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迷宮の街

迷宮の街——正式には『ラグナ=ミュール』と呼ばれるその場所は、大陸中部の交通の要衝に位置していた。

 街の中央に口を開けた巨大な石造りの穴。そこが、すべての始まりであり、終わりでもある。古の時代から存在すると言われるダンジョンの入り口は、今では冒険者ギルドによって厳重に管理されていた。


 レオンたち三人がその街の門をくぐったのは、昼も過ぎた頃だった。


「へえ……なるほどね。迷宮の街、か」

 先に口を開いたのはリィナだった。目を輝かせながら、高い建物が並ぶ街並みを見回す。

「冒険者だらけだな。見た感じ、みんなそこそこの腕だ」

 カイが苦笑交じりに肩をすくめる。通りすがる者たちは、全員が何らかの武器を携えていた。剣、槍、杖。中には巨大なハンマーを背負う者もいた。

 それぞれが腕に自信のある者ばかりだろう。だが、その目に浮かぶのはギラついた欲望だ。名声か、金か、それとも——。


「……」

 レオンは一人、言葉少なに歩く。

 背中に担いだ剣も、足取りも、周囲の喧騒には一切影響されない。

 まるで、迷宮の底から戻ってきた影のように、静かで重い。


「さて、まずはギルドで登録を確認して、ダンジョンへの入場許可を取らなきゃだね」

 リィナが地図を開いて、方角を確かめる。


 冒険者ギルドの本部は、ダンジョンの入り口すぐ近くに設けられている。中央広場を囲むように半円状に建つ石造りの大きな建物は、都市の象徴のように聳えていた。


「登録済みの冒険者でも、ここの迷宮に潜るには改めて許可が要るって話だったな」

「うん。どうやら推薦状があると通りやすいらしいけど、私たちは普通に手続きするしかないかな」


 三人はそのまま広場を横切り、ギルドへと足を向ける。


 広場の中央には、迷宮の入り口が口を開けていた。黒曜石のように黒く艶めく石が、巨大な歯のように並ぶアーチを形作っている。その向こうは深く、闇に満ちていた。

 その前に立つだけで、息苦しいような圧力が肌を撫でていく。


「すご……。これが、噂の迷宮……」

 リィナが小さく呟いた。


 その背後で、レオンの視線だけが、何かを見据えるように僅かに動いた。

 だが誰も、その意味にはまだ気づかない。


 やがて三人はギルドの石扉を押し開き、中へと入った。


冒険者ギルドの内部は広く、天井の高い石造りの空間に、喧騒が満ちていた。受付カウンターが複数並び、それぞれの窓口には冒険者と職員が向かい合っている。張り出された依頼板には、討伐、採集、護衛など、様々な仕事がびっしりと書かれていた。


「うわ……すごい活気」

 リィナが声を漏らすのも無理はなかった。ここは名実ともに、数千人の冒険者が集まる巨大拠点だった。


 カイは依頼板を一瞥し、「ドラゴンの巣調査」とか「地下五層の黒影掃討」といった文字を見て目を丸くする。

「ここの依頼、ひとつひとつが重すぎるな。Bランク以下お断りってのも多いし」

「それだけ深くて危険なダンジョンなんだよ。中には戻ってこなかった人もいるって噂」


 リィナが受付で手続きの列に並ぶ間、レオンとカイは壁際に立ってそれを見守っていた。

 レオンは静かに視線を巡らせる。無言ながら、まるで戦場の地形を把握するかのように、隅々まで目を通していた。


 その時だった。


「よう、お前ら。旅の冒険者って感じだな?」


 唐突にかけられた声に、カイが振り向く。

 声の主は、まだ若い男だった。年の頃は二十代前半。金髪を無造作に後ろで束ね、革鎧に派手な刺繍を入れた格好。腰にはそれなりに高級そうな細剣。歯の浮くような笑みを浮かべていた。


