5.婚約破棄のその後
事の顛末を少しだけ。
魔法塔の最上階、第三皇子の研究室にトゥノレーが呼び出されたのは婚約破棄騒動から二週間後のことである。
トゥノレーは部屋の主であるアパティアからその後の話を聞くことになる。
あの日、グレトエラ魔法学会シンポジウムは中止となり、箝口令がしかれた。あの場にいたほとんどの人間は半信半疑ではあったが、魔王の遺物の存在が明るみに出たのだ。
アパティアはエレーナにその場で魔王の右手について問いただすことで、会場内に怪しい動きをする人物がいないか、内通者の存在に目を光らせていた。
結果は白。この二週間、徹底した身辺調査が行われたのも合わせ、会場内の人間全員が無関係であることが分かった。アパティア自ら説明した上で、関係者全員と誓約魔法を結び、魔王の遺物に関することを口外できないようにし、この件は一先ず終わりとなった。
そして、一番の被害者であるウナファータ侯爵家のご令嬢にはスタムディン侯爵家から謝罪と婚約破棄に伴う慰謝料が支払われることになった。キャンディスの新たな婚約者に関しても皇帝陛下と侯爵家で改めて調整されるそうだ。
残るは当人達である。此度の騒動を引き起こした問題の二人はどうなったのか?
同じ魔法塔の人間として、何度も顔を合わせて来たトゥノレーとしてはずっと気がかりであった。本当に優秀な学徒だったのだ。何度か研究を共にすることもあり、何を隠そうミサンダとエレーナの二人を研究発表生に推薦したのはトゥノレーだった。先達として少なからず可愛がっていたのは間違いない。あの二人があの日なぜあの様な暴挙に出たのか未だに分からないでいる。
「トゥノレー、ミサンダ・スタムディンは軽度だが魅惑の精神異常状態である事が発覚した」
「っ!? そんな馬鹿な、精神干渉系の魔法は違法だというのに一体誰が!?」
「まあ、この状況で一番怪しいのはエレーナ嬢だが、それも含めて調査中だ。とは言え、ミサンダがやらかした事実がなくなるわけではない。多少は情状酌量の余地があるとは言え、彼が今までキャンディス・ウナファータ侯爵令嬢にしたことは恥ずべきことだ」
アパティアはあの日宣言した通り、公明正大に全てを調査した。エレーナが告白したいじめや研究の盗用、ミサンダのこれまでの婚約者への態度など何もかもだ。
「ミサンダは妖精の婚約者であることを軽視、蔑ろにした。婚約者として無意味に冷たく接するその姿勢は、人も妖精も関係ない。彼は優秀ではあったが人としては落第だった、それだけの話だ。
そして、皇帝陛下からの勅命を知りながら、妖精の婚約者としての教育を疎かにしたスタムディン侯爵家も捨て置けん。
よってスタムディン侯爵家は一部領地を没収の上、男爵位に降爵。ミサンダ・スタムディン男爵令息は当時の精神状態も考慮し、スラァーヴニカ大森林の魔獣防衛戦に帝国の一兵士として無期限の懲役とした」
それは非常に厳しい罰だった。家が取り潰しにならなかった事を喜ぶべきなのか、廃嫡され生きる術も知らずに放り出されなかったことを喜ぶべきなのか。
スラァーヴニカ大森林は凶暴な魔獣の生息域。人族と魔族の国境とも称されるその森が隣接する国では常に魔獣の脅威に晒されている。懲役兵ということはミサンダには間違いなく逃走防止の魔道具が取り付けられる。過酷な激戦区で逃走も許されない目前に迫る死の恐怖との闘い。帝国のため国防に使い潰されるその未来に果たして幸せはあるのだろうか?
