旅路の影
風が吹いていた。
乾いた、音のない風だった。
草原の中を一本の街道が走っている。その上を、三つの影が進んでいた。人の足跡さえ残らぬ砂利道を、誰も言葉を発せず、ただ歩く。影だけが揺れ、風だけがすれ違っていく。
仮面の街を出て、三日が経った。
青空は高く、陽は傾き、道は真っ直ぐに続いていた。
レオンが先頭を歩いていた。大きな背中に無骨な剣を担ぎ、足取りは重くも速い。風に逆らうように、黙々と前を見据える男の後ろを、カイとリィナが少し離れて追っていた。
「……なあ」
カイが口を開いた。乾いた声だった。
「俺、街じゃ人気者だったはずなんだけどな」
レオンは振り向かない。
「いや、最後のあの空気よ。助けても、ありがとうの一言もなかった。あれはちょっとこたえるね。心に」
レオンはやはり何も言わない。
「なあ、レオン?」
沈黙。
リィナが笑ったような、ため息のような声で言う。
「レオンってさ、きっと“ありがとう”とか、期待してないんだよ。そういう顔してた。あの街で誰も目を合わせなかったときも、ただ黙ってたでしょ」
「いや、それはいつもでしょ?」
カイが肩をすくめる。
「ま、俺が期待しすぎてただけか。ついでにモテると思ってたのも勘違いか」
レオンは、歩幅を一歩だけ広げた。
それだけで、微かに二人との距離が開いた。
誰も追いつこうとはしなかった。
空は次第に茜色に染まり、日暮れの気配が濃くなってきた頃、小さな川沿いの岩場に三人は腰を下ろした。人目を避けられる、野営には都合のいい場所だった。
リィナが鍋を取り出して、火打ち石で焚き火の準備を始める。カイは水を汲みに行くふりをして、途中で草に寝転んだ。
レオンは周囲を見回し、倒木を見つけて斧を振る。斬る、割る、積む。無言のまま、整った焚き火台が出来上がった。
火がつき、鍋から湯気が立ち上がる。
「……さ」
再び、カイが口を開いた。
「旅してて、一番きつかったのって、いつ?」
リィナが手を止めた。
レオンは斧の刃先を小石で研いでいたが、顔を上げなかった。
「俺はさ、最初の冬かな。凍え死ぬかと思った。焚き火の火が消えたとき、本気で涙出たよ。いや、マジで」
誰も笑わなかった。
焚き火の赤が、誰の顔も照らしていない。
リィナは鍋の中をかき混ぜていた。根菜と干し肉の煮込みが、ぐつぐつと音を立てている。レオンは鍋の湯気を見ているのか、火を見ているのか、わからない目をしていた。
カイは寝転んでいたが、やがて体を起こし、ぼそっと言った。
「……ごめん、変なこと言ったな、さっき」
リィナが少しだけ笑う。「ううん。たまには真面目なカイも、悪くないよ」
「悪かったな、普段ふざけてるみたいで」
「“みたい”じゃなくて、ふざけてるでしょ。いつも」
「そんな刺すこと言うかね!?」
レオンはやはり、何も言わない。黙って火の番をしている。
しばらくして食事ができあがると、三人は丸太に並んで座って夕食をとった。食べながらも、言葉は少なかった。リィナが少しずつ、場をつなぐように口を開いていたが、レオンはほとんど反応を示さない。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
月が上り、夜が深くなっていく。
カイが寝袋に潜り込むと、すぐに寝息が聞こえてきた。
「よく寝るよね、あの人……」
リィナが呆れ気味に言いながら、レオンの隣に腰を下ろす。見張りの交代だった。
「……ねえ」
「……」
「さっきの話、続きってわけじゃないけど……ちゃんと、伝えたいことがあるの」
レオンは火を見ていた。
「私、思ってるんだ。あの街の人たちが何も言えなかったのって、本当は怖かっただけなんだって」
