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「大変な目にあったようだな」
聖女フェリシアーナ様に簡単な学園の説明が終わり、神聖教会の馬車が彼女を迎えに来た後。私とレオン様、そしてお兄様は、王弟であるアシュベル様が待つ学園長室へ召喚されていた。
見慣れた学園長室。古代魔術研究者でもあるアシュベル様の蔵書や資料等が普段は散らかっているのだが、今は片付けられているようだ。午前中に神聖教会の使者を迎えたからだろう。
「あの……彼女は一体、何なのですか?」
応接用のソファで対面するアシュベル様に労いの言葉をかけられて、それに強く同意する形でレオン様が切り出した。
そうね……大変……あれは大変な事、だったわね。短い時間だったけど、夜会で一晩社交をするのと同じくらい疲れてしまった気がする。
私もレオン様の言葉に感じるものがありつつ、そっとアシュベル様のお顔を窺い見た。イザベラなど、頭が痛くなってきたから学園長への報告は任せていいかと、具合悪そうにしながら先に帰ってしまったもの。
「正直、私も彼女と顔を合わせたのは今朝の事なのだが……衝撃を受け止めきれないでいる。どうしたものか」
アシュベル様は難しそうな表情でそうこぼした。普段はこの学園の長として、所属する生徒を謗るような事は一切口にしない方だから、これには驚いてしまった。
「叔父上も何かされたのですか? その、体に障られて、腕に抱き着かれるとか……」
「何、レオンもか?」
「いや、俺はエリオットが盾になってくれたのですが。それと、ユーリスが」
「ああ……」
アシュベル様は憐れみを込めた目でお兄様を見た。アシュベル様も、彼女から同じ事をされたのね。アシュベル様は、現在の国王陛下とはお母上が異なり、大きく年も離れている。生徒会室で、お兄様やレオン様、エリオット様の容姿に瞳を輝かせて見入っていたフェリシアーノ様が、同じく眉目秀麗なアシュベル様にもどんな反応をされたか、想像に難くない。
その複雑な継承権から、成人する前にご結婚はされないと宣言して独身を貫いているアシュベル様だが……多分そういった事情は、ご存じないでしょうし。
体を押し付けるように腕に抱き着くだなんて。強い感情が発露しそうになって、つい手を握り込んだ。
一方的な感情だけど、慕っている方にそんな事をされたのだ、こうして私が憤りを感じてしまうのは仕方ないだろう。
メイソンさん達だって、平民でもあのような振る舞いをする方は普通はいないとおっしゃっていた。彼女は、それだけ非常識な存在だと。強く断言していたもの。
私はお腹の底に湧いてきてしまった強い感情を宥めるように、目の前に供された温かい紅茶に口をつけた。私の好きなベリー系の香りに少し慰められて、深く息を吐く。
「どう対応していいものか判断しかねてしまって……ユリアがいて、冷静に対応してくれてよかった。イザベラなど、怒りに震えて体調を崩して帰ってしまいましたよ」
「いえ……私など、まだまだ未熟で。レオン様やお兄様がお困りでしたのに、すぐには動けませんでしたわ」
俯きかけた私の背中に、レオン様がそっと手を添えた。
「そんな事はない。すぐに毅然とした態度で公平な指摘をしてくれた」
「ああ、妹に守ってもらって情けないが、私も助かったよ」
あの場にいたお二人にそう言ってもらえて、私の気持ちは少し軽くなった。
「難しい対応だったようだが、ユリア君が随分上手く動いてくれたのか。流石だ」
「いえ……」
私が動いた事で少しでもお力になれたのなら良かったわ。そう思ってつい、お慕いしている方のお顔に視線を送ってしまった。
「しかし、今後も同じような態度で過ごすようなら、困った事になるな。生徒達も動揺するだろうし、学園の規律が乱れる」
レオン様は苦い顔でそう言うと、アシュベル様もそれに同意して軽く頷く。
「見た限りでは、教会の人間は彼女を操作しきれてないように見受けられる」
「それは、たしかに」
「けど……何が目的でしょう」
お兄様の言葉に、私達は顔を見合わせて黙り込んでしまった。わざわざ送り込んだ聖女がこの学園でああいった振る舞いをする。それで神聖教会が得られるメリットが、全く思いつかなかったのだ。
「……彼女はユリア君とイザベラ君のクラスで受け入れるのだったな。負担だと思うが、一緒に過ごす上で、気になった事があれば私に報告を挙げた上で生徒会で共有して対応して欲しい」
「はい。イザベラと共に励ませていただきます」
私は軽く頭を下げながら、強く決意した。
彼女をそのままにしてしまっては、今日のような混乱が起こるだろう。持っている常識の違いから軋轢が起こるのは、お互いに良くない。あのような振る舞いはやめていただいて、ちゃんとこの学園での規範を説明して、理解して過ごしていたかなければ。
異性のお兄様やレオン様達にとっては、今日のように強く対応できかねる事も多いだろう。私やイザベラが気を配らないとだわ。
翌日から学園に通い始めたフェリシアーノ様は、心配したように、文字通り嵐を呼び込んだ。いえ、彼女が中心の暴風が吹き始めたと言っても過言ではない。
「聖女様、初めまして。ティファナ・マッカートニーと申します。学友として、フェリシアーナさんとお呼びしてもよろしいですか?」
「ようこそ当学園へ。私はメイベル・ネブラーですわ。この学園での聖女様の学びと日々の生活が充実されるよう願っております」
「ぜひ、神聖教会での過ごし方などお聞きしたいわ」
まず、教室で。神聖教会の認めた聖女である事など私の方から事情を簡単に説明した後……なんと、フェリシアーナ様は女生徒達の挨拶を無視して、室内にいた男性に声をかけに行ってしまったのだ。
