プロローグ
風が吹いていた。
乾いた空気に、微かに鉄の匂いが混じっていた。
大陸の西端、街道から外れたなだらかな丘。
誰も通らない小道の脇で、一人の男が立ち止まっていた。
目を細め、遠くを見ている。
見ているのは山でも雲でもなく、もっと手前──風の向かう先。
そこに何かが起きている気配を、彼は感じ取っていた。
男の名は、レオン。
身なりに特徴はない。
黒い外套に、くすんだ旅装。腰には剣を一本。
顔は日焼けと無精ひげでごつごつしていて、年齢は見た目だけではわからない。
けれど、誰もがひと目で警戒するような空気を持っていた。
じっとしているのに、気配が張りつめている。
話しかけようとする者はまずいない。
そのとき、風が変わった。
焦げたような、なまぐさい匂いが混じる。
レオンはゆっくりと視線を移した。
東の方向、森を越えたあたり。小さな村があったはずだ。
夕方には薪の煙が見える場所。
今は煙が見えない。
(嫌な感じだ)
彼はそう思ったが、顔には出さなかった。
柄に触れる。指先で軽く確認する。
剣はいつも通り、腰にある。
足を一歩、前に出す。
そのまま歩き出した。
目的地はまだ遠い。だが、確かに“何か”が起きている。
それは直感だった。何年も前から、こういうときは外れない。
誰かが死んでいるか、死にかけている。
もしかしたら──まだ間に合うかもしれない。
レオンは小道を外れ、森へ向かって歩きはじめた。
その歩き方に迷いはなかった。
誰も見ていなくても、彼は常に最短で向かう。
理由は要らない。説明もない。
ただそうするべきだと思ったから、行くだけだった。
東の村、タリム。
地図には名前も載らないような場所だった。
かつて小規模な鉱山があり、交易の宿場町として栄えていた時期もあったが、鉱脈が枯れて以降は人も商人も流れを変えた。今では住民が三十人いるかどうか、半ば見捨てられたような集落だ。
レオンが村に着いたのは、夕方近く。
獣道のような未舗装の小道を抜けて、朽ちかけた門をくぐる。
人の気配が薄い。
夕餉の支度どきのはずなのに、煙が上がっている家はひとつもない。
風に土埃が舞い、乾いた木のきしみが聞こえる。
声も、足音もない。
生き物の音がしないのは、何よりもまずい。
レオンは村の中心に向かって歩いた。
背中の剣はまだ鞘の中だ。だが、いつでも抜けるように、柄に軽く指を添えている。
広場に出たところで、かすかな足音がした。
レオンは立ち止まり、目線だけで視界を探る。
子どもだった。
八歳くらいの、痩せた少年。
裸足で、片方の袖が裂けている。髪はぼさぼさで、顔には煤がついていた。
その子どもは、レオンに気づいていない様子だった。
ひどくゆっくりと、まっすぐに、村の井戸の方へ歩いていく。
不自然だった。
足の運びに力がない。手も揺れず、首も動かない。まるで夢遊病のような歩き方だ。
何より、その目に焦点がなかった。
レオンは子どもに近づいた。
声はかけない。観察する。
井戸に近づいた少年が、縁に手をかける。
そのまま……乗り越えようとした。
一歩で距離を詰め、レオンは少年の腕を掴んだ。
子どもは抵抗しない。ただ、じっとレオンの方を見た。
眼球は濁っていた。
瞳孔は開き気味で、まぶたがわずかに痙攣している。
一瞬、異臭が鼻をかすめた。
生臭いような、焦げた木のような、何かが混じった臭い。
「……影か」
レオンが呟いたその時、少年の身体が小さく痙攣した。
喉から低い声が漏れた。いや、声ではない。“音”だ。
「──かえ、し、て」
その瞬間、レオンは手を離した。
少年の身体が硬直し、背中から何かが浮かび上がる。
黒い靄。
輪郭のない、煙のような影。
