吸血鬼騒動
その朝、アラトリアの路地裏は妙に静かだった。
マエスト地区の裏通り、商店が開くよりも早い時間。衛兵たちが集まり、通行止めの札を立てていた。その中央には、白い布を被せられた人影。
干からびた死体だった。皮膚は褐色に変色し、筋張ったまま硬直している。骨のように細く、まるで時間をかけて水分を抜かれた標本のようだった。
「また、見つかったのか……」
レオンはその場に立ち尽くし、わずかに目を細めた。
その様子を、やや遅れてやってきたカイが覗き込む。
「おいおい、朝から景気悪いな。これで何人目だよ」
「七人目だそうよ」
リィナが答える。すでに近くの住民に聞き込みを終えていたらしい。
「年齢も性別もバラバラ。唯一の共通点は、全員“夜にひとりで歩いていた”ってことくらい」
レオンは布の端を少しだけめくり、死体の首元を確認した。
「……噛まれていない。傷口もない。血が抜かれた痕も見えねぇ」
カイが眉をしかめる。「でも、干からびてるんだよな? 吸血鬼、ってやつじゃないのか?」
「わからない。でも……」
リィナが視線を落とす。「おかしいのよ。誰も、本気で調べようとしてないの」
レオンは布を戻し、立ち上がった。
「“物語にしてる”んだよ。吸血鬼の仕業だって騒げば、怖がるだけで深追いしなくて済む。そうやって、真実から目を逸らしてる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
遠くの鐘が朝を告げる。衛兵たちが散っていき、街は何事もなかったかのように目覚めていく。
だが、レオンたちはその死体の姿を、脳裏から拭い去れずにいた。
アラトリアの舞台の裏で、何かが静かに蠢いていた。
その夜、マエスト地区の広場では、吸血鬼の噂が笑い話になっていた。
「聞いたか? 今度の被害者、劇団の小道具係だったらしいぞ」
「演出のために血を抜かれたんじゃないか? ハハハ!」
そんな軽口が飛び交う一方、広場の片隅では真顔の老婆が若者に向かって語っていた。
「昔からな、アラトリアには“赤い夜会”ってのがあってな……若い女ばかりが、ある屋敷に招かれて帰ってこなかったのさ」
「それって、本当に吸血鬼の話なんですか?」
リィナがそっと声をかけた。
老婆は目を細め、しわだらけの指を胸元で組む。
「わからんよ。けど、“あの女”が姿を見せるようになってから、何かが変わったのは確かだよ」
「あの女……?」
「エルゼベト夫人さ。最近急に若返ったって噂の、あの貴族の女」
リィナはその名に聞き覚えがあった。
エルゼベト・ヴァルナ。貴族界の中でも上位に属する名門家系の出で、十年前には年老いた姿を見せていたはずの女が、ここ数年で見違えるほどの美貌を取り戻したと話題になっていた。
「……その夫人の屋敷、どこにあるか知ってる?」
老婆は少し首を傾げたのち、小さく呟く。
「……ガルリエ地区さ。劇場の裏通り、花で飾られた門のある屋敷」
リィナは静かに礼を言って立ち去る。
その帰り道、合流したカイがリィナに問いかけた。
「何かわかったか?」
「エルゼベト夫人。……見に行く価値があるわ」
「おいおい、いきなり貴族様の屋敷に突撃するってか? レオンが聞いたら怒るぞ」
リィナは小さく笑う。
「怒る前に、ついてくるでしょ。あの人も、絶対気になってるはずよ」
その頃、レオンはすでに屋敷の外壁を見上げていた。
高い塀、花に埋もれた門、そしてほのかに香る“鉄と薔薇”の匂い。
レオンは無言で呟いた。
「……血の匂いだ」
翌日、カイはひとりでマエスト地区の古い酒場を訪れていた。
壁に剣の傷が刻まれ、床は酒と泥で黒ずんでいる。観光客は寄りつかない、地元の兵士や裏稼業の人間が集う場所だった。
「――でさ、その赤ワインってのが妙にクセあってさ。なんつーか、鉄っぽいんだよな」
聞き耳を立てていたカイの目が細くなる。話しているのは、酒場の奥に座る年配の男。地元の武具屋の店主だという。
