緑の街
それは、道を少し逸れたときだった。
緩やかな丘陵地帯を抜けた三人は、地図にも記されていない森の入り口に立っていた。空気が違う。湿り気と甘ったるい匂いが混ざり合い、むせ返るほど濃密だ。
「……なあ、見てみろよあれ」
カイが指差した先には、常識では考えられないほど密集した木々と、ぶら下がる巨大な蔓植物。草の葉は手のひらの何倍もあり、見たこともない鮮やかな花が咲き乱れている。
「うわ……絶対入りたくない」
リィナが即座に眉をひそめた。「あきらかにヤバい雰囲気でしょこれ。湿気もおかしいし、虫も……あっ、もう刺された!」
カイは逆に目を輝かせていた。
「でも面白そうじゃん? なんか未知のダンジョン感あるっていうかさ」
そのとき、レオンが低く呟いた。
「気になるな」
それだけで、方針は決まった。
森の中は、外から見た以上に濃密だった。頭上を遮る木々が陽を通さず、どこか異世界にでも迷い込んだような錯覚に陥る。ぬかるんだ地面に足を取られながら進んでいると、土と血のような臭気が漂った。
次の瞬間、茂みを割って“それ”は現れた。
胴回りが大人の腰ほどもある巨大な蛇。鱗は黒鉄色で、一部には苔のようなものがこびりつき、湿った体表が陽の差さぬ空気を重くしている。瞳は縦に裂け、赤く濁っていた。舌をしゅるりと吐き出すたび、腐葉土と血の混ざったような匂いが鼻を刺す。
地を這う音――「ず、ず……っ」。その腹が地面の泥と枯葉を引きずる音だ。
「うわっ、こいつ……!」
カイが素早く飛び退きながら、蛇の注意を引きつけるように左右に動く。蛇が頭をもたげ、低く唸るように威嚇する。次の瞬間、その巨体が地を滑るようにして突進してきた。
カイは軽やかにステップでかわすが、蛇の尻尾が鞭のように跳ね上がり、カイの足を払った。
「くっ……!」
よろけながらも転倒を避けるカイ。その間に蛇は体をくねらせ、巻きつこうとする。ぬかるみによって動きはやや鈍るが、それでもその力強さは十分すぎた。
「リィナ、今だ!」
「見えてる!」
リィナの指が放たれた。矢が一直線に飛ぶ。だが鱗は想像以上に滑らかで、矢は浅く刺さるだけで弾かれた。
「効かない……!」
レオンがわずかに目を細める。その一瞬の観察をもとに、リィナが再び矢を構える。
「なら、目だ……!」
蛇が再びカイに噛みつこうと頭をもたげた瞬間、リィナの矢がその顔面を貫いた。目と鼻の間、わずかな柔らかい部位を正確に射抜く。
ぐらり、と巨体が傾き、地面に崩れ落ちた。泥と腐葉土を巻き上げながら、重い体が動かなくなる。
その直後だった。獣の気配。レオンが動きを止め、ゆっくりと顔を上げる。
枝の上に、黒い影がいた。
クロヒョウ。全身を黒い毛に覆われ、青白く光る瞳がじっとこちらを見ている。牙も爪もむき出しにはしていない。だが、完全に“こちらを見ている”。
カイとリィナが気づくのに少し遅れた。
「レオン、どうし――」
「動くな」
低く鋭い声。レオンは一歩も動かない。クロヒョウと目を合わせたまま、呼吸を整える。わずかに指先が緊張で震える気配。だが、威圧でも敵意でもない、“気配”だけのやりとり。
やがて、クロヒョウはまばたきを一度し、音もなく枝を跳ねて去っていった。
沈黙が戻る。
「……なに、今の」
リィナが息を吐いた。
カイが小声で言う。「今の、絶対俺が動いてたらヤバかったやつだよな……」
そのとき、頭上から声が降ってきた。
「おーい、あんたら旅の人かー? ならちょうどいい! うちの街がすぐそこにあるんだ。ひと休みしてってくれよー!」
見上げれば、樹上の枝に人影。男は満面の笑顔で手を振っていた。
空気は、もう“歓迎”の匂いをまといはじめていた。
男の案内に従い、三人は森の奥をさらに進んだ。
ぬかるんだ地面を踏みしめ、枝をかき分けるたびに、空気がほんの少しずつ変わっていくのを感じる。湿度が和らぎ、風が通るようになり、視界がひらけてきた。
やがて、巨大な木々が密集する丘の斜面にたどり着く。その木々はただの森ではなかった。一本一本が異様に太く、その幹をくりぬいた中に――光が見えた。
「これ……家か?」
カイが目を見張る。