それが、まるで背中から滲み出るようにして広がった。
この世界の人間には、見えないはずのもの。
だがレオンには、はっきりと見えた。
影は、一度空中に舞い上がり、それから地面に落ちるように沈みこみ、少年の足元を蠢かせ始めた。
「まだ、時間はある」
レオンは剣に手をかけたが、すぐには抜かない。
この影はまだ“喰って”いない。
憑いたばかりだ。
そう判断したレオンは、少年を腕に抱えて井戸から離れた。
背後で影が唸るように揺れ、じわじわと地を這う。
言葉にならない呻き声が、風に紛れて聞こえる。
(喰ったあとじゃ、遅い)
(だが今なら──まだ、引きはがせる)
レオンは地面に少年を寝かせると、そっと剣を抜いた。
刃は古びていた。装飾もない、ただの直剣。
だが、その切っ先に宿っているのは、常人には見えない“力”だった。
青白く、薄く、刃が光る。
それはまるで、空気が一瞬だけ震えるような現象だった。
影はそれを見て、ざわめくように揺れた。
そして、一瞬だけ形を変えた。
まるで──人の顔のように。
「お前が誰だったかなんて、知らない」
レオンはそう言って、影に向けて剣を振るった。
一閃。
音はなかった。
だが、空気が裂けたような感覚があった。
次の瞬間、影は切られ、空に消えた。
少年は短く息を吸い込み、そのまま意識を失った。
レオンは剣を収め、少年の呼吸を確かめた。
浅いが、整ってきている。
間に合った。
それでも彼の表情は一切動かない。
やるべきことを、ただやっただけ。
それが彼の態度だった。
その背に、夕日が落ちていた。
村の家々の戸が、ひとつ、またひとつと音を立てて開く。
人々が顔を出し、遠巻きにこちらを見ている。
誰も口を開かない。声をかけようとしない。
それでもレオンは、誰にも何も言わなかった。
歩き出す。
すぐにこの村を離れ、次の“兆候”を探さなければならない。
影はここだけじゃない。
あれは“痕跡”にすぎない。
──災厄はまだ、本格的には始まっていない。
その夜、レオンは村から一里ほど離れた岩陰で火を焚いていた。
焚き火といっても、火を高く上げることはない。
薪は少なめ、明かりも最小限。煙は立たないように。
焚き慣れた人間にしかできない火の扱いだった。
傍らには湯を張った小鍋があり、干し肉と野菜片が浮かんでいる。
質素なものだが、腹に入れば十分だった。
背後の斜面に剣とマントを置き、食事を取りながら、レオンはときおり東の空を見た。
雲がゆっくり流れている。
その向こうに、うっすらと赤い光が滲んでいた。
──焚き火じゃない。
村とは別の場所。かなりの広さで燃えている。
レオンは箸を止めた。
(先回りされたか)
心当たりはあった。
影が広がるとき、必ずどこかで「揺れ」が起きる。
死者が増えたり、衝動的な事件が重なったり、人が人でなくなるような言動が立て続けに発生する。
それはまるで、底の抜けた水瓶が、どこまで水を溜められるかを試しているかのようだった。
タリム村は、その「端」に過ぎなかった。
本命はあの赤い光の向こうにある。
レオンは器を置き、立ち上がった。
風がやや強くなっていた。火を潰す前に、空気の流れを一つ確認する。
風向きが変わっている。
焦げた臭いと、何か焦げてはいけないものの匂いが混じっていた。
肉ではない。木でもない。
──人間だ。
彼は剣を手に取り、マントを羽織った。
背負うようにして剣を固定し、足元の火を潰す。煙は上がらなかった。
すでに夜は深く、空に月が昇りきっていた。
街道も道標もないが、彼の目は暗がりに慣れている。
歩く。ひとつずつ地を踏みしめ、音も立てずに進む。
今このときも、どこかで「影」は喰っている。
それが誰なのかは、本人ですら気づいていない。
