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はぁ、レオン様とお会いする時間、毎回すぐ終わってしまうわ。早く卒業して、レオン様の妃になりたい……。
城からテネブラエの屋敷に帰宅したわたくしは、鬱々とした気分で自室のソファに身を投げ出していた。明日からまた一週間学園に耐えないとレオン様に会えないなんてつらすぎるわ。
「あら、ケリー遅かったわね」
「……ユリア、貴女これはどういう事かしら?」
「お、お母様……」
声の方に振り向くと、ワゴンを押すケリーの後ろにテネブラエ夫人が立っていたのだ。
帰宅後、学園生活の事を考えると憂鬱になったわたくしは、甘いものが欲しくなった。ケリーに、甘いものとお茶を用意するように頼んでいたのだけど、戻って来る時に見つかってしまったらしい。
ワゴンの上に用意されたクッキーと紅茶、ジャムとシュガーポットを改めて目を吊り上げている。
「あなた、甘いものは控えますと自分の口で言ったわよね?」
「いえ……今日は疲れたから、特別にほんの少しだけ甘味をいただこうと思って」
「どこがほんの少しなの? お茶にだって、頭が痛くなりそうなくらいジャムと砂糖を毎回どっさり入れて。体に悪すぎるわ」
目を吊り上げるテネブラエ公爵夫人の言葉に、わたくしはうんざりした。優しいお方だと思っていたのに、とんでもない。最近はすっかりうるさくなってしまった。
「生活習慣に気を付けるように言ったわよね。運動だって、再開すると言ったのに」
「違いますわ……その日は朝から頭痛があって、無理をしないでおこうと思って、違う日から運動を再開しようと思っただけで」
「それからも、結局していないでしょう。あなた、自分がどれだけ太ったかちゃんと分かっているのかしら?」
わたくしは悔しくなってぎゅっと唇を引き結んだ。酷いわ、ちょっとお菓子をいただこうとしただけなのに、ここまで言われるなんて。太ったと言っても、少しじゃない。
「……でも、わたくし、元々細すぎたくらいですし、まだ健康的な体重の範囲内に収まってますわ」
言い訳がましく口に出すと、テネブラエ夫人の怒りはさらに激しさを増した。
「自分自身を律する事も出来ない人に、王太子妃が務まりますか! ドレスどころか、制服まで着れなくなって仕立て直す貴族令嬢なんて聞いた事がありませんよ!」
最近、仕立て直した制服のスカートのホックもきつくなってきていて、余計に焦っていた。でも、それを母に面と向かって言われるのは、やっぱりムッとするわ。
でも、ユリアの、アバラの骨が浮いているようなガリガリの体の方が絶対不健康に見えると思うの。今のわたくしは健康的な肉付きになっただけよ。それに、殿方は触り心地が良い方が好きでしょうし。
何より、レオン様の態度に変わりはないもの。いいえ、前のユリアと接する時よりも、わたくしになってからの方が態度がより親密になってきている気がする。距離も近い。つまり、レオン様も肉付きが良い方が……今のわたくしの方が好きなんだわ。
しかし今日は、口で「分かりました、少し運動して甘いものを控えます」とそう言ってもテネブラエ夫人は引き下がってくれなかった。
「……ユリア、どうしちゃったの? 自分のために、体調管理と運動をして、栄養にもあんなに気を遣っていたでしょう。せっかく今まで無事に過ごせてきたのに、どうしてこんな、今までの努力を無駄にするような真似を……」
お説教から一転、泣き落としのような声色になって、わたくしは疲れた気持ちでいっぱいになった。
「わたくし、今まで頑張った分ほんの少し気が緩んでいるみたいですわね。言われた通り、今日は甘いものはやめて、部屋で軽い運動をして過ごしますわ。ケリー、用意してくれたお菓子は、使用人の皆さまで分けて召し上がって」
天使のような微笑みを意識してそう笑顔で告げると、わたくしは二人を部屋から追い出した。全く、ままならない事ばかりだわ。
しかしわたくしにとって、更に受難は続く。
「……今、何とおっしゃったのですか?」
「魔術師塔でマリアンヌ君と久しぶりに顔を合わせたんだ。元気そうにしていたよ」
アシュベル殿下から聞いた話は、私を酷く驚かせた。
マリアンヌが、何ですって? 魔術師塔に?