確かにそこには、木の幹を住居として利用した建物が立ち並んでいた。幹の内側には階段や棚、窓まで彫られており、太い枝からは吊り橋のような通路が伸び、木と木を繋いでいる。
まるで、森そのものが街になっているようだった。
「ようこそ、緑の街へ!」
案内人の男が胸を張る。
樹上の家々から人々が顔を出し、次々に歓迎の声が飛ぶ。
「ようこそ!」「旅の人だ!」「よく来てくれた!」
子どもから年寄りまで、口々に声をかけてくるその光景に、カイは思わず笑っていた。
広場のような場所では、木の実を使った料理や、樹液から作ったという甘い酒が振る舞われた。子どもたちがカイの腰にしがみついて遊びたがり、リィナには花飾りが手渡された。
「な!? 立ち寄ってよかったろ!? 俺のおかげだぜ!」
カイが鼻高々に言う。
リィナは少し呆れながらも笑う。
「……たまにはカイの勘も当たるのね」
その夜、三人は街の有力者の屋敷に招かれ、盛大な晩餐をふるまわれた。木の幹を広げたような広間で、森で採れた食材の料理が並び、果実の甘い香りが漂っていた。
レオンは何も言わず、静かに酒を受け取った。だが口にはつけない。ただ、視線は街の奥へ、森のさらに深い場所へと向けられている。
その様子に気づかないカイが、樹の根元に腰を下ろして言った。
「なんだよレオンも楽しめよ、ったくつれないんだからなー」
そのころ、料理を運んできた中年の女性が笑いながら言った。
「これ、うちの森で採れた野菜さ。どう? 美味いだろ?」
「うん、すっごく甘い……というか、香りがすごいね」
リィナが驚きの声をあげると、女性は誇らしげに頷いた。
「森の恵みがなきゃ、うちらの街はやってけないからね。昔から、全部この森に支えられてきたんだよ」
そして彼女は、ふと思い出したように付け加えた。
「そうそう、そういえば、あんたら《ジズ爺》のとこには行かないようにね。町はずれに住んでる偏屈な爺さんで、誰とも話したがらないし、森が喋るとか今でも信じてるの。変わり者ってレベルじゃないよ」
「つまり、街の厄介者ってわけね」
リィナがぼそりと呟くと、女は肩をすくめた。
「昔は祈祷師だったって話だけど、今じゃ誰も近づかないよ。まあ、森のことを本気で信じてるの、あの人くらいかなあ」
その夜、宿代わりの木の家に三人は泊まることになった。温かい料理と笑顔、柔らかい寝床。町人たちは親切で、疑いようのない善意がそこにある。
リィナはそれでも、どこか落ち着かない様子で窓の外を見ていた。
「変よね……なんだか、親切すぎる」
「ただのいい村じゃないか? 今まで俺たちが通ってきたとこより、よっぽど住みやすそうだぜ」
「でも……何か、違和感がある」
カイは大の字で寝転がり、あっという間に眠りについた。
レオンは最後まで口を開かず、窓際に立ったまま、目を閉じることもなかった。
夜が深まったころ、セリオンの街は静寂に包まれていた。
木々の葉が風に揺れ、時おり、どこかで鳥の声が鳴く。だがその静けさの裏に、微かな足音が混ざった。枝から枝へ、重さを殺した影が一つ、街の奥へ忍び込んでくる。
カイはいつものように布団に沈み込み、数分で寝息を立てていた。
リィナもほどなくして目を閉じ、穏やかな呼吸だけが部屋に残る。
静寂の中、部屋は夜の深みに溶け込んでいた。
目的地は、有力者の館。その三階、木の窪みに設けられた客間。レオンたちが眠っているはずの部屋だった。
影が窓枠に手をかけ、音もなく忍び込む。短剣を抜きながら、布団に近づいたその瞬間――
「遅い」
低い声と同時に、何かが閃いた。襲撃者の短剣は弾かれ、反射的に後退する。すぐにその場から飛び退くように身を翻すと、開け放った窓から木々の上へ逃げ去っていった。
レオンの手には、小さなナイフが残っていた。刃先にはかすかに夜露が光っている。
隣室からカイとリィナが飛び込んでくる。
「な、何事!?」
「レオン、どうしたの!?」
レオンは短く答える。
「刺客だ。逃げた」
カイとリィナが顔を見合わせる。部屋の中に痕跡は少ない。だが、空気だけが確かに“殺気”を残していた。
夜明け。三人は町人たちに事の次第を伝えた。
だが、返ってきたのは笑い声だった。
「夢でも見たんだろ?」「あんたら、昨日はずいぶん飲んでたからなあ!」