そうして一度喰われた者は、もとには戻らない。
喰われきる前に、斬るしかない。
レオンがその力を得たのは、十年前のことだった。
あのとき、彼は「剣士」ではなかった。
職業を持っていなかった、と言った方が正しい。
何の称号もなく、剣も持たず、ただ“使われる側”の人間だった。
戦争の後処理。
どの国にも属さない傭兵団に拾われ、食うために命を張るだけの暮らし。
彼が初めて“影”を見たのは、仲間の一人が突然隊を襲ったあの日だった。
その仲間は、温厚だった。
酒に酔っても暴れず、怪我人には気を配り、誰とでも分け隔てなく接する男だった。
ある日、何の前触れもなく、寝込みを襲った。
刃物を持っていた。
顔は笑っていた。だが目だけが、空っぽだった。
レオンは反射的に避けた。
隣に寝ていた隊長は即死だった。
彼はそいつを殴り倒し、拘束した。
そして、明け方には首を絞めた。
理由を問う者はいなかった。
ただ、レオンの手には、その日から“影”が見えるようになった。
最初はただの幻覚だと思った。
あるいは心の病気。
頭のどこかが壊れたんだと思った。
けれど日が経つにつれ、気づいた。
あれは幻でも気のせいでもなく、誰かの“内側”から滲み出る何かだった。
そしてその何かは、確実に、他人に伝播する。
喰われた者の“言葉”は、聞いてはならない。
“視線”は、返してはならない。
“願い”には、触れてはならない。
それが影のルールだ。
レオンは、自分にその影が見える理由を長く考えた。
だが答えは出なかった。
いつか、死んだ仲間の“何か”が、視えてしまったのかもしれない。
あるいはあの夜、殺されたはずの何かが、自分の中に入ってしまったのかもしれない。
どちらにしても、今はひとつしかない。
──“斬れる”のは、自分だけだった。
視えてしまった者には、責任がある。
それが彼の答えだった。
風が変わった。
焚き火の場所から三刻ほど歩いたところに、灯りが見える。
村ではない。野営地か、あるいは馬車隊が立ち寄った集落か。
レオンは剣に触れた。
風に混じって、またあの臭いがする。
あれは“はじまり”じゃない。
すでに“ひとつ終わった”匂いだ。
影が喰い終わった場所には、喰われた者と、喰いきれなかった“残り”が残される。
そしてそれがまた、次の“喰い手”になる。
静かに、レオンは丘を下った。
それは、どこにでもあるような場所。
どこにでもあるような夜だった。
けれど、レオンにとっては──また、誰かの“最後”が始まる場所だった。
火の匂いが強くなったのは、小さな谷を越えたあたりだった。
獣道のような斜面を抜けて下りきると、そこに三軒ばかりの家が寄り添うように並んでいた。
集落と呼ぶには小さすぎる。村の外れにあるような、木こりや狩人の家だったのかもしれない。
そのうちの一軒が、半ば焼け落ちていた。
壁は崩れ、屋根は黒く焦げ、柱だけが残っていた。
火の手はすでに収まっていたが、あちこちから燻った煙が立っている。
空気が重い。
レオンは立ち止まり、焼け跡に目を凝らす。
人がいる気配は、ない。
だが、足跡があった。
片方だけ引きずったような痕。家から森の方へ向かっている。
レオンは煙の中を歩き、玄関らしき場所から中に入った。
床は抜け、灰が舞っていた。
奥の部屋に一人、女が倒れていた。
うつ伏せで、背中の布が焼けている。
体は小さく、若い女のようだった。
彼はそっと近づき、片膝をついて呼吸を確認した。
……まだ、生きている。
息は浅く、焦げた布越しにかすかに上下していた。
火傷は深い。顔は見えない。
けれど、それよりも気になったのは、彼女の手の周囲にあった“黒い影”だった。
レオンは剣の柄に手をかけた。