教壇の近くで、フェリシアーナ様を中心に緩く輪を作っていた私達。それを席について眺めていた彼らは、思わぬ行動をとった聖女様に驚いた表情を向けていた。
「はじめまして! あたしはフェリシアーナ。さっき紹介された通り、教会の認めた聖女よ。あなたの名前は?」
「え…………っと……モーガン・パターソン……だけど……」
順番に男性達の名前を尋ねていくフェリシアーナ様の後姿を、置いてけぼりにされた私達はポカンとした顔のまま眺めるしかなかった。挨拶の途中で立ち去られて、喋りかけたまま口が開いている令嬢もいる。
「あの……ユリア様、イザベラ様。神聖教会の聖女様とは、一体どういった……事なのでしょう?」
先ほど無視をされたティファナ様が私を振り返ってそう尋ねた。正直、私こそ彼女の心の内を伺いたいとすら感じているのだけど……。
「それが、私にも。あの……先ほどお話した通り、聖女と認められるまでは平民として過ごされていたそうですから。何かあれば、その都度説明ができればと思っております。皆様も、ご協力お願いします」
私が依頼を口にすると、顔を見合わせた後だが皆様快く承知してくださった。その笑顔の裏にほんの少しだが困惑が滲んでいるのは、気のせいではないだろう。
しかし、私も彼女の振る舞いに戸惑っているうちの一人だと理解して、頷いてくださった。
「学園長のアシュベル殿下が許可をされたと言う事は、国として受け入れている、という事ですものね」
「生徒会として動かれているユリア様とイザベラ様の、お力になりますわ」
「心強いお言葉、ありがとうございます」
「では私達、早速フェリシアーノ様にお話をしてまいりますね」
私はイザベラと目配せをすると、男子生徒達に声をかけ続けるフェリシアーナ様の背中を追った。
「あの、フェリシアーナ様」
「……何?」
「学園の細かい説明などありますので、良ければ、談話室にお茶を用意しますので、お話をさせていただけませんか?」
フロアごとに用意されている談話室にはお茶と軽食を用意する使用人や、机ごとの衝立など、少々込み入った話をするのに打ってつけだ。
この人目の多い教室ではなく、私達は彼女をそこに誘って、この学園での挨拶のマナーや異性との距離などを改めて伝えるつもりだった。私達がフェリシアーナ様を止めた形になったおかげか、手をついて机に乗り出され、髪の毛先が触れそうな位置で熱心に話しかけられていたクラスメイトがホッと息を吐く。
「どうして? ここじゃいけないの?」
「あの、落ち着いて、腰を下ろしてお話したいですし」
他に人がいる状況ではなく、こういった注意はこっそりと伝えたい。
「……味方のいないとこで叱るんですか? 怖ぁい」
「え……?」
なのに思いもよらぬ事を言われて、私はつい驚きが口からこぼれてしまった。叱るだなんて……そんなつもりは。
「……あのね、ユリアはあなたを気遣って、誰もいない所で常識を教えてくれるって、そう言ってるの!」
あまりの事に耐えかねたのか、イザベラが強い語気でフェリシアーナ様に注意した。任せきりではいけないと、私も言葉を足す。
「この学園で過ごされるなら、この学園で守られている規律に則って過ごしていただかないと。あの、昨日もお伝えしたように、男性の事は家名でお呼びください。そして、みだりに体に触れる事はないようにお願いします」
「……はいはい、気を付けまーす」
少し違和感のある言葉遣いが気になったもの、気を付けると言って体を引いたのでひとまず安堵した。気を付けると、昨日もそう言っていたけど……ううん、今までと違う常識をすぐに身に着けるのは難しいものね。
以前留学生を対応させていただいた時も、母国では当たり前の、宗教的な意味を含んだ身振りや挨拶をしないようにするのが大変だとおっしゃってたもの。
「ねぇ。さっきわざと名前を聞いてない方がいたのは気が付いた?」
不安を感じながら、ご自分の席に座って窓の外に目をやるフェリシアーナ様の横顔を見つめる私に、イザベラが小声で話しかけてくる。
「そう言えば……飛ばし飛ばしに声をかけてたわね」
一番近くにいた方から声をかけていたが、不自然に数人を飛ばして次の方に話しかけていたのは気付いていた。それが何故かは分からないけど。
「聖女様、見目がいい男性だけ選んで名前を聞いてたわ」
「えっ……」
イザベラのその指摘に、私は思わず言葉を失った。
そんな…………失礼な事を、あそこまであからさまに……? たしかに、言われてみると、令嬢達からの視線を集める顔立ちの方だけ、名前を聞いてたわね……。
「私、あの女嫌いよ」
正直すぎるイザベラの発言に、私は小さく笑みをこぼした。実際私もすでに、彼女への好感度はマイナスの位置にある。けど、貴族であるならば、好き嫌いで関わる人を選んではいられない。
「あと三か月で学年が終わるこの時期に、どうして常識も学んでない人をねじ込んで来たのかしら」
言い過ぎよ、とは言えなかった。そうよね、編入させるなら、神聖教会の方でこの学園について多少教えてからにすべきだったと思うわ。
考え方の違いなのかしら……ここまで何もかもを言わなければならないなんて思ってなかったわ。初めてのお茶会に参加する年齢の子供を見るよりもハラハラしてしまう。けど、次の学園からの編入だったとして、三カ月あっても足りるか、とも思ってしまった。
こうして彼女を中心にして吹き始めた暴風は瞬く間に強くなり、学園全体に広がっていく。
授業をまともに受けるつもりがなく、本も開かない。授業中差されても「分かりません」ばかりで考えようともせず、二日もすると居眠りをするようになった。これには先生方も呆れてしまって、すぐに放っておかれるようになった。学び舎での生活を送りたくてこの学園に入ったのよね?