「最近、魔術師として勉強し直すために魔術師塔に出入りしているらしい」
「魔術師塔はお守りを押し付けられたのですね、可哀そうに」
面白くなさそうにそう返すイザベラの言葉を聞いて、わたくしは納得した。
そうよね。わたくしだって、これ以上癇癪で使用人を傷付けるようなら魔力封じの枷を付けるだなんて言われた事があったもの。今のマリアンヌを持て余して、魔術師達に面倒を押し付けてるんだわ。絶対にそうよ。
「いや、彼女は平民の魔術師に交じって下働きをしながらしっかりと学んでいたよ。慣れない仕事をする傍ら、研究までしていた」
「あのマリアンヌが? 嘘ですよね?」
イザベラは信じられないという表情で呟いた。
そうよ、あり得ないわ。真面目に勉強して、他人にこき使われて、研究をしているなんて。最高に幸せな人生を全部奪われてあんな環境にしてやったのに、そんな事あってはならない。
「真面目に過ごしているようで、知り合いの魔術師は褒めていたよ。私も少し話したが、驚くほど穏やかで礼儀正しくなっていた」
「そんな……いえ……改心したのなら、良い事ですけど……」
「ああ。退学と言う残念な結果にはなったが、彼女が更生したのならこれほど喜ばしい話はないと思う」
嘘よ、そんな事。しかしアシュベル殿下の話は更にわたくしを苛立たせた。ふざけないでよ、わたくしが魔術師塔に入りたいと言ってやった時は、まずは卒業して話はそれからとか言ってきたくせに……。
「どうしてあんな女が……」
思わず、憎しみを込めた言葉が口から漏れてしまった。
マズい、そう思った瞬間に慌てて顔を上げるが、しっかり二人には聞こえてしまったようだった。
私の今の発言に、二人は戸惑った顔をしていた。
「ユリア、君ならマリアンヌ君の更生の兆しを喜んでくれると思っていたのだが……」
「い、いえ、わたくしも喜ばしい話だと思いますわ。でも、わたくしを殺そうとした方ですから、本当に改心したのか、演技ではないのかしらと怖くなってしまって」
慌てて言いつくろうと、イザベラは「たしかに」とわたくしに同意するような表情を見せた。しかし、アシュベル殿下はそれでは納得されなかったようで、ほんの少し表情を暗くする。
「その事件については、きちんと調べた上で傷害事件として終結しただろう。殺人未遂ではない。あまり事実と異なる事を言うのは良くないよ、ユリア」
「……申し訳ありません。あの日の事があまりに怖くて、つい。でも気を付けますわ」
怖がっている演技をしながらも、わたくしは内心怒り心頭だった。どうして騙されてるのよ。絶対に、また演技をしているに決まってる。だってあの「マリアンヌ」になって、周囲を呪わないでいるなんて無理だもの。
そうやって周りを騙して、わたくしに何かするつもりなんだわ。どうしてそれが分からないのかしら。
さらに、不愉快な話は学園の中にまで侵食してくる。
今のマリアンヌが魔術師塔に出入りしているという話はあっという間に広がっていったのだ。
「ねえ、聞いた? マリアンヌ様、退学になってから魔術師を目指してるらしいわね」
「ええ、しかも痩せて、まるで女神のように美しくなったって噂を聞いたわ」
「それだけじゃないわ。とても優しくて、気配りの出来る令嬢になっているって話よ。兄が魔術師塔にいるんだけど、聞いた時誰の話? って全然分からなかったわ」
「ホント?」
何と、今のマリアンヌは痩せて美しくなっているのだという。
どういう事? わたくしだった時は、何をしても一切体重が減らなかったのに……。強大な魔力を維持するために常にお腹が減っていたし、むくみも酷くてお水だけを飲んでいるのに太ってしまって。
その噂話を耳にしたわたくしは、信じられない気持ちでいっぱいだった。魔術師塔で勤勉に働き研究までしている話もそうだが、以上に、痩せたとか美しいとか、今のマリアンヌが賞賛されているのが耐えられない。
「兄はすっかり彼女のファンになってしまって。私から学園であった事件の話を聞いたんだけど、『それだけ愛情深い女性という事なんだろう。だったら次の恋で忘れさせて差し上げたい』だなんて言ってるのよ」
「ええ……? あなたのお兄様って、若くして魔術師として認められただけじゃなくて、在学中も令嬢達から人気だったわよね? そんな方が……」
「ええ。マリアンヌ様そんなに変わったのかしらね。私は半信半疑だけど……」
わたくしは、中庭でそんな話をする令嬢達の座るベンチからすっと離れた。
これ以上、怒りを表出させずに聞いていられなんかしない。あの女が、今のマリアンヌが褒められている言葉なんて、一言でさえ聞いていたくなかった。
どうして……どうしてユリアは戻ってきたの? 何故わたくしの幸せを脅かすの? どうしてそのまま惨めでいてくれないの?