その影は、女の指先から地面に広がるようにしてうごめいていた。
まるで染みのように、ゆっくりと広がりながら、形を変えていく。
風もないのに、影だけが揺れている。
見えているのは、レオンだけだ。
普通の人間には、この黒はただの煤か汚れにしか見えない。
だがこれは、違う。
これは“喰った”あとの影だった。
すでにこの女の中には、ほとんど残っていない。
代わりに、影は外に出始めていた。
ゆっくりと、影が立ち上がる。
靄のように、煙のように、地を這いながら空へと立ちのぼる。
形はまだ定まっていない。だが、内部には何かの“記憶”が混じっていた。
女の断末魔。
焼け落ちる家。
血まみれの何かを見た子ども。
意味のない言葉。
繰り返される後悔。
そこに、何か別のものが寄生していた。
レオンは静かに剣を抜いた。
刃の表面に、わずかに色が浮かぶ。
青とも白ともつかない光。
それは誰にも見えず、ただ影にだけ届くものだった。
影が動いた。
人の形を模したようなものが、レオンの方ににじり寄ってくる。
足はない。腕も不明瞭。ただ、確かに意志を持って動いていた。
「──かえ、せ」
かすれた声が空気を震わせた。
女の声ではなかった。
何人分もの声が混ざったような、ひどく濁った音だった。
レオンは応えなかった。
ただ一歩前に出て、影との距離を詰める。
刃を横に払う。
空気が重たく引き裂かれたような感触があった。
声が止まり、影が一瞬、崩れる。
だがまだ消えない。
さっきの村の子どもと違って、この影は“喰いきった”後だ。
根が深い。
「……しぶといな」
短く呟き、レオンは再び構える。
切っ先をわずかに下げ、踏み込みの間合いに入った。
影が膨らみ、再び人の顔を模す。
女の顔だった。おそらく、目の前で倒れている女の。
だがそれは本人ではない。
顔の皮をなぞっただけの模造品だ。
レオンは反応しない。
何も聞かず、何も見なかったかのように、もう一度踏み込む。
二度目の斬撃。
刃は影の中心を裂き、歪んだ顔を切り落とした。
影は声もなく崩れ、地に落ち、溶けるように消えた。
女の体にあった黒い筋も、ゆっくりと消えていった。
レオンは剣を収めた。
鞘の中で、金属音がかすかに響いた。
女はまだ意識を失ったままだった。
けれど、もう影は憑いていない。
レオンは肩の外套を脱ぎ、女の上にかけた。
傷が治るわけではない。
だが、冷えれば死ぬ。
応急処置も、言葉もいらなかった。
彼はその場に立ち上がり、辺りを見渡した。
あたりに生存者の気配はない。
影が喰った数は二人か、三人か。
この場は、ひとまず片がついた。
火は、もう収まっていた。
あとは誰かが来て、女を保護すればいい。
その“誰か”はたいてい後手になる。
そしてギルドが、ようやく状況を把握する。
レオンはもう、次の場所へ向かっていた。
この影は“兆候”にすぎない。
本体は別にいる。
それを見つけるには、まだいくつかの場所を回る必要がある。
歩きながら、レオンはふと、自分の指先を見た。
右手の薬指の爪が、少しだけ黒ずんでいた。
(またか)
影を斬ると、こうなる。
それが何なのか、いつからなのか、誰も教えてくれない。
けれどレオンは知っていた。
それは、徐々に“自分も染まっている”という証拠だ。
それでも、やるしかない。
止めなければ、誰も気づかないまま喰われていく。
影は、喰われた者の中に言い訳として残る。
怒りや悲しみ、悔しさの形を借りて、広がっていく。
斬れる者がいないなら、斬るしかない。
そう決めてから、もう随分と時間が経っていた。
夜が深くなっていた。
星が見える。
風が冷えてきた。
レオンは歩き続けた。
次の影の匂いが、どこかにあるはずだった。