「……あんたは?」

「ゼイド様だ。見ての通り、冒険者だよ」

 胸を張って自分の名を名乗る男は、どう見ても自信に満ちていた。


「名前、聞いてないけどな」

「ま、すぐに覚えるさ。俺はそのうち、この街の最深部を制覇する男になるんだからな」


 カイが苦笑する。

「それは結構だけど……なんで俺らに話しかけてきたんだ?」


「見りゃ分かる。お前ら、なかなか筋が通ってそうだったからな。特にそっちの巨漢、あんた……」

 ゼイドの視線がレオンに向けられる。だがレオンは、一瞥もくれず、視線を宙に置いたまま動かない。


「無視かよ。はは、いいね。大物は違うなあ」

 ゼイドはそれすら気にせず、笑って見せる。

「なあ、ひとつ聞くけどさ。お前ら、今から迷宮に潜るつもりだろ? だったらさ、ちょっと一緒にどうかと思ってな」


 カイが目を細める。

「いきなりすぎるだろ。初対面のやつを仲間に加えるバカはいない」


「そりゃそうだ。でも、俺は戦える。この街でだって、それなりにやってきた」

「へえ? それなりに、ってのは?」


 ゼイドは一瞬、わずかに視線を逸らした。だがすぐに軽薄な笑みで取り繕う。

「……ま、ちょっとチームと合わなかったってだけさ。俺は一匹狼のほうが性に合ってる」


 その言葉に、リィナが手続きを終えて戻ってきた。

「カイ、手続き済んだよ——って、誰この人?」

「自称・最深部の男だとさ」


「ゼイド様、だ」

 胸を張る男に、リィナはわずかに眉をひそめた。


「……よろしくね」


 その空気の中で、レオンだけは、まったく動じる様子なく、ギルドの奥にある巨大な地図をじっと見つめていた。


ゼイドという男は、一見すると陽気で軽薄だった。だが、その口ぶりや仕草には、どこか焦りのようなものが滲んでいた。


「なあ、悪い話じゃないと思うんだよ。そっちの巨漢——いや、レオンさん? あんたの実力、見れば分かる。俺の目は確かだからな」


 レオンは答えない。視線を向けることすらしなかった。


「……ふうん」

 リィナはゼイドを一瞥し、肩をすくめる。

「で、なんでそんなに一緒に行きたいの? あなた一人で行けばいいじゃない」


「それがさあ……」

 ゼイドは口元を曖昧に歪めた。

「今ちょっと、ソロでの申請が通らなくてな。前のパーティと揉めて、ギルドに少し睨まれてるっていうか……」


「そりゃあんた、結構なやらかししたんじゃないの」

 カイが呆れたように言うと、ゼイドは焦ったように両手を振った。

「誤解だよ、誤解! ちょっと意見が食い違っただけで、俺は別に——」


「もういいよ」

 リィナが軽く制した。

「とにかく、私たちに協力する理由は何もない。あんたがどうなろうと、こっちは関係ないんだから」


 その言葉に、ゼイドはしばらく口を閉ざした。だが、不思議と諦めたような素振りはなかった。


「ま、そう言うと思ったよ」

 そして、懐から取り出したのは、奇妙な形の小型魔石だった。ギルドで手続きに使われる登録端末に似ていたが、手作り感が漂っていた。


「これさ、俺が改造した魔石なんだけどさ……ちょっとしたショートカットに使えるんだよ」

「ちょ、ちょっと、それ触っちゃ——」


 リィナが制止する間もなく、ゼイドはその魔石をカウンター横の端末にかざした。


 次の瞬間、パシッという軽い音と共に、登録端末の魔石が光り、そして煙を上げた。


「……あー」

 カイが眉をしかめ、リィナが頭を抱える。


「……なにやってんのよあんた!」

「いや、ちょっと便利にできるかと思って……でも、なんかズレたみたいで……」


 案の定、ギルド職員が飛んできて、「あなた、またですか!」と怒鳴られる。

 どうやら前科があるらしい。


 騒動の後、レオンたちは別の窓口へと移され、手続きをやり直すことになった。ゼイドは謝るでもなく、ニコニコと後をついてきた。


「なあ、こんなご縁もあるってもんだろ?」

「ないよ」

 リィナが即答する。


「レオン、どうする?」とカイが訊ねたとき、レオンは初めてゼイドを正面から見た。

 その瞳は、笑っているが、どこか乾いていた。


「勝手に来たければ、来い」


 それだけを言い残し、レオンは背を向けた。


「おお……! マジで? じゃあ、お言葉に甘えて!」

 ゼイドが満面の笑みを浮かべたとき、カイとリィナは同時に深いため息をついた。


その後もゼイドは、三人の後ろを当然のように付いてきた。

 宿を決め、簡単な装備を整え、翌朝にはダンジョンへの出発準備が整う——はずだったのだが。


「おいゼイド、それ本気で持ってくのか?」

 カイが半ば呆れたような声を出す。ゼイドが背負っていたのは、見た目だけは立派な真新しい大剣だった。金の縁取りに宝石の飾りまでついているが、どう見ても重そうで、実用には向かない。


