変調
「以上が、宝物庫前で起きた放火事件のあらましでございます、王太子殿下」
「しかし、犯人は……何が目的だったのか。こんなボヤ程度で宝物庫の結界はほころびすらしないだろうと分かっていそうなものだが」
「扉を焦がす事すら出来ませんでしたからね」
俺は事件現場となった、宝物庫に繋がる部屋の前で首を傾げた。
今は片付けられているが、ここで何者かか仕掛けた魔道具を発動させて、火が出たらしい。廊下の絨毯と、魔道具が仕掛けられていた調度品のチェストが駄目になったが、すぐに火は消し止められて、宝物庫に影響はなかった。もちろん、中も改めて無事が確認がされている。
しかし、それだけと断ずることはできない。ここは、貴族しか立ち入れない区画の、更に奥にある。出入りする使用人にも平民はいない、厳重に警備されてる場所だ。
魔道具を仕掛けたにせよ、いずれかの貴族が関わっているのは明白だった。一体誰が、何の目的でこんな事を……。
「これは様子見かもしれない。しばらく、宝物庫とそこに繋がる通路の警戒度を上げるように」
「承知しました」
俺の言葉を受けて、警備兵の上官が動き出す。ひとまずこの、この事件についてこれ以上分かる事はないな。
さて執務室に戻って書類仕事をするかと王太子執務室付きのマシューが血相を変えて走って来た。一体何があったのか。
「王太子殿下、テネブラエ公爵家から連絡がありまして……ご婚約者様が意識を失い、目覚めないのだと……」
「――何……?」
俺の目の前に来ると、マシューは青ざめた顔でそう言った。
一瞬、何の話をしているのか理解できなかった。やっと言葉の意味が理解出来た瞬間、俺はマシューの肩を掴んで大声を出していた。
「ユリアの容態は?! 一体、何があったんだ?!」
「意識がない上に、高熱が出ているとか……しかし、医師が対応しておりますが、原因不明だそうです」
最近は体調を崩していないと思っていたのに……!
なぜ、こんないきなり。意識を失い、原因不明になるだなんて……何の病だ?! 俺はこうなる前に気付けなかったのか、ユリアに何か普段と違う様子はなかったのかと自問自答した。
「マシュー。俺はすぐさまテネブラエ公爵家に向かう。先触れを出しておいてくれ」
「かしこまりました」
彼女の家、テネブラエ公爵邸に着くまでの時間が、やけに長く感じられた。しかし、その日はユリアとの面会は叶わず、意識が戻ったと連絡が来たのも三日も経ってからの事だった。
「ユリア……」
愛する婚約者が、意識を失い倒れ伏すほどの何事かが起きているというのに、俺は目を覚まさない君のために祈るしか出来ない。神よ、どうかユリアをあなたの元に連れて行かないでください。美しく優しいユリアは神からも愛されてしまっているため、幼少の頃からこうして何度も体調を崩していた。
しかし、寝込むだけならともかく、三日も意識を失うなんて初めてではないだろうか。心配だ。
だからようやく意識が戻ったと聞いた時は、鳩尾に突っ込まれていた重い岩がやっと溶けて消えたように思えたのだ。ユリアはまだ全快した訳ではない。それでも、たしかに回復に向かっているのだと、そう思えて。
毎晩のようにユリアのことを考えていた。眠りに落ちるまで、いや、夢の中でさえ彼女の名を呼んでいたのではないだろうか。
だから、目を覚ましたユリアが俺に会いたがっている。そう連絡が来て、俺はすぐにテネブラエ公爵家に向かった。
「……レオンハルト殿下。ようこそお越しくださいました。娘のために足をお運びいただき感謝します」
頭を下げる夫人の姿は、いつものように凛としていたが、一見して分かるくらいに疲れ切っている事が分かった。テネブラエ公爵家は家族仲もいい。きっと俺と同じように……いや、実の母として、俺よりも強くユリアの身を心配していた事だろう。
「ユリアのためなら当然です。意識が戻って良かった」
「ええ……本当に……。今朝ようやく声も出せるようになりましたの。それで殿下とお会いしたいとつらそうにするものですから、図々しくもご連絡させていただきました」
「いえ、このくらい」
公爵夫人のその言葉に、胸の奥が疼いた。ユリアが、体調を崩して心細い時に、自分に会いたがってくれているなんて――。
「どうぞ、ユリアに顔を見せてあげてください」
俺を先導していた公爵夫人の手が、そっとユリアの部屋の扉にかかった。足を踏み入れるのは初めてではないが、やはりどうしても緊張してしまうな。
ハーブのような匂いがする。薬湯だろうか。中にいた侍女の案内で前室を通りながらそんな事を思っていた。目を覚まさない彼女の事を考えて、どれだけ狂おしい時間を過ごしただろう。会えない時間は、心が削られる思いだった。
「ユリア……」
病人の刺激を極力避けるためにほの暗く整えられた室内には、レースのカーテン越しに静かな光が差し込んでいた。ユリアが世話をしている窓辺の鉢植えが風に葉を揺らし、サラサラを音を奏でる。