「最近よく出回ってる“女将仕込み”ってやつだ。貴族女に人気らしくてよ。飲むと肌が白くなるとかなんとか……ったく、気持ち悪い話だぜ」
カイは静かに席を立ち、リィナに合流する。
「妙なワインが出回ってるらしい。“女将仕込み”ってやつで、貴族の女たちに人気らしい」
リィナが目を細める。
「肌が白くなる……?」
「それだけじゃない。“鉄っぽい”って言ってた。飲んだことある人が、なんかクセになるとかなんとか」
リィナは無言で自分の腕をさする。うっすらと、鳥肌が立っていた。
「……まさか」
彼女は小さなガラス瓶を取り出し、中の液体を光に透かす。
「昨夜、屋敷の門の近くにあった廃棄瓶。中身はほとんど空だったけど、少しだけ残ってたの」
「それ……まさか」
「血よ。検査薬の反応が出た。薄められてるけど、人の血液が含まれてる」
カイの顔から笑みが消える。
「それ、冗談じゃなくて……本当に?」
「間違いないわ。しかもこの反応、加熱も凝固もしていない。つまり……生き血」
広場の喧騒が遠くなる。
カイは無意識に腰の短剣に手をかけていた。
「なあリィナ。あの夫人……マジで“血を飲んでる”のか?」
「飲むだけじゃない。噂によれば、肌に塗ったり、湯に入れたり。まるで若返りの薬みたいに扱ってるらしいわ」
リィナの目が真っ直ぐに細くなる。
「そして、その出処は……この街の人間」
カイは低く吐き捨てるように言った。
「やっぱり、ぶっ壊れてるよこの国」
ガルリエ地区の中でも、ひときわ目を引く屋敷があった。
白い石造りの壁に、深紅の蔦が這い、花の咲き乱れる門扉の奥。昼でも薄暗い庭に佇むのは、エルゼベト・ヴァルナ夫人の邸宅だった。
レオンは門の外から、それを無言で見上げていた。
そこには、気配があった。目には見えない、しかし確かに存在する“何か”が、屋敷全体にまとわりついていた。
背後から、控えめな足音が近づく。
「見張りは少ない。門番も形式的だし、通りに面してない側の塀は乗り越えられる」
リィナが報告する。
「内部の様子は?」
レオンが尋ねると、リィナは少し目を伏せる。
「……外から見える範囲には、女性の使用人ばかり。しかもみんな、やたら肌が白いの。人工的に、ね」
「“塗ってる”ってことか」
「ええ。もしくは――塗られてる」
カイが壁の影から現れた。
「さっき裏通りの商人に聞いたんだけどさ。最近、あの屋敷に招かれたって子が何人か戻ってきてないって話があった。どれも、家族が『街を出た』ってことにされてるらしい」
「記録も、証言も残らないってことか」
レオンの声が低くなる。
リィナが手帳を取り出し、ひとつの名前を示す。
「“ナタリア”。劇場で小道具係をしていた子。最後に確認された場所が、あの屋敷の門の前だったの」
「つまり、例の干からびた死体――彼女の可能性があるってことか」
カイの顔が曇る。
レオンはゆっくりと剣の柄に手を置いた。
「今夜、動くぞ」
その言葉に、ふたりの目が引き締まる。
その頃、屋敷の中――
鏡の前に立つ女が、血のように赤い液体を肌に塗り広げていた。
「……ああ、若返る。今日も美しいわ、私」
女の瞳は陶酔し、唇はゆるやかに笑っていた。
そして、後ろに控える小間使いが、またひとつ、銀の器を抱えて足音を立てずに退室した。
その器の底には、まだ温かさの残る赤が、ゆらゆらと揺れていた。
夜が更け、アラトリアの上層は仮面舞踏会のように華やかだった。
貴族たちが屋敷で催す夜会があちこちで開かれ、ワインと音楽、香水の香りが石畳の街を包み込んでいた。
その中でも、エルゼベト夫人の屋敷に向かう馬車はひときわ静かだった。
内部では、リィナが緊張を押し殺しながら身なりを整えていた。仮装という名目で女性たちが集められる夜会。招待を受け取ったのは「街の女性たち」の中でも選ばれた者のみ。
貴族階級の名に連なる者か、美しさで名を知られた者だけが通されると噂されていた。
「まるで、供物ね……」
