表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/24

プロローグ

風が吹いていた。

乾いた空気に、微かに鉄の匂いが混じっていた。


大陸の西端、街道から外れたなだらかな丘。

誰も通らない小道の脇で、一人の男が立ち止まっていた。


目を細め、遠くを見ている。

見ているのは山でも雲でもなく、もっと手前──風の向かう先。

そこに何かが起きている気配を、彼は感じ取っていた。


男の名は、レオン。


身なりに特徴はない。

黒い外套に、くすんだ旅装。腰には剣を一本。

顔は日焼けと無精ひげでごつごつしていて、年齢は見た目だけではわからない。


けれど、誰もがひと目で警戒するような空気を持っていた。

じっとしているのに、気配が張りつめている。

話しかけようとする者はまずいない。


 


そのとき、風が変わった。

焦げたような、なまぐさい匂いが混じる。


レオンはゆっくりと視線を移した。

東の方向、森を越えたあたり。小さな村があったはずだ。


夕方には薪の煙が見える場所。

今は煙が見えない。


(嫌な感じだ)


彼はそう思ったが、顔には出さなかった。

柄に触れる。指先で軽く確認する。

剣はいつも通り、腰にある。


足を一歩、前に出す。

そのまま歩き出した。


目的地はまだ遠い。だが、確かに“何か”が起きている。

それは直感だった。何年も前から、こういうときは外れない。


誰かが死んでいるか、死にかけている。


もしかしたら──まだ間に合うかもしれない。


 


レオンは小道を外れ、森へ向かって歩きはじめた。


その歩き方に迷いはなかった。

誰も見ていなくても、彼は常に最短で向かう。


理由は要らない。説明もない。

ただそうするべきだと思ったから、行くだけだった。


東の村、タリム。

地図には名前も載らないような場所だった。

かつて小規模な鉱山があり、交易の宿場町として栄えていた時期もあったが、鉱脈が枯れて以降は人も商人も流れを変えた。今では住民が三十人いるかどうか、半ば見捨てられたような集落だ。


レオンが村に着いたのは、夕方近く。

獣道のような未舗装の小道を抜けて、朽ちかけた門をくぐる。


人の気配が薄い。

夕餉の支度どきのはずなのに、煙が上がっている家はひとつもない。


風に土埃が舞い、乾いた木のきしみが聞こえる。

声も、足音もない。

生き物の音がしないのは、何よりもまずい。


レオンは村の中心に向かって歩いた。

背中の剣はまだ鞘の中だ。だが、いつでも抜けるように、柄に軽く指を添えている。


広場に出たところで、かすかな足音がした。

レオンは立ち止まり、目線だけで視界を探る。


子どもだった。

八歳くらいの、痩せた少年。

裸足で、片方の袖が裂けている。髪はぼさぼさで、顔には煤がついていた。


その子どもは、レオンに気づいていない様子だった。

ひどくゆっくりと、まっすぐに、村の井戸の方へ歩いていく。


不自然だった。


足の運びに力がない。手も揺れず、首も動かない。まるで夢遊病のような歩き方だ。

何より、その目に焦点がなかった。


 


レオンは子どもに近づいた。

声はかけない。観察する。


井戸に近づいた少年が、縁に手をかける。

そのまま……乗り越えようとした。


 


一歩で距離を詰め、レオンは少年の腕を掴んだ。

子どもは抵抗しない。ただ、じっとレオンの方を見た。


眼球は濁っていた。

瞳孔は開き気味で、まぶたがわずかに痙攣している。


一瞬、異臭が鼻をかすめた。

生臭いような、焦げた木のような、何かが混じった臭い。


「……影か」


レオンが呟いたその時、少年の身体が小さく痙攣した。

喉から低い声が漏れた。いや、声ではない。“音”だ。


「──かえ、し、て」


 


