凋落
一体どうしてこんな事が。
その知らせを受けてテネブラエ公爵家に向かう間も、俺は起こってしまった事を信じられずにいた。
だって。どうして、何故、突然テネブラエ公爵夫人が亡くなってしまうなんて。
見慣れた屋敷を見上げていつものように門をくぐる。屋敷の前にも、エントランスの前にも、入ってすぐのホールにも兵士が立っている。将来家族になると思っていた親しい人が亡くなってしまったという現実感はないが、そこかしこにある非日常がこれは事実なのだとまざまざと知らしめてくる。
やって来た俺達を見て敬礼をする彼らを置いて、俺は勝手知ったる屋敷の中を進んだ。
「レオンハルト」
顔見知りの使用人を捕まえてユリア達テネブラエ家の人間が何処にいるか聞こうとしていた俺に、声がかけられた。
声で誰かは気付いていた。だが……目にしたユーリスの顔色があまりにも悪くて、聞きたい事が山ほどあったはずなのに、どうしたとも声をかけられなくなっていた。
「……テネブラエ夫人が亡くなったというのは、本当なのか?」
「ああ。それも……知らせが行っていると思うが、殺されたんだ」
一体どうして、誰に。口をついて問い詰めそうになる言葉をぐっと呑み込む。
「きっと、心配してきてくれたのだろう。けどユリアに会う前に……聞いて欲しい事。いや、聞いてもらわないとならない事があるんだ」
幽霊のような虚ろな目をしたユーリスが歩き出す。ただそれだけなのに、何も問いかけられない。俺はその後ろをついていくしか出来なかった。
「……母上が亡くなったのは、ユリアの部屋なんだ。ユリアが言うには、突然バルコニーから……部屋に黒づくめの男が入って来て、母上を殺して逃げていったと……そう証言している」
なんと、母君を目の前で失うだなんて。亡くなったテネブラエ夫人への哀悼だけでなく、俺は殺人を目撃してしまう事になったユリアの心痛を思った。
しかし、それと同時に俺は違和感を抱いた。
「厳重な警備がしかれているはずのテネブラエ公爵家に、何故そんな存在が入りこめたのか。もう夕暮れだが、犯行が起きたのは日中だろう?」
「そう。警備結界が破られた形跡はなく、屋敷を警備していた者達も、母上が亡くなったと屋敷の中が騒々しくなるまで何の異常もなかったと報告している」
俺は胸の内に沸く嫌な予感にズンと重い石を呑んだような気持になった。呼吸が、息が深く吸えない。
……では、誰にも気付かれず一切の痕跡を残さず侵入できる、何らかの脅威がテネブラエ家を襲ったのでは、そう考えるしかないのではないだろうか。
「母上は、酷い損傷を負っているんだ」
見知ったはずのユリアの部屋。公爵家で起きた凶行を調べるために出入りする兵士が忙しそうにしていて、まるで知らない場所の様だった。
寝台に寝かされた膨らみは、人の形をした顔の部分まで覆われていて、そこに生者が寝かされていないのだと思い知ってしまう。
一度足を止めて簡易的な祈りを捧げると、俺はユーリスの後を追いかけた。彼が見せたいのはこの部屋にあるもののようだ。
「ここだよ。母上を殺したと思われる不審者が侵入してきたというバルコニー」
色素の薄い彼が夕暮れの窓際に立つと、心がざわつくくらいに不安になる。真っ赤に染まった銀髪も、白い肌も、この凄惨な事件があった部屋だと思うと余計に寒心を覚える。
外に通じる大きな両開きの扉は、今は壊されて、金具が破損しているために閉じる事も出来ずに中途半端に口を開けていた。
「ここを見て欲しいんだ」
割れたガラスが散乱する絨毯の上に立ったユーリスが壊れたガラス扉に触れて、ゆっくりと部屋に向かって閉じた。そこを閉じる事で何を見せたかったのか、考える前に目の前の不自然な光景に気付いた。ガラス扉は片方だけが壊されている。しかし、不審者が侵入しようとしてこのように壊したのであれば、ガラス扉の両側ともが壊れていないとおかしい。そう感じた。
「レオンハルトも気付いただろう。部屋の中から片側のガラス扉を開けて外に出て、それからガラス扉を壊したように見える」
それか、最初からガラス扉の片側が開いていたなら辻褄はあうだろう。しかしその場合、侵入者にガラス扉を壊す必要はなくなる。
例えば、屋敷の中に潜んでいた犯人が外から入ってきたように見せかけるためにこのような工作をした可能性も、十分にあり得る。しかしその場合、バルコニーから入ってきた犯人の凶行の瞬間を目撃したというユリアの証言と、徹底的に食い違うのだ。
「ユーリス、これは……」
彼が何を言いたいのかを理解した俺は、腹の奥が冷たくなるのを感じた。手の震えが、抑え込めない。声にまで出てしまわないようにする事でやっとだった。