リィナは窓の外を見つめながら呟いた。
一方その頃、屋敷の裏ではレオンとカイが闇に紛れて動いていた。
黒ずくめの衣に身を包み、門の裏手を周回する。塀の向こうには、使用人の搬入口とみられる木製の扉がある。
「侵入、できそうか?」
レオンが問うと、カイは片膝をついて扉の蝶番を確認する。
「いける。鍵は簡単な構造だ。開けるか?」
レオンは頷いた。
カチリ――静かに錠が外れ、ふたりは音もなく屋敷の裏口に足を踏み入れた。
中は妙に静かだった。蝋燭の灯りも最小限、廊下の奥には人の気配がある。だが、祭りのような喧騒はどこにもない。
「この静けさ……何か、隠してる」
カイが小声で言った。
ふたりは奥へ進む。途中、床に落ちた赤いしみを発見する。
レオンが指で触れ、匂いを嗅ぐ。
「血だ。拭き取られたばかりの」
同時刻――
リィナは広間へと通されていた。
シャンデリアの下、美しく着飾った女たちが小さく談笑している。だが、その誰もがどこか無表情だった。
そして、階段の上に現れたのは、エルゼベト夫人。
真紅のドレスに身を包み、陶器のように滑らかな肌をしたその姿は、まるで“人形”のようだった。
「皆さま、ようこそ私の夜会へ。今宵はあなた方の美しさを祝福するために――特別な贈り物をご用意しています」
その微笑みの裏で、何かが蠢いていた。
屋敷の地下は、まるで別の建物だった。
レオンとカイが踏み入れたのは、石で囲まれた細い通路。壁には古びた絵画が掛けられ、床はわずかに赤く染まっていた。照明はほとんどなく、蝋燭の灯が壁を揺らしている。
「ここ、本当に邸宅の地下か……?」
カイが小声で呟く。
「違う。元は何か別の建物だった」
レオンは周囲を見回しながら言った。「この造り、礼拝堂に似ている。だが祭られていたものは……神じゃねぇな」
奥へ進むと、小さな扉が現れた。その先には、湯気のこもる空間。石造りの大浴場のような場所が広がっていた。
中央に置かれた湯船。赤い液体が張られている。表面には湯気のように見える靄が揺れ、空気は鉄の匂いで満ちていた。
「……嘘だろ」
カイが言葉を失う。
浴槽の脇には、銀の器がいくつも積まれている。滴る赤。拭われた痕。床に残された爪の引っかき傷。
「ここで……」
カイは奥歯を噛み締める。
レオンは静かに一つの器を手に取り、中身を嗅いだ。
「血だ。……まだ温かい」
その言葉に、カイの拳が震えた。
「何人分だよ、これ……何人を……!」
レオンは答えなかった。ただ、黙ってその器を置いた。
一方その頃、広間ではエルゼベト夫人が「贈り物」の披露を始めていた。
「本日は、特別な“美の泉”をご用意しましたの。選ばれた皆さまだけに許された、若返りの奇跡」
布が引かれ、赤い液体の入った細長いガラス瓶が並べられる。貴婦人たちの目が輝く。
「この香り……」「本当に若返るの?」「うそみたい……!」
リィナは静かにグラスを持ち、鼻先に近づけた。
強い甘み。だが、その奥にある鉄のような重い気配。
(これ、間違いない……人の血。しかも、精製されてる)
リィナの指がグラスを強く握り締める。
(この会は、ただの化粧品の宴なんかじゃない)
そして気づく。
部屋の隅。小間使いたちの中に、ひとりだけ、視線を逸らさずこちらを見ている少女がいた。
その目は――助けを求める目だった。
リィナは視線を逸らさず、静かに歩を進めた。
小間使いたちの列の端に立つ少女。年の頃は十五、六か。着古された制服、青白い肌、そして怯えたような瞳。
リィナがさりげなく隣に立つと、少女は微かに震えながら囁いた。
「……助けて。わたし、出られないの……ずっと、ここにいるの」
「名前は?」
「ナタリア……劇場で、働いてた。でも、ある日“選ばれた”って言われて……」
やはり、劇団の小道具係の少女。既に“行方不明”として処理されている人物だ。
「ここでは何を?」
「血を……搾り取られるの。少しずつ、少しずつ……熱を奪われるみたいに。使われるまで“飼われて”るの」