その瞬間、レオンは手を離した。

少年の身体が硬直し、背中から何かが浮かび上がる。


黒い靄。

輪郭のない、煙のような影。

それが、まるで背中から滲み出るようにして広がった。


この世界の人間には、見えないはずのもの。

だがレオンには、はっきりと見えた。


影は、一度空中に舞い上がり、それから地面に落ちるように沈みこみ、少年の足元を蠢かせ始めた。


「まだ、時間はある」


レオンは剣に手をかけたが、すぐには抜かない。

この影はまだ“喰って”いない。

憑いたばかりだ。


そう判断したレオンは、少年を腕に抱えて井戸から離れた。


背後で影が唸るように揺れ、じわじわと地を這う。

言葉にならない呻き声が、風に紛れて聞こえる。


(喰ったあとじゃ、遅い)


(だが今なら──まだ、引きはがせる)


 


レオンは地面に少年を寝かせると、そっと剣を抜いた。


刃は古びていた。装飾もない、ただの直剣。

だが、その切っ先に宿っているのは、常人には見えない“力”だった。


青白く、薄く、刃が光る。

それはまるで、空気が一瞬だけ震えるような現象だった。


影はそれを見て、ざわめくように揺れた。

そして、一瞬だけ形を変えた。

まるで──人の顔のように。


 


「お前が誰だったかなんて、知らない」


レオンはそう言って、影に向けて剣を振るった。


一閃。


音はなかった。

だが、空気が裂けたような感覚があった。

次の瞬間、影は切られ、空に消えた。


少年は短く息を吸い込み、そのまま意識を失った。


レオンは剣を収め、少年の呼吸を確かめた。

浅いが、整ってきている。

間に合った。


 


それでも彼の表情は一切動かない。

やるべきことを、ただやっただけ。

それが彼の態度だった。


その背に、夕日が落ちていた。


村の家々の戸が、ひとつ、またひとつと音を立てて開く。

人々が顔を出し、遠巻きにこちらを見ている。

誰も口を開かない。声をかけようとしない。

それでもレオンは、誰にも何も言わなかった。


歩き出す。


すぐにこの村を離れ、次の“兆候”を探さなければならない。


影はここだけじゃない。

あれは“痕跡”にすぎない。


 


──災厄はまだ、本格的には始まっていない。


その夜、レオンは村から一里ほど離れた岩陰で火を焚いていた。


焚き火といっても、火を高く上げることはない。

薪は少なめ、明かりも最小限。煙は立たないように。

焚き慣れた人間にしかできない火の扱いだった。


傍らには湯を張った小鍋があり、干し肉と野菜片が浮かんでいる。

質素なものだが、腹に入れば十分だった。

背後の斜面に剣とマントを置き、食事を取りながら、レオンはときおり東の空を見た。


雲がゆっくり流れている。

その向こうに、うっすらと赤い光が滲んでいた。


──焚き火じゃない。

村とは別の場所。かなりの広さで燃えている。


レオンは箸を止めた。


(先回りされたか)


心当たりはあった。

影が広がるとき、必ずどこかで「揺れ」が起きる。

死者が増えたり、衝動的な事件が重なったり、人が人でなくなるような言動が立て続けに発生する。

それはまるで、底の抜けた水瓶が、どこまで水を溜められるかを試しているかのようだった。


タリム村は、その「端」に過ぎなかった。

本命はあの赤い光の向こうにある。


レオンは器を置き、立ち上がった。

風がやや強くなっていた。火を潰す前に、空気の流れを一つ確認する。


風向きが変わっている。


焦げた臭いと、何か焦げてはいけないものの匂いが混じっていた。

肉ではない。木でもない。


──人間だ。


 


彼は剣を手に取り、マントを羽織った。

背負うようにして剣を固定し、足元の火を潰す。煙は上がらなかった。


すでに夜は深く、空に月が昇りきっていた。

街道も道標もないが、彼の目は暗がりに慣れている。

歩く。ひとつずつ地を踏みしめ、音も立てずに進む。


今このときも、どこかで「影」は喰っている。

それが誰なのかは、本人ですら気づいていない。

そうして一度喰われた者は、もとには戻らない。


喰われきる前に、斬るしかない。


 