「見た目が派手なほうが魔物もビビるってもんだろ?」

「バカかお前は」


 レオンは道具袋を一瞥したきり、何も言わなかった。リィナは小さく溜め息をつく。


「ゼイド。あんた、自分の力量をちゃんと把握してる?」

「してるさ。俺の剣はな、まだ本気を出してないだけなんだよ」

「もう聞き飽きたって、そのセリフ」


 軽口を叩くゼイドに対し、三人はもはや怒る気もなかった。

 だが、それでも彼はついてくるという。その姿勢だけは、図々しいを通り越して、どこか必死さすら感じさせた。


 そして朝。ダンジョン前の広場には、すでに複数のパーティが集まっていた。各々が装備を最終確認し、ギルド職員に通行証を見せて階段を下りていく。


「うわ、本当に地下に降りてくんだな……」

 ゼイドがぽつりと呟いた。


 ダンジョンの入り口は、まるで地の底に通じる喉元のように、黒く大きな穴を穿っていた。階段は緩やかだが長く、見下ろすと闇が吸い込むように口を開けている。


「本当に潜るんだぞ? 覚悟、できてんのか」

 カイが最後の確認を込めて尋ねると、ゼイドは笑って親指を立てた。

「任せとけって。俺、今日が本当のデビュー戦だしな」


「デビューって……」

 リィナが目を細めたが、もう何も言わなかった。


 そして、レオンが無言のまま一歩、階段を踏み下ろす。

 その背に続くように、リィナ、カイ、そしてゼイドも後に続いた。


 こうして、四人は迷宮の闇の中へと足を踏み入れた。


迷宮の内部は、外から想像する以上に広大で静かだった。

 石で組まれた壁は苔に覆われ、天井からは無数の根のようなものが垂れ下がっている。明かりは各自のランタンと、壁に点在する魔石灯のみ。常に湿り気を帯びた空気が、肌にぴたりと張り付いた。


