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レオン様の愛は今のわたくしに向けられているんだ。そう思えるようになったわたくしは、久しぶりに苦しみから解放された気がした。
愛情を向けてもらえると、日常ってこんなに輝くのね。この体になった最初の頃と比べ物にならないくらい幸せな気持ちが胸を満たしていた。憂いが晴れた気持ちだわ。
けど、学園で過ごす時間はわたくしにとってもはや苦痛なものになっていた。
前は賞賛の言葉と羨望の目だけがわたくしを追いかけていたのに。
今は嫌な音をはらんだ囁き声が背後から聞こえてくる。廊下ですれ違う生徒たちの視線が、目が合わないように向けられる頻度が増えたし、以前ならわたくしが何をするでもなく自然と寄ってきていた友人達が、どこかぎこちなく距離を取り始めている。
でも、でも――いいのよ。だって、わたくしにはレオン様がいるのだから。
あの方は、この国で一番貴い身分で、見目も良く、頭脳と肉体も素晴らしく優れている。そして誰よりもわたくしに優しくて、誰よりも深くわたくしを愛しているのだから。ああ、次に会うまでの時間が長いわ。
週に一度の逢瀬で、甘やかな言葉を囁いてくれるのが待ち遠しい。あの時だって、何度も何度も「愛してる」と言ってくださった。
わたくしは確かに、その腕に包まれて、何もかも許された気がした。
――だから、大丈夫。
多少、学園での評判が落ちたところで、何? どうせレオン様と結婚したら誰も私に逆らえなくなるのだ。
レオン様のように、わたくしの本質を理解してなどいないくせに。有象無象に嫌われたってなんでもない。かつてあの女に騙されて、口々に褒めそやしていた連中に何が分かるの。
ただ、ちょっと……焦っていたのは確かだった。
「ねぇ、ユリア。どうしてロディーヌさんのお家の借金の事を皆の前で口にしたの?」
「え? そうだったかしら? そんなつもりなかったのよ。ただ、心配して差し上げたかったの」
「私には、そうは聞こえなかったけどね。心配しているふりをして、わざと借金について知られるようにしたんじゃないかって思ったわ」
「酷い、わたくしそんな事思ってなかったわ」
最近、イザベラはとてもうるさくなった。まるでわたくしが前の体だった時を彷彿とさせる。なんて嫌な子になっちゃったのかしら。でもこの子以外でわたくしの一歩後ろで上手く立ち回ってくれるような実力がある子はいないし……。
イザベラの指摘に、わたくしは大げさに俯いて見せた。そんなに言わなくても良いのに。わたくしはただ、最近わたくしの友人としてちょっと調子に乗っているようだったから、少し鼻っ柱を折っておきたかっただけなのに。だって、こうして上下関係を教え込むのも社交の技術の内でしょう。なのに。
「それに、私の課題をまた勝手に写したでしょう。次は自分でやるから今回だけって、前も言ってたわよね」
「体調が悪かったから……それしか方法がなくて」
可愛らしく首を傾げて見せたが、イザベラの機嫌は変わらなかった。
「ユリア……貴女、しばらく学園を休んでからというもの、おかしいわよ」
「おかしいって、どこが?」
「人への気遣いや感謝が薄れて、何だか嫌な子になったわ。いいえ、この前からじゃない、マリアンヌ様が退学した頃から、段々そうなってる」
「……!」
イザベラの指摘に、わたくしは冷や汗が流れた。別人だなんて思われては困る。わたくしは必死に言い訳を考えた。
「マリアンヌ様のせいなの……!」
「は……はぁ……?」
「マリアンヌ様のせいで、わたくし……」
「それ、ずっと言ってるけど、もう三カ月も経ってるし、彼女も改心して真面目にしているじゃない。貴女は王太子妃になるんだから、もう少し心を強く持たないとだめよ」
「違うの!」
わたくしの言葉に、イザベラは目を見張った。
「わたくし実は、ずっと彼女に酷いいじめを受けていたの。誰かに言ったらもっと酷い目にあわせると言われて抵抗できなかったのだけど。持ち物を捨てられたり、レオン様と別れろって頬を叩かれたり、首を絞められた事もあったわ。そんな事があってからのあの事件で……そんな彼女が、心を入れ替えたって口だけで言っても、そんな訳ないわ。わたくし、彼女がいつ戻ってきてまた酷い目にあうかと思うと、不安で。怖くなって、攻撃的になってしまっているの」
これは全部、かつてのわたくしがあの女にしてやりたかった事だ。つまり、以前のマリアンヌならやりかねなかった事。だから、実際に起こってもおかしくない事だった。「ユリア」が怖がるのも当然なのである。