何より、フェリシアーナ様の視界に、彼女の興味を引く男性が入る度に声をかけるのは本当にやめて欲しい。彼女の世話を申し付けられた生徒会の者として見るたびに口頭で注意をしているが、「ヤな感じ」と言われて機嫌悪そうにされてしまって……。
どうして規律を守ってもらえないのだろうか。聞いてもらえない度にこっちが恥ずかしくて、気まずくなってしまう。
「ねぇ、アシュベル殿下。聖女様を神聖教会に送り返せないの?!」
憔悴した私の肩に触れながら、イザベラが尋ねる。まだフェリシアーナ様が学園に通うようになって一週間も経っていないのに、色々な影響が出ているように感じられた。
今日も学園長室でアシュベル様を交えて対応を話し合っているが、何か状況が好転するような話は見えてこない。
「こちらも抗議はしているのだが……教会の認める聖女を国が拒絶して貶めるのかと、そう主張されて」
「嫌な論法ですね」
国が神聖教会と距離は取りつつも、影響を軽視できないのを分かっていてそう言っているのだろう。
「もしかして、わざと問題のある者を送り込んで、聖女を丁重に扱わなかったと言いがかりを付けるつもりか?」
「あり得ないと言えないのが怖いですね……」
何度もレオン様の盾となって、聖女に腕や胸板を触られているエリオット様がげっそりとした顔でそう口にした。
「しかし、神聖教会は彼女の何を聖女と認めたのか……」
「治癒術はそこそこ使えるようですが、特に目を見張るようなものではありませんでしたものね。本人に聞いても、教会の機密だから言えないと言うばかりで」
イザベラの言葉に私もおおむね同意した。治癒術は生得の才能が大きいので使えるだけですごい事ではあるし、優秀な治癒術師と呼べる力はあるようだが、聖女と呼ぶに値する奇跡、という程ではなかった。
聖女や聖人に名を連ねている方は、神聖教会の主観で述べられた主張だが、皆そう呼ばれるに相応しい功績をお持ちである、という印象を受ける。しかし、彼女には、神聖教会が何をもって聖女と認めたのだろうと、正直首を傾げる事しか出来なくなっていた。
「国としては、今神聖教会と揉めたくないらしいのだ」
「各地で民衆のデモなどが問題になっていますよね。過激な行動をとる人も出ているとか……」
「ああ、よく知っているなユーリス。そう、口実になるような事は避けたいのだと」
そんな事が……。
大切な方が心を揉んでいる姿は見たくない。私は、どうにかこれ以上フェリシアーナ様が学園の治安を乱すような振る舞いを控えてもらえないか思案した。
登校禁止など、強い力を持つ学園規律もあるが、彼女の振る舞いはそこで制限できるほどではないのが悩ましい。
男性から女性の体に触れる事については厳しく規制されているがその逆は盲点になっていたのか言及されていないし、居眠りはするし勉強はしないけど、授業を妨害している訳ではない。試験での不正や、金銭のやり取り、虐めと疑われる行いなどにも該当しない。
「イザベラもユリアに言わせてばかりいないで、彼女に注意しろよ」
「私はもう無理、あの女。何を言っても『次から気を付けまーす』で何も直さないし。どこが聖女なのかしら?」
柄になく、少しいら立ちを抱えた口調でレオン様がこぼした。
イザベラの気持ちも分かる。でも最初の方は、イザベラの方が積極的に注意してくれていた。強く反発するフェリシアーナ様と口論になって騒ぎが大きくなるからと、私が代わりに前に出るようにしたのだ。
私もこれに関してはもう言葉が見つからなかった。どうしたらいいのかしら……。注意の仕方をどう変えても、振る舞いを変えていただけないし……。
そうしてその日の午後、私達が危惧していた以上の問題が起こってしまったのだった。