「うわ……じめじめしてる……」

 リィナが小声でつぶやく。

「魔物、出るのか?」

「出るよ。出るから、迷宮って呼ばれてるの」


 カイが先行して通路を進み、リィナが中衛。ゼイドはというと、先頭に出たがっていたが、カイに押し戻されて後方へ。

 レオンは隊列の最後尾、無言のまま後ろを見張っている。


「くそ、俺にも先陣切らせてくれよ。こう見えて剣の腕には自信が——」


 ゼイドの言葉が途切れたのは、通路の角から飛び出した何かの気配に反応したときだった。


 カサカサ……という擦れるような音。次の瞬間、小柄な獣型の魔物が飛びかかってきた。


「チッ!」

 カイが素早く動き、短剣で相手の首を跳ねた。血が飛び散る前に後方へと跳ね退り、体勢を整える。


「……いきなりかよ」


 倒れた魔物は、ネズミと狼を掛け合わせたような姿をしていた。『牙鼠』と呼ばれる低級の魔物だが、集団で出るとやっかいな存在だ。


「うおっ、出た! 今の俺に任せてくれたら——」


 ゼイドが前に出ようとするが、またしても角から別の牙鼠が飛び出す。二匹、三匹——数が増える。


「リィナ!」

「任せて!」


 リィナが矢を番え、素早く一本目を放つ。命中、次の矢も迷いなく発射され、二匹目の首元に突き刺さる。


「ふふっ、こんなの朝飯前」


 そして三匹目——ゼイドがようやく剣を抜いて前に出た。派手な装飾の大剣を振り下ろすが、勢いがありすぎてバランスを崩し、剣は空を斬った。


「なっ——!」


 牙鼠が飛びかかってくる。その瞬間、横からカイが滑り込み、ゼイドの前に入り込むようにして斬撃を放った。


「だから言っただろ、足引っ張んなって!」

「わ、悪い……」


 ゼイドはその場に立ち尽くしたまま、肩で息をしていた。


「ったく、あの剣、見た目だけで重さのバランス最悪だぞ」

 戦闘が一段落した後、カイがゼイドの大剣をちらりと見て呟いた。

 ゼイドは苦笑いを浮かべ、剣を鞘に戻そうとして失敗し、柄が床にぶつかった。


「うわっ……もう、ほんとごめん……」


 リィナがゼイドに近づき、軽くため息をつく。

「本当に、それ使い慣れてるの?」

「いや、その……最近手に入れたばっかりで」

「……」

 彼女は言葉を飲み込んだが、その視線には明確な不信が浮かんでいた。


 道は続く。壁に苔のような光がかすかに灯る通路を、四人は静かに進む。

 途中、レオンが一度だけ立ち止まる。


 彼の足元、わずかに土の色が変わっていた。


「罠がある」

 静かに放たれたその言葉に、全員が息を呑む。


 レオンは足先で床を軽く押す。次の瞬間、わずかに床が沈み——反応する前に、彼は素早く一歩下がった。

 鋭い槍が斜め下からせり出してきて、空を裂いた。


「うわっ……!」

 ゼイドが驚きの声を上げる。


「こういうのは、慣れてないと見抜けない。危うく串刺しだ」

 カイが肩をすくめる。


 レオンは無言のまま、別の通路へと向かい直す。

 ゼイドはその後ろ姿を見つめたまま、拳を握りしめた。


「……なんなんだよ、あの人」


 その後も、数度の小競り合いがあったが、レオンの的確な判断と三人の連携により、大きな危機は避けられていた。

 ゼイドはといえば、ようやく二体ほどの小型魔物を倒すことに成功したが、動きは拙く、剣の扱いも雑だった。


「ふぅ……見たか、今の!」

 無理やり笑顔を作りながら、倒した魔物の死体を指差す。


 だが、リィナは一言だけ返した。

「今の、私が狙いを外してなかったら、横から噛まれてたわよ」


 ゼイドの表情が曇る。

 それでも、彼はまだ「取り返せる」と思っていた。


 だが、それが誤りだったと悟るのは、もう少し先の話だ。


迷宮の第三層に降りた時、空気が一段と重くなったのを誰もが感じた。

 壁の苔は黒ずみ、床には割れ目が走っていた。魔石灯の光はかすみ、明かりの届かぬ範囲では何かが蠢く音が微かに響いてくる。


「……気をつけて。ここから先は、罠や魔物の質が変わる」

 リィナが小声で言い、矢を一本、すぐに使えるように弦に軽くかける。


「なんか……空気が濃いっていうか、やばそうだな」

 カイが首筋をさすりながら後方を確認する。


「うぉ……なんか床、ちょっと傾いてないか?」

 ゼイドが通路の途中で立ち止まり、不安そうに辺りを見回した。


 そのときだった。


 ガキィンッ——!


 突然、鋭い音とともに、通路の奥から床が崩れ落ちた。地面が大きく軋み、割れ、土煙が舞い上がる。


「おい、伏せろ!」

 カイの声が響いた次の瞬間、天井の石板も崩れ、粉塵と瓦礫が通路を飲み込んだ。


 ゼイドは叫び声を上げ、剣を振り上げるが、それは何の役にも立たなかった。

 粉塵の中、彼はバランスを崩し、後ろに倒れる。


 リィナが咄嗟に駆け寄ろうとする——が、間に亀裂が走る。地面が裂け、紫がかった霧が吹き出した。


「毒霧——っ! 下がって!」

 リィナが叫び、後退しかけたその時、霧の中心から牙のような何かが突き出た。


 ゼイドが声も出せず立ちすくむ。


 その瞬間——リィナが彼を突き飛ばした。

 牙のような突起が彼女の脇腹をかすめ、布を裂く。


「リィナッ!」

 カイが叫び、素早く彼女を引き寄せる。

 ゼイドは尻餅をついたまま、ただその光景を呆然と見ていた。


 そして、ようやくレオンが動いた。


 彼は静かに、霧の中へと一歩足を踏み入れた。


 その背は、まるで——暗闇に差し込む一筋の刃のようだった。


レオンの姿が、霧の中に溶けるように消えた。


 視界は悪く、毒霧のせいで喉が焼けるように痛む。だが、その中でも金属が擦れる音だけが、確かに響いてきた。


 ギリリ……ギィン!


「レオン、あんた……!」

 リィナが声を出すが、咳き込み、片膝をつく。彼女の脇腹からは、細く血が滲んでいた。


「動くな! 俺が……」

 カイが急いで荷物から応急処置用の布を取り出し、リィナの傷口を押さえる。


 その間にも、霧の中では何か巨大なものがうねるような気配が続いていた。


 ギルゥ……ガギャアッ!