わたくしは涙ながらにそう告げる。しかし、じっくり溜めてからそっと顔を上げると、イザベラは呆れた顔をしていたのだ。
「そんな事、出来る訳ないじゃない」
「えっ……」
「学園では、常に誰かが貴女の側にいるでしょう。それに、警備の目のない所に行かないように言われてて、それを必ず守っているわ。そんな事起こりようがないし、もし起きたら絶対に関係者に周知されてるはずよ」
そんな事情があったの?! わたくしは聞いてないわよ。マズイわ……そうだ。
「マリアンヌ様がそれらを行ったのは、学園の外のお茶会での話なの」
「余計あり得ないわ。貴女が出るお茶会にはほとんど私も参加してるし、他の友人も必ずいる。侍女もついている。未来の王太子妃を一人にして、何度もそんな加害をさせる事なんて……」
「お兄様とのお茶会よ! ……彼女はお兄様と婚約してたから。お兄様と交流するために、度々……お茶会と称してうちに来る度に、陰で暴力をふるわれていたの」
「ユーリス様が、家にいらした婚約者を放置して、貴女と二人きりにして、そんな事が……ねぇ……」
イザベラの目は、明らかに不振がっていた。
魂が入れ替わってる、だなんて思いつかないだろうが、「何故嘘を吐いたのか」「何故こんな事を言い出したのか」「何故知らないのか」と疑問を積み重ねたらぼんやりと見えてきてしまう事もあるだろう。
「イ、イザベラの忠告は分かったわ。わたくし、少し疲れていたみたい。これからは言葉に気を付けるわ。急用を思い出したからもう行っていいかしら」
「……ええ」
その場を立ち去るわたくしの背中に、イザベラの視線が突き刺さるのを感じる。
わたくしはそれに必死で気付かないふりをするしか出来なかった。
「ユリア、昨日も来てくれたけど、生徒会の仕事は大丈夫なのかい?」
「ええ。アシュベル殿下のお手伝いがしたいの。ぜひさせてください」
「まぁ、私は嬉しいから良いけど。イザベラと喧嘩でもしたのかな」
「ちょっと……そんなところです」
わたくしはほんの少し目を逸らした。
イザベラとは、昨日のあれから気まずい空気になってしまってなるべく顔を合わせないようにしている。と言うか、あちらが一方的にわたくしのやる事なす事に目くじらを立てる感じだった。
ちょうど、外の天気はわたくしの憂鬱な気持ちを写すように雨が降っている。嫌ね、気持ちが滅入るわ。ちらりと外に目をやると、タイミングよく雷まで落ちた。
「ユリア、雷が平気になったのかい?」
「へ……」
言われてから思い出した。そうだわ、あの女、たしか雷をすごく怖がってた。学園にいる時に天気が崩れて、真っ青な顔をしてイザベラに縋りついていた事があったわ。
「も、もちろん。わたくしだって、いつまでも子供ではありませんもの」
「懐かしいな。あれは君が六歳の頃だったかな、遠乗りでレオンハルトとユーリスが離れたタイミングで突然の雷雨にあって。雨宿りする私の腕の中で怖がって泣いてしまって」
わたくしは一瞬固まり、目を伏せた。何よその話、見た事ないわ……少なくとも、日記には書かれていなかった。恥ずかしい話だから、わざと書かなかったの? 何て使えないのかしら。わたくしは内心で焦りながらも、平静を装って答えた。
「あ、ええ……覚えていますわ。あの時は本当にありがとうございました。殿下の優しさに救われましたわ」
しかし、アシュベル殿下は不審そうな顔をした。
「君は……この話をするといつも恥ずかしそうにして、怒っていたのにどうしたんだい?」
「……っ、……大人になりましたから、それも良い思い出だと思い直しましたの」
わたくしは動揺を隠せず、視線を逸らした。アシュベル殿下に、絶対に不審に思われたわ。彼の目に不信の色が浮かんでいるのが分かる。これ以上、日記に書いてなかった思い出の話をされたらどうしよう。
恐ろしくなったわたくしは、学園長室を逃げるように後にした。
もう、心が休まる時間はレオン様と過ごすひと時しかないわ。早く会いたい。いいえ、今すぐ結婚してしまいたい。誰にも奪われない安息の地位が欲しい。
「ケリー、甘いものを用意してちょうだい。チョコレートがいいわ」
「……あの、ユリア様」
学園から帰宅してすぐにそう命じたのだが、ケリーは動こうとしなかった。
「その……また、後から無理な食事制限をされては体に悪いですし、少し……日頃から甘いものをお控えになってはいかがでしょうか……」
言葉を選びながらも、今のわたくしにとって受け入れがたい話をするケリーが、憎らしい敵に見えた。お前もわたくしを追い詰める気?!