レオンは黙っていた。
「影を見たあとって、きっと誰でも、どこか壊れる。だから、レオン……あんたがやったこと、間違ってないよ」
沈黙。
それでも、リィナは続けた。
「私は、レオンがいてくれてよかったって、本当に思ってる。いつも、誰にも期待しないで、自分だけで全部背負おうとしてるの、わかってるよ。だから……ありがとね」
レオンはわずかに目を細めた。火がはぜる音がした。
「……寝ろ。冷える」
その声は低く、ぶっきらぼうだったが、どこか優しかった。
リィナは小さく笑って立ち上がる。
「うん。おやすみ」
レオンは答えなかった。
ただ、火を見つめていた。
朝が来た。
焚き火の残り火はほとんど消えていたが、わずかに温もりが残っていた。陽が差し始め、空気が冷たさを手放していく。レオンは一番に起きて、鍋に残っていた湯を捨て、静かに木々の間を歩いていく。
その背中から、甲高い声が飛んだ。
「リィナぁ……うん、もっと近くに……んごっ!?」
「……朝っぱらから気持ち悪い寝言言ってんじゃないわよっ」
小石を投げつける音。カイが咳き込みながら飛び起きる。
「お、おはようございます……暴力の目覚ましは勘弁して……」
「寝言で名前呼ばれるこっちの身にもなってよ」
レオンは少し離れた場所で冷たい水をすくっていた。二人のやり取りに、口は挟まない。だが、わずかに口元が動いたようにも見えた。
カイは頭をかきながら、荷をまとめはじめる。
「さて、今日の予定は?」
「近くに村があるでしょ? 地図だと、午後には着くって」
リィナが地図を広げて見せる。
「そこで補給。食料がちょっと心許ないし、水もね」
「また歓迎ムードは期待できそうにないけどな……」
「カイ、あんたがしゃべらなきゃ平和なんじゃない?」
「ひどい!」
レオンが戻ってくる。
「干し肉と塩だけ買えればいい。水場があるなら、それも補給。長居はしない」
「つれないなあ、相変わらず」
三人は荷を背負って再び街道へ戻った。
空は晴れ、鳥の鳴き声が遠くで響いていた。草の揺れが風を知らせる。
平穏。静けさ。
……だが、どこか不自然なほど、何も起きなかった。
丘を越えると、遠くに煙が見えた。民家の囲炉裏か、野焼きか。人の暮らしの匂いが風に乗ってきた。
「もうすぐ村だな」
カイが言った。
「とりあえず、揉め事のないまま通過したいもんだ」
「カイが口を慎めば、だいたい大丈夫」
リィナがそっけなく返す。
「二人して当たり強すぎじゃない?」
レオンは歩みを止めず、やや前方の道を睨むように見つめた。
「……」
「どうしたの?」
リィナが問いかける。
レオンは少しだけ首を傾けて、低くつぶやいた。
「……妙だな」
「妙って?」
「鳥の声がしない」
三人が足を止める。風の音が草を揺らす。それ以外の音が、なかった。
「……たまたま、じゃない?」
カイが笑おうとしたが、その声もすぐに小さくなる。
リィナが静かに辺りを見回した。
「たしかに、変。さっきまでは、もっと……いろいろ聞こえてたよね」
「影の気配は……感じない」
レオンが言う。
だが、それが逆に緊張感を高めた。
「何もない方が、怖いってやつ?」
レオンは無言で頷いた。
やがて村の入口が見えてくる。畑の奥に民家が数軒。静かな村だ。
「寄るか、通り過ぎるか」
リィナが尋ねると、レオンは一拍置いて言った。
「干し肉と塩だけ。終わったらすぐ出る」
「了解、隊長」
冗談めかしたカイの言葉に、レオンは何も返さない。
三人はそのまま村へと歩を進めた。
空は澄んでいた。風も穏やかだった。
だが、三人ともその背に、うっすらと重たい何かを感じていた。
影は見えない。
だからこそ――怖い。
それでも旅は、まだ続いていた。