 明らかに魔物の呻き声だった。重く低いそれは、牙鼠のような小型ではない。


 突如、霧の奥から、何かが跳ね飛ばされるように吹き飛んできた。大きな甲殻をもつ獣の胴体——おそらく、巨大な毒蟲——が壁に叩きつけられ、地面に落ちる。既に動かない。


 その直後、レオンが姿を現した。左肩の布が裂けていたが、傷らしい傷は見当たらなかった。


「もう……終わったの?」

 カイが思わず声を漏らす。


 レオンは答えず、リィナの様子を一瞥する。

「毒は浅い。致命傷にはならん」

 それだけ告げると、ゆっくりと霧の中を見渡した。


「道を引き返すのは危険だ。この層の奥に抜け道がある」

「知ってるの?」

 リィナが顔を上げて訊ねると、レオンはほんのわずかに頷いた。


「昔、一度だけ通った」


 誰もそれに突っ込むことはなかった。

 この男がなぜそんな過去を持つのか、それを詮索しても無意味だと、三人とも既に理解していたからだ。


「……で、俺は、何をしてたんだろうな……」

 ゼイドがぽつりと呟く。彼は未だ膝をついたまま、剣を抜くことも、誰かを助けることもできなかった自分を、ただ見つめていた。


 その拳が、震えていた。


抜け道と呼ばれた通路は、第三層の奥に隠されていた古い搬出用の通路だった。

 石の壁にはかつての荷車の轍が残り、ところどころ崩れかけていたが、確かに地上へと繋がっていた。


 レオンが先導し、負傷したリィナはカイに肩を貸されながら歩く。

 ゼイドは最後尾、うつむいたまま、誰とも目を合わせなかった。


 ようやく地上の明かりが見えたとき、四人は無言のまま外の風を受けた。

 夕暮れ時の空は赤く染まり、街の石畳は長い影を伸ばしていた。


「とりあえず、宿に戻ろう。リィナを休ませなきゃ」

 カイが言い、レオンが無言で頷く。


 宿へ戻り、簡単な手当てを終えると、カイとリィナは部屋で休み、レオンとゼイドだけが一階の酒場に残った。


 酒場の片隅、木製のテーブルに二人。レオンは何も注文せず、水だけを口にしていた。


 ゼイドが震える声で口を開いたのは、それから随分と時間が経ってからだった。


「……あんたたち、本当に強いな」


 レオンは反応を見せない。だが、耳は確かに傾けている。


「俺さ……本当は、怖かった。迷宮に潜るって、どこかで軽く見てた。強くなれば、それで全部通るって……」


 手元のジョッキに残った酒が、微かに揺れる。ゼイドの手は強く握られ、爪が食い込んでいた。


「でも違った。俺は何もできなかった。リィナさんを守れなかったし、あの霧の中じゃ、動くことすらできなかった」


 レオンが静かに水のコップを置いた。


「なら、強くなればいい」


 その言葉は、突き放すようにも聞こえた。

 だがゼイドは、なぜかほんの少しだけ顔を上げた。


「……なれるのかな、俺でも」


 レオンは答えない。ただ、目の奥に何かを映していた。

 それが絶望か、あるいはかつての自分への投影なのか——ゼイドには、まだ分からなかった。


翌朝、陽が差し込む宿の食堂には、リィナの姿も戻っていた。

 まだ動くたびに痛みはあるらしいが、笑顔を見せる余裕は取り戻していた。


「よかった、顔色戻ってきたな」

 カイが湯気の立つパン粥を運びながら言うと、リィナが苦笑する。

「さすがにこれくらいで寝込んでたら、冒険者失格よ」


 一行が簡単な朝食を済ませたころ、階段を降りてきたゼイドの姿があった。


 昨日の軽薄な調子は消え、表情も引き締まっていた。剣は背負わず、荷物もなかった。


「……おはよう」

 その声は小さかったが、はっきりしていた。


「どうしたの? 準備してないの?」

 リィナが問いかけると、ゼイドは小さく首を振る。


「俺は……もう行かないよ。あんたたちとは」


 カイが驚いたように眉を上げた。

「は? 何言って——」


「昨日、俺は本当に何もできなかった。怖かったし、悔しかった。だから……このまま一緒にいても、足を引っ張るだけだ」


 言葉に嘘はなかった。ゼイドは自分の未熟さを、自分で認めていた。


「でもさ……ありがとう」

 そう言って、彼は懐から小さな袋を取り出した。


「これ、昨日拾った魔石。お守り代わりにでもしてくれ」


 リィナが受け取り、中身を覗くと、それは光を帯びた小さな魔石だった。特に高価なものではないが、温もりを帯びているように感じられた。


「じゃあな。また、どこかで」


 ゼイドはそれだけを言い残し、静かに宿を後にした。


 誰もそれを引き止めなかった。

 ただ、レオンは窓際から外を見ていた。街の人波に紛れていくゼイドの背中を、最後まで見送っていた。


「彼、変わったね」

 リィナがぽつりと呟いた。


「変わったっていうか……やっとスタートラインに立ったんじゃないか?」

 カイが呟き、パンを一口かじる。


 そして、レオンは何も言わず、立ち上がった。


「行くぞ」


 それが、次の旅の始まりを告げる合図だった。



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