その部屋の一番奥、寝台の上に、ユリアは横たわっていた。
クッションを背もたれに銀の髪を寝台に落として、半身を起こしている。彼女と目が合った瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。
「レオン……様……」
声が、した。小さく、かすれて、でも間違いなく――彼女の声だった。俺の最愛の人の。
俺は吸い寄せられるように寝台に駆け寄って、彼女の手を取る。
その細い体。伏せた睫毛。頬の色は白く、まだ体調が悪い事が窺える。それでもユリアの表情には、確かに笑みが浮かんでいた。
「ユリア……っ、良かった、三日も目を覚まさなかったと聞いて、どれだけ心配したか」
「レオン様」
冷たくやわらかな彼女の手は、俺の指に応えるようにか弱く握り返してくれた。そのあまりの頼りなさに、一気に感情が押し寄せて来る。目が覚めて良かった。
「良かった……本当に……」
涙が出るかと思った。俺は、王太子として、誰よりも強くあらねばならない立場の人間だ。それでも――彼女の無事をこうして直接目にした事で、安堵から泣きそうになってしまったのだ。
「……ご心配をおかけてしてしまったようで……ごめんなさい……」
「ユリアには、何一つ謝ることなんてない」
「でも……レオン様、お忙しいのに……お顔を見たいなんて言ってしまって……」
申し訳なさそうにするユリアに、俺は首を横に振って見せた。
「いや、俺の方こそ、ユリアの顔が見られて良かった。この三日間、気が気でなかったから」
紡いだ言葉は嘘ではない。ユリアの意識が戻らないと聞いてから、執務中も学園でも集中できず、夜もよく眠れていなかったから。
「レオンはずっとユリアの事を心配していたんだよ」
「ああ、お兄様……」
ユリア不在の俺の様子をそう話すのは、ユーリスだった。ユリアしか目に入っていなかったが、そういえば俺がやってくる前からユーリスもベッドサイドにいたらしい。もちろん、実の兄妹とはいえ、異性なので他にも使用人はいるが。
「ユーリスこそ、目の下に隈を作っていただろう」
「仕方ないじゃないですか、大切な家族の事ですから。……意識が戻って、良かった」
ユーリスの目にも疲労が浮かんでいた。しかしようやくこれで一安心と思えるだろう。俺は公爵夫人とユーリスの憔悴した、しかし目覚めたユリアを見て心から喜んでいる様子を見て胸に響く者を感じていた。
この家は、なんてあたたかいのだろう。こんなにも、ユリアを想っている、大切している家族がいて。……俺も、ユリアと同じように、愛し合える家庭を築きたいと思う。
そう、何度も自覚したはずの想いがこの瞬間、より深く強く胸に根を下ろした気がした。きっと優しいユリアなら、側妃が産んだ子も愛し育んでくれるだろうと確信できる。
「君の顔が見られて良かった。早く良くなるように願っているよ。花を預けたから、もし体調が問題なければ部屋に飾ってくれないか」
そろそろ、俺はこの辺りで部屋を辞する事にした。目が覚めたばかりの彼女の体力を考えると、長居するべきではない。後ろ髪を引かれる思いで私はベッドサイドから立ち上がる。
「レオン様……でも、わたくし、心細くて……夜までいて欲しいの……お願い……」
「いや、今はゆっくり体を休めないと。また、何度だって会いに来るから」
「……本当に? ……レオン様……嬉しい……」
離れそうになった指が握り込まれる。
弱弱しく微笑んだユリアは、俺の事が好きでたまらないと、そう分かる視線を向けてくれた。
普段は淑女として礼節を保っている彼女のそんな表情なんて……ああ、もう。潤んだ瞳で言われたその言葉が、どれほど嬉しかったか。いつもよりももっと愛おしく感じる。しかしそれと同時に、罪悪感が俺の胸に押し寄せた。
具合の悪いユリアが、心細さから口にした言葉に、こんなにも喜んでしまうなんて。
なんてあさましい男なんだ。俺は、恥ずかしくなって、そんな思いを見透かされるのを避けるためにユリアを抱きしめたい衝動を抑えてユーリスと公爵夫人に向き直った。
「レオンハルト殿下。ユリアのために王族の侍医を派遣していただき、ありがとうございました」
「いいや、俺には……苦しむユリアにそのくらいしか出来ませんから」
公爵夫人が頭を下げそうになるのを慌てて制止する。
それに、ユリアが学園を卒業する二年後にはユリア自身も王族になるしな。
「ユリアは、レオン殿下にこんなに愛されていて幸せ者ですわね」
「ふふ……恥ずかしいわ、お母様」
クッションに身を預けて幸せそうに微笑むユリアを見て、君のために俺に出来る事なら何でも出来る、改めてそう感じた。
きっとまた、ユリアの健康に不安があると……アディントン侯爵家やホガース侯爵家あたりが騒ぐのだろう。ユリアが学園に戻る前に、耳に入らないようしっかりと手を回しておかなければな。