頬を叩く者、肩をたたく者、誰も真剣に取り合おうとしない。
「……ちょっと待って、本当に誰かが襲ってきたのよ!?」
リィナが声を上げるも、年配の男がにやりと笑って言う。
「まさか、旅人を襲うなんてありえないさ。ここはセリオンだぜ?」
空気が、薄ら寒い。
カイは苦笑しながらレオンの方を見た。
「なあ……やっぱり、ちょっと変じゃねえか?」
レオンは何も言わず、ただ遠くを見ていた。目だけが、まるで別の世界を見ているように鋭く、そして静かだった。
朝方、街の外れ――木造の小屋に続く路地の先に、誰かが立っていた。
「……ん?」
カイが最初に気づいた。木の影から、誰かがこちらに手を振っている。見覚えのない老人。だが昨日、町人たちの噂に出てきた「へんくつジジイ」らしき風貌だった。
人気の少ない方角に歩み寄ると、老人は声を潜めて言った。
「お前たち、昨夜何かあったろう。夢じゃない、あれは本物だ」
レオンの目が鋭くなる。リィナも一歩前に出た。
「あなたは……」
「ジズとでも呼んでくれ。ここじゃ“厄介者”扱いだがな。話を聞いてほしい」
三人は顔を見合わせ、頷いた。
ジズは古い小屋の裏手、苔むした丸太に腰を下ろしながら話し始めた。
「昔な、この森には“長老の木”と呼ばれる一本の巨木があった。街の中央に根を張る、ただの長寿な木だったよ。立派で、風格があって、街の象徴だった」
カイが頷く。「それが、何で……?」
「ある年の雨季の終わりだった。誰ともなく“あの木が話している”と言い出したんだ。最初は気のせいと思ったさ。でも……真実だったんだ。“水を一日三度やれ”“根元に花を植えろ”、そんな他愛もないことを言ってきた」
リィナが眉をひそめる。「それって……」
「馬鹿馬鹿しいだろう? だが、従えば実際に恩恵があった。作物の実り、病の快癒、天候まで味方したように思えた。人々は次第に“従うこと”が当たり前になっていった。声は、どんどん増長した。“捧げよ”と言い出したのは、五年前だ」
ジズの表情が陰を帯びる。
「最初は病に伏せた年寄りや、事故で重傷を負った者が“選ばれた”。村人は悲しみながらも“神木の意志”として従ったよ。だが……今は違う。健康な若者、よそ者、誰でもいい。あの木は“生きる糧”を求めている。お前たちも……そのために歓迎されたのさ」
カイが拳を握る。「ふざけんな、そんなのって──」
「……どこにある、長老の木は」
レオンの低い声が遮った。
ジズはしばらく目を閉じ、やがて静かに言った。
「街の地下だ。この森全体、実は全部、あの一本の根に繋がっている。根を辿れば辿るほど深く、最後には“心臓”に辿り着く」
「そこを壊せば、すべてが終わるのか」
「……わしには分からん。だが、お前たちにはできる気がする」
風が吹いた。森のざわめきが、何かを警告しているかのようだった。
地面を覆う根の網をたどり、三人は森の奥へと分け入っていた。
大木が密集するなか、足元の土は異様なほど柔らかく、ぬかるみのように沈む。根が生きているように、微かに脈打っている感覚すらある。
「これ全部、例の“長老の木”につながってるってわけか……」
カイが低く呟いた。
やがて巨大な裂け目の先、森の地中に穿たれた広間のような空間へと出た。
そこには一本の異形の大木がそびえていた。幹はねじれ、重なった樹皮が人の顔のような凹凸を作っている。無数の節穴が目のようにこちらを睨み、風もないのに葉がざわめいている。
そのとき、頭の奥に響くような声がした。
『……ようやく来たか。捧げ物どもめ』
声は、木から発せられている。言葉というよりも、“意思”が脳に直接流れ込んでくるようだった。
『貴様らも我が養分となり、この地に還れ──』
不気味な語りに、カイとリィナが顔をしかめる。だがレオンはわずかに眉を動かしただけだった。
「黙れ。神を気取るな」
レオンの一蹴と同時に、地面の根がうねりを上げた。触手のように跳ね上がり、襲いかかる。
「来るぞ!」
三人は即座に散開した。
カイが地を蹴り、右へ跳ぶ。鋭く伸びてきた根を寸前でかわし、逆にその上を踏み台にして跳ねる。木の幹に駆け上がり、背後に回り込んで斬りつけるが、表面は岩のように硬い。
「っ……斬れねぇ!」