リィナは深く息を吸った。「ここを抜ける道、知ってる?」
少女は首を振る。「抜けた人はいない。でも、屋敷の北の倉庫に“廃棄口”があるって、前にいた子が……」
「わかった。合図を待って」
その言葉に、少女は涙をこぼしそうになりながら頷いた。
一方その頃、地下の風呂場ではレオンとカイがさらに奥へと進んでいた。
石畳の廊下の突き当たりにある鉄扉。その手前には、血を抜くための器具と見られる異形の機械が並んでいた。管、針、搾取装置。どれも、医療というには異様すぎる構造だった。
「これ……どこで作ったんだよ」
カイが吐き捨てる。
レオンは無言で装置のひとつに触れた。その表面には、禍々しい“呪術の印”のようなものが刻まれている。
「人間が考えたものじゃねえな。影が噛んでる」
その言葉に、カイが鋭く顔を上げる。
「じゃあ、この夫人っての……」
「“使われてる”のか、“契約してる”のか……あるいは、最初から“望んでいた”のか」
レオンは剣の柄に触れた。
その瞬間、階上から微かな悲鳴が聞こえた。
リィナの声だった。
広間の空気が変わった。
リィナがナタリアに手を伸ばした瞬間、貴婦人たちの視線が一斉にこちらを向いた。
それはまるで、舞台上の役者が“台本にない動き”をした瞬間のようだった。
「――なりませんわ」
静かな声が広間に響く。
階段の上、エルゼベト夫人がゆっくりと降りてくる。その顔には笑みが浮かんでいたが、目は笑っていなかった。
「その子は、まだ“完成”しておりませんの。途中で持ち出されては困ります」
リィナはグラスをテーブルに置き、ゆっくりと振り向いた。
「あなたがやっていることを、街の人々は知りません。でも、見ている人はいる。証拠も、ある」
「証拠?」
夫人の笑みが深くなる。「それは困りますわね。けれど――安心なさい。あなたも、きっと理解できます」
その言葉と同時に、小間使いのひとりが鈴を鳴らす。
奥の扉が開き、数人の男たちが現れた。使用人とは思えぬ、無言の護衛たち。どこか人の気配のない、沈んだ目をしている。
「ご招待したのは、“品評”のためですの。あなたのような気丈なお客様が、どれだけの美しさを手に入れられるか……それを知りたかったのです」
リィナがナタリアを背にかばいながら後退する。
(やばい、逃げ道が……)
その瞬間、窓の外のガラスが割れた。
闇の中から飛び込んできた影――レオンだった。
無言のまま空中で体を回転させながら着地し、護衛のひとりの首を薙いだ。
その動きは、演技でも演出でもない。“本物の殺意”だった。
「……遅い」
リィナが小さく笑う。
「間に合った」
レオンが短く答える。
カイも続いて窓から飛び込み、すぐにナタリアを抱え上げた。
「こっちから脱出するぞ!」
リィナが頷き、後を追う。
エルゼベト夫人は階段の上からその様子を見つめ、やがて深く息を吐いた。
「やはり、あなたたちは“選ばれない”側なのね。残念ですわ」
そしてその背後――
壁に掛けられた絵画が、ひとりでに揺れ始める。
影が、蠢き始めていた。
夫人は一歩、後ろに退いた。絵画の影から無数の黒いものが飛び出し、それが螺旋を描くように彼女の身体を包み込む。
「……潮時のようね」
低く、残響のように響いた声がそれきり。
夫人は黒い影が弾けるように四散し、無数のコウモリへと変じた。
それは一気に天井の窓を突き破り、夜の帳へと消えていった……
脱出は一筋縄ではいかなかった。
屋敷の構造は複雑に入り組み、逃走経路をあらかじめ把握していなければ迷路のようだった。しかも、護衛たちは無言で正確に動き、道を塞ごうと各所に配置されている。
「北側の倉庫って言ってたな!」
カイがナタリアを背負ったまま駆ける。
レオンとリィナはその左右で警戒しながら進む。数人の護衛が再び現れたが、レオンの剣がそのたびに沈黙をもたらした。
だが、異変はそのあとだった。
「待って……何か、来る」