レオンがその力を得たのは、十年前のことだった。


あのとき、彼は「剣士」ではなかった。

職業を持っていなかった、と言った方が正しい。

何の称号もなく、剣も持たず、ただ“使われる側”の人間だった。


戦争の後処理。

どの国にも属さない傭兵団に拾われ、食うために命を張るだけの暮らし。


彼が初めて“影”を見たのは、仲間の一人が突然隊を襲ったあの日だった。


 


その仲間は、温厚だった。

酒に酔っても暴れず、怪我人には気を配り、誰とでも分け隔てなく接する男だった。


ある日、何の前触れもなく、寝込みを襲った。


刃物を持っていた。

顔は笑っていた。だが目だけが、空っぽだった。


レオンは反射的に避けた。

隣に寝ていた隊長は即死だった。


彼はそいつを殴り倒し、拘束した。

そして、明け方には首を絞めた。


理由を問う者はいなかった。

ただ、レオンの手には、その日から“影”が見えるようになった。


 


最初はただの幻覚だと思った。


あるいは心の病気。

頭のどこかが壊れたんだと思った。


けれど日が経つにつれ、気づいた。

あれは幻でも気のせいでもなく、誰かの“内側”から滲み出る何かだった。


そしてその何かは、確実に、他人に伝播する。


喰われた者の“言葉”は、聞いてはならない。

“視線”は、返してはならない。

“願い”には、触れてはならない。


それが影のルールだ。


 


レオンは、自分にその影が見える理由を長く考えた。

だが答えは出なかった。

いつか、死んだ仲間の“何か”が、視えてしまったのかもしれない。

あるいはあの夜、殺されたはずの何かが、自分の中に入ってしまったのかもしれない。


どちらにしても、今はひとつしかない。

──“斬れる”のは、自分だけだった。


 


視えてしまった者には、責任がある。


それが彼の答えだった。


 


風が変わった。

焚き火の場所から三刻ほど歩いたところに、灯りが見える。

村ではない。野営地か、あるいは馬車隊が立ち寄った集落か。


レオンは剣に触れた。

風に混じって、またあの臭いがする。


あれは“はじまり”じゃない。

すでに“ひとつ終わった”匂いだ。


影が喰い終わった場所には、喰われた者と、喰いきれなかった“残り”が残される。


そしてそれがまた、次の“喰い手”になる。


 


静かに、レオンは丘を下った。


それは、どこにでもあるような場所。

どこにでもあるような夜だった。


けれど、レオンにとっては──また、誰かの“最後”が始まる場所だった。


火の匂いが強くなったのは、小さな谷を越えたあたりだった。


獣道のような斜面を抜けて下りきると、そこに三軒ばかりの家が寄り添うように並んでいた。

集落と呼ぶには小さすぎる。村の外れにあるような、木こりや狩人の家だったのかもしれない。


そのうちの一軒が、半ば焼け落ちていた。


壁は崩れ、屋根は黒く焦げ、柱だけが残っていた。

火の手はすでに収まっていたが、あちこちから燻った煙が立っている。


空気が重い。


レオンは立ち止まり、焼け跡に目を凝らす。


人がいる気配は、ない。


だが、足跡があった。

片方だけ引きずったような痕。家から森の方へ向かっている。


レオンは煙の中を歩き、玄関らしき場所から中に入った。

床は抜け、灰が舞っていた。


奥の部屋に一人、女が倒れていた。


うつ伏せで、背中の布が焼けている。

体は小さく、若い女のようだった。


彼はそっと近づき、片膝をついて呼吸を確認した。


……まだ、生きている。

息は浅く、焦げた布越しにかすかに上下していた。


火傷は深い。顔は見えない。

けれど、それよりも気になったのは、彼女の手の周囲にあった“黒い影”だった。


 


