不調
わたくしに本来与えられるべきだった「幸福」を謳歌して、もう三ケ月。レオンハルト殿下は卒業されて、今は王太子としての執務に専念されている。今は年度を挟んだ短期間の休暇が終わり、わたくし達も新しい学年になった。
一刻も早く結婚したいから、レオン様のご卒業に合わせてわたくしも学園に通うのをやめて籍を入れたいと言ったのだけど、それは周りに認められなかったのが残念だわ。そう伝えたらレオン様は喜んでくださったけど……わたくしは本気で言いましたのに。
レオン様がいなくなった学園生活は、張り合いのない色あせたものになっていた。励みがないから、授業にも身が入らないし有象無象に良い顔を向けるモチベーションも維持できない。
ユリアとしての仮面を被り続ける事はとても疲れる。誰もがわたくしを頼って、負担をかけるのだもの。ちょっとした事、いいえ、至極当然の不平不満でさえ、少しでも口にすれば「ユリア様がそんな事をおっしゃるなんて」と驚いた顔をされてしまう。
王太子妃教育では何度も「以前は出来ていらしたでしょう」と不思議そうにされる。何度魔法で顔の皮を焼いてやろうかと思ったか。
嫌な事ばかり。学園の授業だって、そう。試験の結果が「前回から急に下がった」とあらゆる教師から心配と言う名の圧力を受けたのだ。……屈辱だわ。
わたくしは本当は優秀なのよ。ただ、勉強をする意義を見出せないからやらないだけで。だって、本に書いてある事や調べれば分かる事なんて、周りに優秀な者を置いて上手く使えばいいじゃない。王太子妃になるわたくしは、わたくしにしか出来ない高貴な活動をするべきだわ。外交の場でレオン様の隣で微笑んで諸外国から「何と素晴らしい王太子妃か」と称賛されて国益を産むとか、パレードで民衆に手を振って国を盛り上げるとか。
あんな、紙で書いて答えるだけのものでわたくしの価値なんてはかれないのに。丸暗記すれば満点がとれるようなものに力を割くのが面倒だけだったから、しないだけよ。
わたくしに勝る事がこれしかないからわざと意地悪をしているのだろう。試験の点数が悪かったからと教師達はとんでもない量の課題を命じて来たのだ。
わたくしは出来ないんじゃない。やらないだけ。なのにあいつら……何が、「王太子殿下の婚約者を補修に参加させるわけにはいきませんから」よ。わたくしが王太子妃になったらあいつら全員クビにしてやるわ。
当然、課題なんてやらなかった。わたくしは、「あの女」に襲われて、殺されそうになった事件がトラウマになっているの。そのせいで夜はよく眠れないし、あと、王太子妃として学ぶことが多くて大変だからそんな時間はないっていう事にしたらやっと引き下がったわ。全く、どうして未来の王太子妃の言う事がすぐ聞けないのかしら。
しかもこの体はポンコツで、ろくな魔力もなく、ちょっと魔法術を使うと胸が痛み息が苦しくなって動けなくなってしまう。だから以前と違って素晴らしい魔法術で賞賛を受ける機会もなくなってしまった。
生徒会の仕事だって、以前は添えられいる書類を見て、丁寧に調べられたその内容を見て判断だけすれば良かったのに、最近はそうもいかなくなっている。整えた状態で渡すように言うと、「以前はそれをお調べしていたのがユリア様だったじゃないですか」と生徒会補佐達に戸惑った顔で言われて腹が立った。やらせようとしても、こんな重要な調査は平民でしかない自分では出来ない。なんてやる前から拒否してくる。
さらにある日、生徒会室でまた面倒な書面仕事をやらされていると、エリオットが私に声をかけてきた。
「ユリア様。先日納品された音楽室の備品についてなんですけど、不備が多いようなんです。最初から半分壊れたようなものが混じっていたとか」
「あら、質の悪い業者を使ったのね」
わたくしがそう言うと、エリオットは怪訝そうな顔をした。
「その業者の選定は、ユリア様がされましたが……」
「あ、あら? そうだったかしら?」
「はい。それに、内容に対して請求額が多すぎます。学生達の学習のために質の良い楽器を増やそうと言う目的でしたが、それにしても何故こんなに高額になっているのですか? 明細は確認されましたか?」
エリオットの言葉に、胸がざわつく。何よあんた、敬うべき姉に向かって。いえ、わたくしは今はユリアなのだったわ。そう自分に言い聞かせて、深呼吸をする。
わたくしは記憶を思い出した。
確かに、あの備品は新しく友人になった子の親……ロジェ男爵家の商会を通じてわたくしが手配させたものだった。あの男爵、結構使えると思ったからこそ仕事を任せてやったのに、わたくしにこんな恥をかかせるなんて……!