リィナが立ち止まり、息を潜める。
廊下の奥。黒い“何か”が蠢いていた。
それは影だった。
だが、ただの影ではない。
人の形をしていた。いや、“していた痕跡”と言うべきかもしれない。服のような布が引き裂かれ、骸骨と筋だけが残ったような異形。
その両目には、闇が宿っていた。
「……あれが」
レオンが剣を構える。
「影が取り憑いた……器か」
リィナが唾を飲む。
怪物は静かに、だが確実に歩み寄ってくる。音もなく、気配もなく。ただ、見た者の背筋を氷のように凍らせる威圧をまとって。
カイがナタリアを下ろし、短剣を抜く。
「やるしかねぇな」
レオンは一歩前に出て、剣をゆっくりと振った。
「下がってろ。こいつは、俺がやる」
怪物が疾駆した。
目にも留まらぬ速さで間合いを詰めてくる。
レオンが剣を振り上げる。空気が裂け、金属音が弾けた。
衝突。火花。
怪物の腕が鋭い爪のように変化し、レオンの剣と激突する。
だが、レオンの表情は変わらない。
「……遅い」
一閃。
刃が影を裂いた。
だが、影は崩れなかった。裂かれた場所が、すぐに黒く再生しはじめる。
「再生するのか……!」
リィナが叫ぶ。
レオンは一歩後退し、構えを変える――その瞬間、影の爪が鋭く伸び、レオンの胸元を掠めた。
レオンはわずかに体勢を崩し、背後の燭台に肩をぶつける。
重々しい鉄の燭台が床に倒れ、燃え盛る蝋燭が絨毯へと転がった。
乾いた音とともに布地が燃え上がる。炎がじわりと赤く広がり始めるが、戦闘中の彼らに気づく余裕はなかった。
「じゃあ、それごと――消し飛ばす」
次の瞬間、レオンの剣に光が宿った。
白銀の輝き。それはただの鉄ではなく、“何か”を断ち切るための力だった。
レオンの剣が光を帯び、空気が震えた。
斬撃が放たれた瞬間、光の軌跡が影を貫き、その中心を断ち割った。
影は一度は再生を試みたものの――今度は違った。
白銀の光に触れた箇所が蒸発するように崩れ、再生するどころか逆に崩壊していく。
「これが、“本当の一撃”か……!」
リィナが呟く。
怪物は断末魔を上げることもなく、静かに塵となって消えた。その場には何も残らなかった。いや――
ひとつ、黒い宝石のようなものが床に転がっていた。
カイが拾おうと手を伸ばしかけるが、レオンが止める。
「触るな。影の核かもしれん」
レオンは小瓶に布を詰め、それを慎重に包み込んだ。
「あとで封じて処分する。こんなもん、持ってるだけで禍の種だ」
その言葉に誰も逆らわなかった。
騒ぎを聞きつけた残りの護衛たちは、異形の消滅とともに怯えて逃げていった。屋敷の秩序は崩壊し、ナタリアを含む数名の使用人が解放された。
そして翌朝――
アラトリアの街では、ひそやかな噂が流れた。
“ある貴族の屋敷が夜の間に炎上した”
“あのエルゼベト夫人が、姿を消した”
“また、干からびた死体が見つかった”――と。
「また起きたのか……」
路地裏でその知らせを聞いたレオンが、ぽつりと呟いた。
「影の気配は、まだ消えてない」
リィナが真剣な表情で言う。
カイはナタリアを見ながら、口を開いた。
「とりあえず、こいつは安全なとこに預けよう。劇団に戻れるなら戻してやる。無理でも、居場所は見つけてやるさ」
ナタリアは、小さく何度も頷いた。
都市の表向きの秩序は保たれていた。だが、地下では何が渦巻いていたのか、誰も正確には知らない。
レオンたちはその夜、宿に戻った。
エルゼベト夫人の姿は二度と確認されなかったが、彼女の屋敷が“元から存在しなかった”かのように扱われ始めたことが、むしろ不気味だった。
「都市ってのは、こういうことも飲み込むんだな」
レオンが低く言う。
「飲み込んで、なかったことにする」
リィナが続ける。
「だから、英雄が必要なんだろ」
カイの言葉に、ふたりは何も言わなかった。
それでも彼らは、今日も都市にいる。
影が、まだこの街のどこかで蠢いていることを、誰よりも知っていたから。