「さて、問題はエレーナ・メイルスキー男爵令嬢だ」
アパティアは苦笑した、現男爵と男爵夫人にさすがに同情したと。
メイルスキー男爵家は魔族の間諜の嫌疑をかけられたエレーナの生家だ。それはそれは徹底した調査が行われた。行われた結果は真っ白。メイルスキー男爵家はこれでもかと言うぐらいお人好しで善良な貴族家だった。自分たちの生活を切り詰めて民のための領地運営を行う男爵家と領民の仲は至って良好。アパティアは私腹を肥やす一部の貴族にぜひ見習ってもらいたいものであると思ったほどだ。
此度の件を伝えに行った際、男爵と夫人はそれはそれは顔を真っ青にし、頭を地に着け平謝り、今すぐにでも服毒して自決しそうな勢いであった。
「エレーナ嬢の件を伝えた際、責任を取って貴族位を返上すると自ら言ってきた。さすがの私もメイルスキー男爵と夫人には同情せずには居られなかったよ。まあ、それに関しては私の方で預からせてもらったのだが」
「と言いますと?」
「トゥノレー、確認だがエレーナ・メイルスキーは未来視に関する技能や精神干渉系の魔法が使えたのか?」
「いいえ。彼女の技能、魔法構成は一般の範疇に収まるものです。非常に優秀な火魔法の使い手ではありましたが。
それに関しては彼女の記録板を見ていただければ一目瞭然かと。アレを改竄することは不可能。隠蔽や誤認系の技能や魔法がない訳ではありませんが、永続するものなどない。虚偽の申告はあり得ないでしょう」
「そのようだな。調査結果もその通りで、彼女の人柄も非常に勤勉で誰に対しても物腰柔らかな好感を持てるご令嬢だったと報告が上がっている。彼女の友人達も皆、未だに信じられないと証言している。なので、私直々に彼女を再鑑定してみた」
見てみろ、とアパティアから手渡された報告書にトゥノレーは目を落とした。そこに記されていた文字に驚愕した。
『精神寄生【狂■/転■■嬢】』
それは金の魔法使いであるトゥノレーも初めて見る状態表記であった。
「殿下、これは一体何なのですか?」
「詳細は不明だ。だが文字通りに取るなら精神干渉系の技能あるいは魔法の関与が疑われる。……あの日、妖精のキャンディス嬢が彼女にあれだけの嫌悪を見せた原因かもしれない」
未発見の状態異常。人が変わったようなエレーナ・メイルスキーの真実がこの結果とは誰も救われない。
帝国一の優秀な尋問官の手腕でもエレーナの口から魔族の関与、背後関係などを明らかにすることはできなかった。泣き叫びながら彼女の口から出てくるのは、人物名や重要施設の名前、意味不明な単語の羅列、中には不敬な発言や思想が混じっていた。
エレーナ・メイルスキー男爵令嬢は本当に頭がおかしいだけの令嬢なのか?
尋問官が匙を投げた相手に、魔法開発のエキスパートであるアパティアは新手の捜査・鑑定魔法を引っさげて挑んだ。
その結果が精神寄生という状態異常。既存の回復魔法ではエレーナを治すことはできなかった。
「皇帝陛下もこの件はかつてない国難として事件の解明を指示された。敵が何者なのかも分からない。しかし、人心を惑わし帝国に混乱を起こそうとしたのは明らか。引き続き、魔族の関与も念頭に置いて捜査を続けることになった。
そして、トゥノレー・パーゲンセン伯爵、仕事だ。被害がこれで終わりとは思えない。陛下から勅命が下りた、エレーナ・メイルスキー男爵令嬢を治験体とし、状態異常・精神寄生の治療法を確立せよ」
それはなんて残酷なことだろう。アパティアの言う通り、エレーナは楽には死ねなくなったのだ。いつから彼女は彼女ではなくなったのか? それはもう誰にも分からない。本当のエレーナには何も罪はないのかもしれない。
しかし、これから彼女の身体は新しい治癒魔法開発のため、先の見えない人体実験の身へ落ちる。生かさず殺さず、激しい痛みを伴う日々が始まるのだ。
それはトゥノレーにとっても長く辛い戦いの日々の始まりであった。
この時のトゥノレーはまだ知らない。この先、まだ見ぬ婚約破棄の数々との出会いを。その奥に潜む悪意に巻き込まれていくことを。
そして、その戦いの最中、彼はとある令嬢と再会することになる。
「貴方様の研究論文に恋焦がれました。私と結婚していただけませんか?」
美しく成長した知識欲の権化、妖精伯からの熱烈な求婚を受けるのは少し先の未来である。