レオンは剣の柄に手をかけた。


その影は、女の指先から地面に広がるようにしてうごめいていた。

まるで染みのように、ゆっくりと広がりながら、形を変えていく。

風もないのに、影だけが揺れている。


見えているのは、レオンだけだ。

普通の人間には、この黒はただの煤か汚れにしか見えない。


だがこれは、違う。


これは“喰った”あとの影だった。

すでにこの女の中には、ほとんど残っていない。


代わりに、影は外に出始めていた。


 


ゆっくりと、影が立ち上がる。


靄のように、煙のように、地を這いながら空へと立ちのぼる。

形はまだ定まっていない。だが、内部には何かの“記憶”が混じっていた。


女の断末魔。

焼け落ちる家。

血まみれの何かを見た子ども。

意味のない言葉。

繰り返される後悔。

そこに、何か別のものが寄生していた。


レオンは静かに剣を抜いた。


刃の表面に、わずかに色が浮かぶ。

青とも白ともつかない光。

それは誰にも見えず、ただ影にだけ届くものだった。


 


影が動いた。

人の形を模したようなものが、レオンの方ににじり寄ってくる。

足はない。腕も不明瞭。ただ、確かに意志を持って動いていた。


「──かえ、せ」


かすれた声が空気を震わせた。

女の声ではなかった。

何人分もの声が混ざったような、ひどく濁った音だった。


レオンは応えなかった。

ただ一歩前に出て、影との距離を詰める。


刃を横に払う。


空気が重たく引き裂かれたような感触があった。


声が止まり、影が一瞬、崩れる。


だがまだ消えない。

さっきの村の子どもと違って、この影は“喰いきった”後だ。

根が深い。


 


「……しぶといな」


短く呟き、レオンは再び構える。

切っ先をわずかに下げ、踏み込みの間合いに入った。


影が膨らみ、再び人の顔を模す。

女の顔だった。おそらく、目の前で倒れている女の。


だがそれは本人ではない。

顔の皮をなぞっただけの模造品だ。


レオンは反応しない。

何も聞かず、何も見なかったかのように、もう一度踏み込む。


二度目の斬撃。

刃は影の中心を裂き、歪んだ顔を切り落とした。


影は声もなく崩れ、地に落ち、溶けるように消えた。


女の体にあった黒い筋も、ゆっくりと消えていった。


 


レオンは剣を収めた。

鞘の中で、金属音がかすかに響いた。


女はまだ意識を失ったままだった。

けれど、もう影は憑いていない。


レオンは肩の外套を脱ぎ、女の上にかけた。

傷が治るわけではない。

だが、冷えれば死ぬ。


応急処置も、言葉もいらなかった。


彼はその場に立ち上がり、辺りを見渡した。

あたりに生存者の気配はない。


影が喰った数は二人か、三人か。


この場は、ひとまず片がついた。


 


火は、もう収まっていた。


あとは誰かが来て、女を保護すればいい。

その“誰か”はたいてい後手になる。

そしてギルドが、ようやく状況を把握する。


レオンはもう、次の場所へ向かっていた。


 


この影は“兆候”にすぎない。

本体は別にいる。


それを見つけるには、まだいくつかの場所を回る必要がある。


歩きながら、レオンはふと、自分の指先を見た。


右手の薬指の爪が、少しだけ黒ずんでいた。


(またか)


影を斬ると、こうなる。


それが何なのか、いつからなのか、誰も教えてくれない。


けれどレオンは知っていた。


それは、徐々に“自分も染まっている”という証拠だ。


 


それでも、やるしかない。


止めなければ、誰も気づかないまま喰われていく。


影は、喰われた者の中に言い訳として残る。

怒りや悲しみ、悔しさの形を借りて、広がっていく。


斬れる者がいないなら、斬るしかない。


そう決めてから、もう随分と時間が経っていた。


 


夜が深くなっていた。

星が見える。

風が冷えてきた。


レオンは歩き続けた。

次の影の匂いが、どこかにあるはずだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