わたくしは心の中で叫んだ。酷い。酷すぎるわ。犯罪者としての汚名を受け入れて、大人しくしてくれればいいものを。せっかく、命までは奪わなくてもいいかしらって思ってあげていたのに。
さらに耐えがたい事に、その後も現在のマリアンヌについての話はわたくしが耳に入れたくないと思っていてもそこかしこで聞こえるようになってしまったのだ。それは、麦畑を一斉に撫でるように人々の心を揺らしていく。まるで酷い嵐の前触れの、気味が悪い風のように。
「魔術師塔で働く父がマリアンヌ様の事を褒めてたんだよ。美しいのに謙虚で真面目な娘さんだって。学園で起こった事件の事を話したんだけど、何か誤解があるんじゃないか、なんて言うんだよ」
「君のお父上は弟子が何人もいる魔術師だよね」
「ああ。指導者もしているから、人を見る目はある方だぜ」
「ねぇ、退学してからのボヌフォワ公爵令嬢とお会いしたことある? びっくりするくらい綺麗になってたわよ。私、父に用事があって魔術師塔に行ったついでに見て来たの」
「ええ……あの方、その……すごくふくよかだったわよね?」
「ううん、見違えるくらい痩せてたの。それに、ニキビがなくなったらとんでもない美人よ」
「そうなの?!」
「ええ。まだ丸みは残ってるんだけど、だからこそ豊穣の女神のような美しさよ」
そんな事、あってはならない。おかしいでしょう、未来の王太子妃を殺そうとした女よ?
たしかに、中身は違うけど、「そういう事をした」って過去があるんだから、もうどうしようもないはずでしょ?
「ねぇ、エリオット様。マリアンヌ様が魔術師塔に出入りしてるってお聞きしたんですけど、本当ですか?」
「ええ。今の姉は心を入れ替えて、家でも魔術師塔でも穏やかに過ごしています」
薄っすら笑みすら浮かべてそんな事を言うエリオットに、わたくしは怒りで頭がどうにかなりそうだった。姉のわたくしの事を敬わなかったくせに、どうして。わたくしを、姉を嫌っていたはずでしょう?
「皆さま、マリアンヌ様に好意的なのに驚いてますわ。あんなに恐ろしい事件を起こした方ですのに」
「その節では、ユリア様にお怪我もさせて、大変ご迷惑をおかけしました」
王太子妃を殺そうとした罪人だ、と周りがあの女を責め立て攻撃しないのが、わたくしは不満だった。エリオットだって、わたくしを……この体になったわたくしをあんなに心配していたくせに。
「けど今の姉は改心して、まっとうな人生をやり直しています。俺はそんな姉の事を応援しています。被害に遭ったユリア様はご不安でしょうが……俺も家族もしっかり見張ってますから、今の姉を見てやってくださいませんか」
「……!」
そう言うと、エリオットはわたくしに深々と頭を下げたのだ。
どうして……どうしてよ。あんなに姉が、わたくしが嫌いだと言っていたじゃない! 家族である事が恥ずかしいって、汚物でも見るような目を向けて! なのに!
「そうね……マリアンヌ様の振る舞いが演技じゃなくて、心を入れ替えての事であるといいわよね」
こんなの間違ってる。あの女は誰よりも惨めでみんなに嫌われている、そうでなくちゃならないのに。
怒りで震えそうになる声を何とか抑えて、わたくしはエリオットにそう告げた。