。それは、彼女がいなくなった後も、母として、妻として、家族のそばにあり続けるための方法だった。物理的なケアができなくなった今、彼女は言葉という媒体を通して、時空を超えて愛を届けようとしていた 。

宮古のノートより

分類

内容

花へ

『16歳の誕生日を迎えるあなたへ』、『初めて恋をした日のあなたへ』、『道に迷ってしまった時のあなたへ』、『あなたの結婚式の日に』、『あなたがお母さんになった日へ』…

貴志さんへ

『肉じゃがのレシピ(お醤油はいつものが一番よ)』、『焼き魚のコツ(絶対に焼きすぎないで)』、『花が風邪をひいた時の卵粥』…

私たちの家

『銀行口座と保険の連絡先』、『水道屋さんの電話番号』、『町内会の役員リスト』…


このノートは、単なる別れの言葉ではなかった。それは、彼女の愛が、死によって終わることはないという、力強い約束の証だった。


第十章:手の重み


宮古の身体は、ろうそくの火が消える前のように、静かに小さくなっていった。体重は大幅に減り、頬はこけ、声を発するのも億劫になった 。骨に転移したがんが、絶えず鈍い痛みを身体の芯に響かせていた 。それは訪問看護師が処方する医療用麻薬でなんとかコントロールされていたが、意識はしばしば霧の中を彷徨った。

家族のコミュニケーションは、言葉を失い、より根源的な形へと回帰していった。

貴志は、毎晩ベッドの脇に椅子を置いて、宮古が好きだった古い小説を朗読した。彼の低く、落ち着いた声が、部屋の空気を優しく満たした。花は、学校から帰るとまず母の部屋へ行き、ベッドのそばの床に座って宿題を広げた。ただ、そこにいる。その沈黙の共有が、何よりも雄弁な愛情表現だった。時折、花は母の薄くなった髪を、壊れ物を扱うようにそっと梳かした。

宮古が眠れない夜、貴志と花はベッドの両脇に座り、ただ彼女の手を握った。言葉はなかった。しかし、その手の温もり、指先に伝わる確かな重みを通して、三人の心は深く結びついていた。愛は、すべての装飾を剥ぎ取られ、純粋な存在と、触れ合いという最も原始的な形で交わされていた。


第十一章:最後の季節


十二月に入り、窓の外の木々が最後の葉を落とす頃、宮古の意識は現実と記憶の境界を漂い始めた。

彼女の瞳には、窓から差し込む冬の光が、家の廊下を歩く家族の足音が、そして、それらと混じり合うように、過去の光景が映っていた。貴志と誓いを交わした結婚式場の白い光。花が初めてよちよちと歩いた時の、畳の匂い。こども自然公園で食べたおにぎりの味。病は彼女の生命の終わりを定めたが、彼女の人生そのものを定義することはできなかった。彼女の最後の記憶は、病の苦しみではなく、彼女が築き上げた愛と喜びに満ちていた。

ある晴れた日の午後、宮古はふっと意識を取り戻した。澄んだ瞳で、そばにいた貴志と花を交互に見つめた。

「ありがとう」

か細い、囁きのような声だった。

「愛してる」

それが、最後の言葉になった。貴志の腕の中で、花の手に自分の手を重ねたまま、宮古は静かに息を引き取った。それは敗北ではなかった。愛する家族に抱かれ、愛に包まれて旅立つという、彼女が自ら定めた最後のミッションを、穏やかに完遂した瞬間だった。


エピローグ:一年後


再び、秋が来ていた。

貴志と花は、横浜市の根岸森林公園のベンチに座っていた 。宮古が好きだった、美しい公園だ。二人の間には、簡素な桐の箱が置かれていた。中には、あのノートが入っている。

先日、花は十五歳の誕生日を迎えた。貴志は箱からノートを取り出し、少し緊張した手つきで最初のページを開いた。

「『十五歳の誕生日を迎える花へ』」

貴志が読み始めると、花の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。だがそれは、絶望の涙ではなかった。悲しみと、そして深い愛しさが溶け合った、心を洗い流すような優しい涙だった。

彼らは、悲しみを乗り越えたわけではない。これからも、その喪失感と共に生きていくのだろう。だが、彼らは孤独ではなかった。今も三人家族なのだ。ただ、そのうちの一人が、心の中と、このノートのページの中に住むようになっただけだ。

貴志はノートを閉じ、そっと花の肩を抱いた。二人は立ち上がり、落ち葉を踏みしめながら、ゆっくりと歩き始めた。残された季節に、母が灯してくれた消えない光を携えて、次の季節へと。


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