イストラン
風が吹いていた。
乾いた土の上を、熱を帯びた風がなぞるように流れていく。
街道沿いの風景は変化に乏しかった。
わずかに起伏のある大地に、ところどころ枯れかけた灌木が並び、折れた木杭が陽に焼けて立っている。
遠くの地平線に、街の外壁がうっすらと見え始めていた。
その一本道を、ひとりの男が歩いていた。
手綱も荷物も持たず、連れもいない。
砂ぼこりに曇った外套を羽織り、汗をかいても拭こうともしない。
背は高く、筋肉質な体格が旅装の下からもはっきりと分かった。
だが重たさはない。足取りは一定で、無駄な動きもなかった。
男の名は、レオン。
名乗ることは少ない。必要とされることも、訊かれることもない。
だが、その背に吊られた剣の存在が彼の素性を物語っていた。
柄はすり減り、鍔には細かな刃こぼれの跡があった。
それは飾りではなく、使われている剣の証だった。
イストランの外門に着いたのは、昼を少し回った頃だった。
門の周囲には商隊が一台、税吏とのやり取りをしていた。
衛兵が二人、槍を持って立っている。
門は半開き。市壁の上には見張りが一人だけ。
開けた街ではよくある風景だった。
レオンが近づくと、門番のひとりがちらりと視線を寄越した。
長身で無言の男。腰には年季の入った剣。
不審者のようでいて、手練れのようでもある。
だが門番は何も言わなかった。
こういう者は、ときどき来る。
余計なことを言えば、面倒なことになる。
レオンは立ち止まらず、そのまま門をくぐった。
街の中は雑音に満ちていた。
馬のいななき。商人の怒鳴り声。
鉄器を叩く音。子どもが遊ぶ声。
洗濯物が翻る音、犬が吠える声、誰かがこぼした水の跳ねる音。
それらがすべて重なり、混ざっていた。
イストラン。
西部において交易と鉱山で成長してきた都市で、冒険者や旅人の拠点としても知られている。
だが、その成り立ちと裏腹に、秩序は緩い。
緩さゆえに自由であり、雑多で、粗い。
レオンは音の洪水の中を、無言のまま歩いていった。
視線は定まっていた。
目指す場所は、決まっている。
街の中央やや東、広場の奥にギルドがある。
冒険者たちが集まり、依頼を受ける場所だ。
その建物の手前に、掲示板があった。
雨と風に晒されながら、無数の依頼が貼り出されている。
一部は紙が破れ、端がめくれ、誰かの手に取られては戻された跡があった。
レオンは一枚の紙を手に取った。
『東方旧遺跡 調査依頼
危険度:B
報酬:8,000グラン
備考:探索者3名消息不明。調査進行困難につき要再確認。依頼急募。』
文面は簡潔で、余計な情報は書かれていない。
だが、読み慣れた者なら分かる。
“詳細不明”で“調査困難”とある依頼は、たいてい何かが起きている。
レオンは依頼書を畳んで鞄にしまい、掲示板から離れた。
ギルドの建物に入ると、空気が変わった。
外の喧噪とは別の、籠もった匂い。
汗、革、古い木材、酒精。
戦いと生計が交差する空気だった。
奥には酒場があり、既に何人かの冒険者が椅子に座っていた。
談笑する者、酒をあおる者、酔って寝ている者。
そのどれにも興味はなかった。
カウンターの奥に、一人の受付嬢がいた。
若く、制服の襟はよく整っている。
姿勢も正しく、応対に慣れている様子だった。
彼女はレオンの姿を認めると、自然な笑顔を浮かべて声をかけた。
「依頼の登録でしょうか?」
「ああ」
「どちらの案件で?」
レオンは紙を差し出した。
彼女は内容を確認し、ほんのわずか眉を動かした。
「……この依頼、今週だけで三人目ですね。
みなさん途中で撤退されてます。怪我人も出ていますが……行かれますか?」
レオンは無言で頷いた。
受付嬢は小さく息をつき、机上の記録帳にペンを走らせる。
名前の記入を求めるでもなく、ギルドカードの提示もなかった。
それが、この街の流儀らしい。
「出発は?」
「今夜」
「装備の補充は?」
「必要ない」
彼女は一瞬だけ口を開きかけて、何も言わずに閉じた。
数秒後、記録を終えた巻物を丸めて棚へと戻す。
「……お気をつけて」
レオンは軽く頷いてその場を離れた。
振り返りもせずに酒場の横を通り抜ける。
冒険者たちの笑い声が響く中で、彼はまるで別の時間にいるようだった。
ギルドの外に出ると、陽射しが少しだけ傾き始めていた。
日没にはまだ早いが、影が伸びている。
その影の中に、誰かの視線を感じた。
わずかに視線をずらすと、広場の片隅――露店の屋根の陰に、青年が立っていた。
年は二十代半ば。細身で、軽装。背負った短弓と、腰のナイフが目を引く。
青年はレオンと目が合うと、にやりと笑った。
「あんた、旧遺跡行くのか?」
「……何者だ?」
「ただの通りすがり。だけど、俺もちょっと興味があってさ。
危ない場所って、妙に惹かれるんだよな。物好きってやつだ」
馴れ馴れしいが、敵意は感じない。
軽口と笑顔の奥に、探るような視線があった。
「名は?」
「カイ。東の方から来た冒険者。ちょっとした事情で、今は無所属」
レオンは相手をじっと見たまま、答えなかった。
「あんたの名前は?」
「……レオン」
「へえ。やっぱり、見た目どおりの名前だな。強そうっていうか、怖そうっていうか」
そう言って、カイは笑った。
人懐っこさと軽薄さの間に立っているような笑い方だった。
「俺、実は遺跡の依頼、三日前に一度見に行ったんだよ。
けど、途中で空気がおかしくて引き返した。だから今こうして生きてる」
レオンは無言のまま、視線を遠くへやった。
カイはレオンの横に並び、勝手に歩き始める。
「一緒に行くのはどう? あんた一人でも平気そうだけど、
俺、弓は得意だし、道も少し覚えてる。案内くらいにはなるぜ」
しばらく沈黙があった。
レオンは歩みを止め、振り向いてカイを見た。
「理由は?」
「さっきも言ったろ? 物好きってやつさ。
あとは……まあ、あんたなら“帰ってこられる”気がした。
それだけでもついていく価値はあるだろ?」
レオンは、ふっと小さく息を吐いた。
それが笑いだったのか、呆れだったのかは、誰にも分からなかった。
「勝手にしろ」
「よっしゃあ!」
カイは勝手にガッツポーズを取っていた。
その様子を、通りの反対側から見ていたもう一人の影がいた。
少女――否、年齢的にはもう“大人”の女性だろう。
栗色の髪を高めの位置で結い、旅装に弓を背負った姿。
精悍さと快活さを兼ね備えた雰囲気がある。
彼女は二人の様子を見て、口元を緩めた。
「ふうん。なるほどね。
あの二人、ちょっと面白そうかも……」
そうつぶやくと、弓を背負い直し、ゆっくりと二人のあとを追い始めた。
彼女の名は――リィナ。
今はまだ、誰も知らない。