「うるっさいわね……」
低く、冷えた声が出た。わたくしは次の瞬間、制服の上着に手をかけて後ろに立っていたケリーを突き飛ばしていた。
「いちいちわたくしの食べるものに口出ししないでよ! あんた、何様のつもり? ただの使用人でしょ!?」
ケリーは床に手をついたまま、とても驚いた顔でわたくしを見上げた。
しまったわ……過酷なダイエットをして空腹に苛立っていた時も、手だけは上げなかったのに。
「何よその顔。いいのよ、食べた分ちゃんと後から減らすわ。夕食を調整するように厨房に伝えるとか、貴女が気を効かせればいいでしょう」
マズイ、とは思った。ケリーはわたくしの、「ユリア」の事を心から思い慕っている様子だった。もう少しフォローした方が良いかしら。
そう思ったときにはもう遅く、ケリーは何も言わずに頭を下げると、静かに部屋を後にしていた。
……突き飛ばすつもりじゃなかったのよ。ただ、学園でも上手くいかなくて、ちょっとイライラしてて。
何かが喉に詰まったようで、わたくしは小さく唇を噛んだ。でも、大袈裟よね? だってあのくらい、「マリアンヌ」の侍女や世話係なら当たり前だったわ。ううん、跡が残らない仕置きにしてやった分、随分軽いと思う。
「ユリア。貴女の最近の振る舞いについて、大切な話があります」
上手くいかない憤りをベッドのマットレスにぶつけていると、誰かが部屋に勝手に入って来た。怒鳴りつけてやろうと思ったら、立っていたのはテネブラエ夫人で、わたくしは勢いを呑み込むしか出来なかった。
「はしたない。ベッドで手を振り上げて何をしていたの?」
「いえ……ちょっと……そ、それよりお母様。ノックをなさってください」
「しましたよ」
部屋の中央に設置されているソファセットを目で示されて、わたくしはバツが悪くなったまま夫人の向かいに腰かけた。嫌だわ、何かお説教があるのかしら。
わたくしは先ほどあった事を思い出した。信じられない……ケリーのやつ、お母様に告げ口したのね?! 手を上げたのは悪かったわ、って思ってやってたのに!
「違うわ、お母様。ケリーが何を言ったかしらないけど、大げさに言ってるだけよ。さっきのは、たまたま手が当たってしまっただけなの」
「手が当たった? 何を言ってるの?」
お母様は眉を寄せた後、何かに気付いたように目を吊り上げた。
「貴女、ケリーに暴力をふるったのね?!」
しまった、その話じゃなかったの? わたくしは余計な事を言ってしまったのを悟った。ちゃんと聞いてからにすればよかったわ……。
「ち、違うわ。そんな大げさな話じゃなくて……」
「……この話は後でしましょう。いいですね」
わたくしは憂鬱な話が二つに増えた事に、うんざりとして下を向いた。けど、それじゃなかったら何の話かしら……。
「私がしに来たのは、貴女がレオンハルト殿下とおこなった、婚前にあるまじきふしだらな振る舞いの事です」
「え……!」
どうして知っているの。そう叫びそうになって、わたくしは慌てて言葉を呑み込んだ。頭から冷たい水を被せられたかのように、全身にゾワリと鳥肌が立つ。
だって、誰にも言ってないのに。そうか、今度こそケリーね……?!
