信徒の末路
遺跡の広間を抜けた先は、異様なまでに静かだった。
風も音も失われた空間。まるで世界から切り離されたような場所だった。
レオンたちは慎重に歩を進めていた。
先ほどの異形の気配は完全に絶えている。
だが、遺跡そのものが“何か”を孕んでいる感覚は消えていなかった。
通路は幅を狭め、天井も低くなる。
古代の石造りは湿気を吸って黒ずみ、壁には文字とも紋様ともつかぬ彫り込みが連なっていた。
「……見たことない言語だな」
カイがぼそりと呟いた。
「影の信仰は、公には語られてこなかった。表の歴史から消された」
レオンが答える。
その声音は、どこか断定的だった。
リィナが振り向く。
「レオン、あんたは……何か知ってるの?」
「……断片だけな。だが、それで十分だ」
レオンは足を止め、壁の彫刻を指先でなぞった。
ひとつの文様に、わずかに反応を見せる。
それは、人影をかたどったようなシンボルだった。
光を背に、両手を掲げ、地に膝をつく姿。
「崇拝か……?」
リィナがつぶやく。
だがその言葉にレオンは答えず、ただ進んだ。
やがて通路の突き当たりに、ひとつの小部屋が現れた。
扉はなかった。
石をくり抜いて造られたその空間は、かつて祈りの場として使われていたことを思わせた。
奥の壁に向かって並ぶ石台。
上には黒ずんだ布がかけられており、古びた書物と、朽ちた祭具が置かれていた。
カイが眉をひそめる。
「……祭壇、だよな。どう見ても」
レオンは周囲を見渡すと、足元の床を指した。
「ここの石だけ、削れ方が違う。多くの人間が膝をついた跡だ」
リィナが息を飲んだ。
「……この場所、本当に“信仰”の中心だったのね」
レオンは、布のかけられた書物にそっと手を伸ばす。
朽ちた表紙が崩れないよう慎重に扱い、指でページを開いた。
その文字は、古の書式で綴られていたが、レオンには読めた。
「“光の傍らには、常に影があった”」
「“影は神の意志を映す鏡にして、心を深く覗くものなり”」
彼は読み上げた言葉の意味を、自身の胸の中で反芻した。
「ここの信仰は、“影”を忌避せず、“神の一部”として受け入れていたようだ」
「光が神なら、影もまた神の証、ってわけか……?」
カイが渋い顔をする。
「気持ち悪いな。影にひれ伏してどうなるってんだ」
レオンは言葉を返さず、ページを静かに閉じた。
その瞬間、部屋の空気がふっと冷えた。
誰もが感じた。
“何か”が近くにいる――いや、いたという感覚。
「……ここはもう、祈る者もいない。だが」
レオンは目を細めた。
「“祈られた記憶”だけが、ずっと残っている」
「それがこの遺跡の本質だ。信仰の……亡霊だよ」
一瞬、静寂の中で何かの囁きが聞こえた気がした。
誰かの声。あるいは、記録に刻まれた感情の残響。
カイが後ろを振り向いたが、何もなかった。
レオンは立ち上がる。
「行くぞ。もう、見るものはない」
三人はその場を後にした。
だが、部屋を出る直前、リィナが一度だけ振り返る。
誰もいないはずの祭壇の前に――
まるで人の影のようなものが、ほんの一瞬、石台に跪く姿を形作った気がした。
リィナは言葉を呑み、レオンの背を追って歩き出した。
石の階段をさらに下った先は、広く開けた空間だった。
洞窟のように丸く削られたその場所は、明らかに“造られたもの”だった。
天井の高みに吊るされた金属の鎖。
壁面に沿って並ぶ、錆びた燭台と祭器。
中央には、灰と焦げ跡にまみれた石の祭壇――その上に、何かがあった。
「……誰か、燃やされた?」
カイがぽつりと呟く。
祭壇の上には、黒く焦げた骸骨の一部が転がっていた。
腕、脚、胸骨――どれもばらばらで、焼け爛れた布の残骸が絡みついている。
リィナが表情を曇らせ、そっと後ずさった。
「儀式か何か……よね?」
「だが、“焼かれた”にしては中途半端だ。骨は割れてるし、衣服は一部未燃だ」
レオンは祭壇の周囲を一周しながら、淡々と観察を続ける。
床の一部に、円を描いたような模様が掘り込まれていた。
幾何学的で、中心を囲むようにして複数の小石が並べられている。
「……転化陣?」
カイが眉をひそめる。
「召喚じゃない。これは“封じる”ためのものだ」
レオンは短く答えた。
「この遺跡の信徒たちは……“影”を祀る過程で、それに飲まれた。最終的にそれを封じようとした形跡がある」
「だが、封じきれなかった……?」
「あるいは、“代償”を払う形で一部を食い止めたのかもな」
レオンはそう言いながら、床の文様に触れた。
その瞬間――小さな振動が走った。
地下深く、遠くのどこかで、石が崩れるような音。
リィナとカイが反射的に身構えたが、レオンは静かに首を振った。