何で、どうして嘘を吐いたんだ。いや、分かっている。そんな理由なんて、一つしかない。……嘘を吐く、必要があったから。どうしてそんな必要に駆られたのか……それは。
「兵士達も、同じ結論だ。だからこそ動く事が出来ず、困惑している。公爵令嬢で、王太子妃の婚約者だ」
「ユリアは……」
「……父上も帰宅されている。二人共、プライベートサロンにいるよ。行こう、レオンハルト」
今度は俺が、幽霊のような足取りで歩く番だった。ユーリスの、自分より細い背中をぼんやりと見ながら、絨毯を踏む感覚が分からないまま追いかける。
「あっという間の事でしたの! バルコニーから背の高い黒づくめの男が。突然の事にわたくし悲鳴を上げそうになって。体がすくんでいる間に、その男はお母様に飛びついて……気が付いたら、お母様は倒れていましたの」
「それを、テネブラエ公爵令嬢は同じ部屋でご覧になっていたんですね」
「ええ、そうなんです。次にその男はわたくしに狙いを定めて……とても凶悪で……怖い顔をしていましたわ。それで、わたくし悲鳴を上げましたの。そしたら人が来る事を嫌ってか、その男は部屋に飛び込んできた時と同じようにバルコニーから逃げていきましたの」
足を踏み入れたテネブラエ家のサロンからは、はきはきと喋るユリアの声が聞こえてきた。テネブラエ公爵は、それを、一つ離れたソファに座って絶句した様子で視線を向けている。
「わたくしも殺されるところでしたの、とても恐ろしいですわ」
「顔を見たんですか?」
「え?」
「凶悪で怖い顔をしていたとおっしゃったでしょう。でも、覆面をしていたとおっしゃってましたよね?」
「……覆面で顔は見えませんでしたけど、とても鋭く睨まれましたの。怖い思いをしたから、そう感じたのですわ。語弊がありましたわね、申し訳ありません」
兵士ももう分かっている、という話は事実なのだろう。ユリアの体面に座る、この屋敷の中で一番階級の高い兵士の目は無礼とも言える程にまっすぐ彼女の事を見据えていた。それは決して、目の前で母親を殺された悲劇の少女に向ける目ではない事は、一目見ただけの俺にも分かった。
「まぁ! レオン様!」
現実が受け止めきれずに部屋の入り口で立ち止まっている俺の姿を見て、彼女は嬉しそうに顔をほころばせると駆け寄ってきて俺の胸の中に飛び込んだ。
思ったよりきちんと立てていなかったせいか、支えきれずに体がふらつく。そんな俺の背をユーリスの手の平がそっと添えられた。
「わたくしを心配して来てくださったのね。ああ……、レオン様。恐ろしいことが起きましたの。先ほど屋敷の中で、お母様が殺されてしまったのよ……! わたくしはそれを見ているだけしか出来ないで……うっ、う……!」
彼女は俺の背中に腕を回して、胸に顔を押し付けると声を上げて泣き始めた。
「……君も、危うく殺されそうな所だったんだろう」
「! ええ、そうなのです……! わたくし怖くって……!」
「テネブラエ夫人がこのような事になるなんて……」
「はい。わたくしもまだ信じられませんわ。ああーっ! お母様ぁ……!」
嘆くその声が胸を打たないと気付いてしまったせいで、言葉が上手く出てこなかった。
どうして、何故。分からない事ばかりだ。けどこれだけは分かる。俺はユーリスと、テネブラエ公爵と順番に目を合わせて軽く頷いて見せた。
「ユリア、このような恐ろしい事件が起きてしまった家に君を置いておくことはできない。いや、この犯行こそ次期王太子妃の君を狙ったものかもしれない。今すぐ城に来て、厳重に保護させてくれないか」
「城に……?! ええ……たしかに、そうねぇ……わたくしのお部屋だって使えなくなってしまいましたし……」
隠しきれない喜びが滲んでいる声に気付かないふりをして、俺は婚約者のユリア・イシュ・テネブラエ公爵令嬢の身の安全を案じて城で保護を申し出た形をとる。
「一人だなんて……心細いわ」
「マシューを付けておくから、何かあったら彼に。俺はテネブラエ夫人の事件の捜査について指示を出してくるよ。これは重大な事だからね」
「……すぐ戻ってくださいましね。約束ですわよ」
城に戻ってすぐ、各所に必要な指示を出していった。本人はそうと気付かないだろうが、公爵夫人の殺人事件の容疑者を確保するために必要な措置は全て行ってある。
城にはユリアを慕っていた使用人も多いが、屋敷で俺と一緒に全てを見聞きしていたマシューが控えているから、間違いも起きないだろう。
テネブラエの屋敷には戻らない。俺は重い内心を引きずりながら関係者が集められた城の一室へと向かった。