「誰がそんな事を……!」
「そんな事はどうでもよろしい。この館で起きた事が、どうして女主人の私の耳に入らないで済むと思ったのかしら」
冷たい目でこちらを見据えるテネブラエ夫人の方を、わたくしは見れなかった。
「貴女は、どれほどふしだらな事をしたのか分かっているの!? 婚約者とはいえ、婚前に男性と肌を重ねるなんて貴族の娘として恥を知りなさい!」
どうしよう、どうしよう。何をしたかバレてしまっただなんて。最後までしてないと言ってみようか。いいえ、きっと見抜かれてしまうわ。それに、もし最後までしてなかったとしても怒られる事は変わらない。
「……どうして、こんな事をするような子になってしまったの」
しばらく何も言い訳が思いつかなくて俯いていると、わたくしの前でテネブラエ夫人が泣き始めた。
その言い方が何だか酷くあてつけがましくて、嫌味に感じる。
いえ……そうよ……別に、問題はないんじゃなくって? だって、レオン様は喜んでたのよ。誘ったのはわたくしだけど、レオン様から求められたと言っても差し支えないだろう。だって、その気じゃないなら最後まで出来なかったはずでしょ。なら、王族の求めなら断れないじゃない。
それに……わたくしがレオン様と結婚したら、この人は臣下として頭を垂れる事になるのに、どうしてビクビクしてたのかしら。
「別に……大した問題じゃありませんわ、お母様」
「ハァッ?! あ、貴女、何を考えているの?!」
この問題について悟りを得たわたくしは落ち着いて喋り出した。テネブラエ夫人は真理に未だ気付かず、血相を変えた表情で固まっているのが滑稽だった。
「だって、結婚するのよ、わたくし達。なら、別にいいじゃない」
「良い訳がないでしょう! 何故そんな事を……」
「わたくしはレオン様に嫁ぐでしょう? 初夜がほんの少し早くなっただけだわ。それこそ、結婚を早めれば良いじゃない」
何故こんな事が分からないのか。わたくしは言い聞かせるように喋った。そうよ、わざわざこんなに怒られるような事じゃないわ。近い将来必ずそうなるのだから、そのタイミングがほんの少し早まっただけ。
むしろ、若く美しい時間は限られているのだから、少しでも早く楽しみ始めた方が良いとすら思う。そうよ、だから昔はもっと結婚年齢が若かったのね。
「ユリア!」
わたくしがそう言うと、テネブラエ夫人の声がまるで雷のように鋭く響いた。あまりの剣幕に、びくりと肩が震える。だけど、それでもわたくしは考えを変えようとは思わなかった。わたくしは何も悪い事はしていない。愛してる人と愛し合っただけだ。
「いいじゃない、ですって……?」
テネブラエ夫人の声はわざとらしく震えていた。思い通りにならないからって、何だかみっともないわ。
「……あなた、本気でそう思っているの?」
「ええ。それともお母様は嫉妬なさってるの? 王家に望まれて嫁ぐ若くて美しいわたくしに」
勝ち誇った顔をでテネブラエ夫人を見ると、彼女は唖然とした表情でわたくしの方を見ていた。
「ユリアは……私の娘は、こんな事を言う子ではなかったわ」
ああ、やめてよね。中年の女性の涙なんて、誰も見たくないわ。
わたくしはうんざりして、視線をそっぽに向けた。早く終わらないかしら。あとどれくらい喚くのを聞いてたらいいの?
意識が完全に他所に向いたわたくしの耳に、テネブラエ夫人の呟きが途切れ途切れに聞こえる。大した事を言っていると思えなかったので、わたくしは聞き流していた。
「ユリアは、こんなふしだらな真似はしない。そんな事も言わない。使用人にだって絶対手を上げないわ。それだけじゃない。人への感謝の心を失って、口を開けば誰かの悪口と自慢話ばかり。健康にあんなに気を使っていたのに、ブクブク太って運動もしなくなった……」
「はぁ?」
わたくしの悪口を言い連ねるテネブラエ夫人があまりに無礼で、わたくしは眉を吊り上げた。何のつもり?
怒鳴りつけてやろうと思ったわたくしは、しかし真正面から睨まれて息を呑んで固まった。
「あなた、ユリアじゃないのね」
涙に濡れた、確信を持った強い光を宿す瞳に射抜かれて、わたくしの喉はヒュッと小さい音を立てた。
あまりの驚きと、恐ろしさに、指先から体温が遠ざかる感覚がする。
「そ……そんな訳ないじゃない、お母様。見て、ほら、わたくしがユリア以外の誰に見えるの?」
声は震えていた。しかし、必死に取り繕うわたくしの言葉を、テネブラエ夫人は一切聞こうとしない。
「ねぇ……本物のユリアは、私の娘はどこにいるの?! 言いなさい!!」
「違うわ……わたくしがユリアで……」
「お前は私の娘なんかじゃない!」
この細い体のどこにこんな力があったのか、掴みかかってきた指に腕と肩に爪を立てられて痛みが走る。
どうしよう、何を言えば、どうやって誤魔化せば、混乱する頭の中。夢ではないかと思うくらいにふわふわする、夢であればいいのにと思うくらいにクラクラする、その痛みがわたくしを現実に縫い止める。
わたくしは言葉を失い、ただ震えるしか出来なかった。手に入れたと思った幸せが、わたくしの中で、全て崩れ落ちていく、そんな音がした。