「……残響だ。恐らく、“過去の記憶”に触れた」
その言葉の意味を理解する前に、彼らの耳に“声”が届いた。
それは幻聴のようでいて、妙に生々しいものだった。
『……ここは、もはや……神の加護から外れた……』
『影は……裁くもの……その意思を、我らが繋がねば……』
声は老いた男のものにも、女の呻き声にも聞こえた。
幾重にも重なり、祭壇の中心から、地の底から、空気の中から響いてくる。
リィナが耳を塞ぐ。
「……やめて……誰の声……?」
「記録だ。ここに染み込んだ、過去の祈りと絶望」
レオンの声も、どこか低く、緊張を含んでいた。
やがて声は止み、ただの静寂が戻ってくる。
「――行こう」
レオンが立ち上がった。
その視線は、さらに奥へと続く通路の闇を捉えていた。
「この奥が、本当の“始まり”だ」
「まじかよ……まだ奥があるのかよ」
カイが肩をすくめながらも、弓を構える。
リィナも静かにうなずいた。
三人は再び足を踏み出す。
闇は、さらに濃く、冷たく、どこまでも深かった。
通路の先は緩やかな下りになっており、数十歩も進まないうちに空気が変わった。
湿り気と腐臭、そしてどこか生臭い熱気が混ざり合う。
奥へ進むたび、喉の奥に違和感がこびりつくような気配が増していく。
カイが眉をひそめる。
「なんだ、この臭い……」
リィナが口元を押さえた。
「動物の……いや、違う……何かが腐ってるような」
レオンだけが無言で進み続ける。
彼の足が止まったのは、巨大な石扉の前だった。
中央に裂け目があり、すでに半分ほど開いている。
中から漏れる空気は、腐臭の源そのものだった。
「……開いてるってことは、誰かが……?」
「いや」
レオンは剣の柄に手を添えながら、扉の隙間を覗く。
「“中の何か”が動いた痕跡がある。最近のものじゃない。だが、完全に封じられてはいなかった」
三人は顔を見合わせる。
「……行こう」
レオンが先に足を踏み入れた。
そこは、広間というには歪な形をしていた。
天井は高く、壁面の一部は崩れている。
中央には岩と同化したような“異形”が佇んでいた。
それはまるで、四肢を失った巨大な獣の骸のようだった。
だが、完全に死んでいるわけではない。
それは“生きているふり”をしていた。
その中央――くぼみのように開いた胸部に、何かが脈動していた。
黒く、濁った液体の塊。時折、脈打つように膨らみ、しぼむ。
リィナが、息を呑んだ。
「……あれ、心臓……?」
カイが即座に矢をつがえた。
「いや、違う。“何か”がそこに宿ってる」
レオンの目が細まる。
「……あれは、“影”だ。あの老人に取り憑いていた残滓。新たな器を得た、影の成れの果て」
その言葉に、異形が動いた。
崩れていたはずの獣の骨格が、まるでパペットのように揺れ、
“それ”が宿る胸の核を中心にして、骨と肉を再構築し始めた。
足が生え、背中から触手のような肢が伸びる。
レオンは剣を引き抜いた。
「来るぞ!」
異形の咆哮が、遺跡全体に響いた。
最初に飛び出したのはリィナだった。
鋭く放たれた矢が、異形の肢の一本を貫く。
だが、その部分はすぐに黒い粘液に覆われ、再生を始める。
「効かない!?」
「いや、“中心”を狙え!」
レオンが叫び、正面から突っ込む。
異形の巨大な腕が振り下ろされ、地面を叩き砕く。
その間隙を縫って、レオンが走り抜け、剣を振るう。
金属の閃光が、黒い肉を裂いた。
粘液が飛び散り、腐臭が広がる。
カイが横から支援射撃を重ね、リィナが矢を重ねて命中させる。
異形は苦しげに叫びながらも、その巨体で突進してくる。
レオンが受け止める――かに見えた瞬間。
背後からもう一対の肢が襲いかかった。
「レオン!」
リィナが叫ぶ。
だがレオンは、あえて身体をひねり、肢の攻撃を受け流す。
背中を軽く裂かれながらも、踏み込んだ。
「――終わりだ」
剣が、異形の胸――“影”の核に突き刺さる。
ずぶ、と嫌な音を立てて、刃が沈んだ。
異形が絶叫した。
黒い液体が溢れ出し、脈動が止まる。
レオンは剣を引き抜き、跳び退いた。
異形の体がぐらりと揺れ、崩れ落ちる。
その胸の核から――一つの“物”が転がり落ちた。
小さな金属の、錆びた置物だった。
それは、以前レオンたちが見た古びた文様――
例の老人がぶつぶつと唱えていた“影の教会”の紋章を象ったものであった。
リィナが小声で呟く。
「……あの老人についていた影、だったのね」
カイも静かに頷いた。
レオンは無言のまま、その置物を拾い、何も言わず懐へしまった。
「戻るぞ」
それだけ言って、レオンは背を向ける。
影は倒れた。だが、何かが終わったわけではなかった。
それは、ほんの“始まり”だったのだ。