リィナは矢を番え、幹の割れ目を狙って放つ。だが弾かれ、ほんの表面を削る程度。直後、地中から這い出した太い根が彼女に襲いかかる。
「リィナ、危ない!」
カイが声を張るが、その前にレオンが滑るように間に入る。鋭い太刀が根を断ち切り、静かに身をかわす。
「こいつ、再生してる……?」
リィナの言葉通り、切られた根はすぐに別の枝と繋がり、再びうねり始めていた。
さらに天井から垂れ下がった蔦が雨のように落ち、カイを絡め取ろうとする。彼は間一髪で回避しつつ、叫ぶ。
「どんどん増えてきやがる!」
「弱点はどこかにあるはず……!」
リィナは幹を観察し、裏手の樹皮の裂け目にわずかに透ける、心臓のように脈打つ“芯”を見つけた。
「あそこよ!」
集中して矢を連射する。一本が芯をかすめ、木が呻くような音を立てた。
だがその瞬間、木の節穴がすべて開き、中から瘴気のようなものを噴き出す。三人は一斉に後退し、視界が白く濁る。
カイが口を覆いながら叫ぶ。「毒の霧かもしれねぇ!」
視界が戻ると、レオンが布を口に巻いていた。彼は腰から油布を取り出し、剣に巻きつける。
「時間を稼げ」
そう言うと、火打ち石で火をつけた。剣が炎に包まれ、照り返しが木の芯を照らす。
レオンが駆けた。根が何本も襲いかかるが、彼はそれを正確に斬り伏せ、まっすぐに木の中心へと迫る。
そして、剣を振りかぶった。
「──燃え尽きろ」
炎を帯びた一閃が、芯をまっすぐに貫いた。
木が悲鳴のような音を立て、天井が崩れそうなほどの震動が広がる。根が暴れ、幹がよじれ、やがて芯から“何か”が溶け出すように滲み出た。
それは黒い霧──いや、影だった。
影は呻くように揺れ、形を保てないまま漂い、そして消えた。
静寂が訪れた。
レオンは剣を下ろし、残光の中でその消えた影を見つめていた。
「……今のは影か」
その目に、驚きと警戒が同居していた。今回は彼でさえ、気づいていなかったのだ。
戦いの余波が、森の空気を一変させていた。
うっそうとした植生はその密度を緩め、空は徐々に開けていく。根に覆われていた地面も土の匂いを取り戻し、風が通る。
街へ戻ると、町人たちは異変に気づいていた。
森が、変わった──と。
しかし、すぐに目にした三人の姿に、人々の顔がこわばった。
「あれが……神を、倒した連中か……」
「よりによって、うちの神を……」
「どうするんだ、あの人たち……」
口々にささやかれる声。先ほどまでの歓迎ムードは一変し、怯えと敵意が入り混じった視線が彼らに注がれる。
リィナはその空気に肩を強張らせた。「……嘘みたい。さっきまであんなに……」
カイも眉をひそめる。「あれだけ歓待しておいて、これかよ」
そこへ、ひとりの町人が近づいてきた。「町長がお呼びです。どうか、静かに……」
三人は案内されるまま、静まり返った街の奥、町長の館へと向かった。
館の中は重苦しい空気に包まれていた。迎えた町長は、でっぷりと肥えたハゲ頭の男だった。豪奢な衣服に包まれ、贅肉の下に小さく光る目を浮かべている。
この男もまた、長老の木の“恩恵”を十分に受けていたはずだ。栄華を享受し、街の繁栄を見下ろしてきた立場のはずだった。──なのに、こうも手のひらを返したように、すらすらと感謝の言葉が出てくるのか。
「よくぞ、あの神を……いや、“木”を倒してくださった」
町長は深く頭を下げた。
「私には……あの木が異常だと、ずっと分かっていた。だが、従う以外に術はなかった。私が先導した。責任は……私にある」
リィナが怒りを抑えた声で問う。「どうして、旅人を……」
「従わねば、森は枯れた。街が干上がった。恐怖に屈した我々は、誰かを差し出さなければならなかった」
町長は目を伏せたあと、言葉を続けた。
「今まで私たちは間違っていました。もう、長老の木に従わなくても、街の者だけで未来を切り開いていきます」
カイが鼻を鳴らした。「感謝されてもな。殺されかけた身だ」
町長はただ、頷くしかなかった。
館を出ると、誰も見送りに来ていなかった。
風が吹いた。森の香りは変わっていた。
レオンが歩き出す。
リィナとカイも、それに続く。
もう振り返ることもなく、静かに緑の街を後にした。
彼らは旅人だ。通り過ぎ、何も残さない──