「な、何かの間違いではないかしら。だって、良い楽器というものはどうしても他の人の手を渡って来たものになるし、そうすると新品では持っていない問題も多少あると思うのよね」
わたくしはそう反論したが、エリオットは納得していない様子だった。
「納入されたものは、歴史ある楽器なら仕方ない、で済ませられない問題が多数あると連絡が来ております」
「でも、わたくしの目には問題があるようには見えなかったわ」
「……では、これは俺が対応しますね」
エリオットの言葉に、私は苛立ちを覚えた。だったら最初からあんたが代わりに片付けておきなさいよ。
……それにしても何なのかしら、この態度。こいつ、「ユリア」が好きなくせに、どうしてこんな意地悪を言うのかしら。あんたが昔ユリアが初恋だってお父様と話してたのを聞いた事があるのよ。惚れた女が困ってるんだから、むしろ率先して間に入って問題解決するべきでしょう。
この体がレオン様のものになってしまうから? 自分のものにならないなら手ひどく扱うって事? なんて嫌な男。
でも、今の体でそんな指摘はできないし。何故知っているのだと思われてしまう。わたくしは仕方なく、エリオットに頭を下げると言う屈辱的な行いをした。
「先日も、ユリア様の紹介で新しく取引を始めた派遣業者から来た清掃員が起こした問題があったでしょう」
「……そんな事もあったかしら」
確か、学園の中で拾った落とし物を盗んだとかだったっけ。あの時はとても面倒な事になったわ。わたくしまで責任を負わされそうになって。全く理解しがたいわよね、盗んだのはわたくしじゃなくて、その掃除婦でしょう?!
巻き込まれて酷い目にあったのはこちらだ。それに、アシュベル殿下にまで叱責された。彼がユリアに対してあんなにイライラしてたのなんて、初めて見たわ。
「それらを含め、もう少し慎重にご検討をお願いします」
「……分かってるわ、ごめんなさい。次は気を付けますわ」
うるさいわね、そう言いたいのを我慢して、わたくしは寛容にそう答えた。
どうして私ばかりが責められなければいけないの? 凡人でも出来る事はそいつらが代わりにやればいいじゃない。
「ねぇ、ユリア。ちょっと話したい事があるのだけど」
「なぁに? イザベラ」
やっと話を終えて出て行ったエリオットにわたくしは一息つくと、ちょうどいいタイミングで、イザベラが声をかけて来た。お茶でもいれてくれるのかしら。
「貴女、先週末、急に私と出かける事になったから、そちらには伺えなくなったって言ったんですってね。カザリーさんとモエナ様に」
「あ……それは、その……」
マズイわ。うっかり同じ日に別の方の予定を入れてしまって、どちらかを断るのは角が立ってしまうからと思ってイザベラの名前を使ったんだったわ。
怒っている事が分かる顔でまっすぐ見つめられた私は、言葉に窮した。イザベラは、普段はわたくし……「ユリア」の代わりにはっきりと物を言ってくれたりと大変便利なのだけど、ひとたびその怒りをこちらに向けて来るととても面倒くさい事になるのだ。
「その場では話を合わせて謝罪しておいたけど。ねぇ、どうして私が、後から予定に割り込んだ非常識な人って目で見られないといけないのかしら」
「違うの……」
「何が違うのよ?」
侯爵令嬢のイザベラの名前を使えば納得して引き下がると思ったのに、まさか本人に確認されてしまうなんて。
「とりあえず。もう二度と、勝手に私の名前を使って嘘を吐かないでくれる?」
「嘘なんて吐くつもりじゃ……」
責められて弱り切ったわたくしは力なく呟いた。だって、どちらかを断ってわたくしが嫌われるわけにはいかなかったのに。仕方がないじゃない。どうしてここまで言われないといけないの。
「最近の貴女、少し自分勝手すぎるわよ」
いつもより早く遠ざかるイザベラの足音を聞きながら、わたくしは怒りに震える手をもう片方の手で握りしめた。
理解の足りない愚か者が、わたくしの周りにまた増えてきてしまっている。わたくしはいつでも追い詰められて、迫害されている。どうして。
最近では、唯一完璧な「幸せな時間」と呼べるのはレオン様との語らいの時間だけだわ。
週末、わたくしは王太子と婚約者のために整えられた城の庭園で、愛しいレオン様と逢瀬を行っていた。
学園を卒業なさってからは、週に一度、城で顔を合わせる時間が作られている。学園で顔を合わせる事がなくなってしまったので、とても物足りない。週に一度だなんて少なすぎるわよね。ここには、レオン様と幸せに過ごすわたくしを羨む観衆もいないし。
わたくしが膝に手を置いて顔を覗き込めば、レオン様はくすぐったそうに笑いながら、そっとわたくしの手を取ってくれる。その手はとても大きくて、温かくて、……優しい。愛されているという事がとても強く実感できる。
「最近、学園の方はどうだい? 新しい生徒会として動き始めて忙しいだろう、疲れていないか?」
そんな風に気遣ってくださるから、わたくしはわざと少しだけ肩を落として見せた。
「レオン様を学園で顔を合わせる事が無くなって寂しくて、それが一番つらいですわ」
するとレオン様は、ふっと愛おし気な笑みを浮かべて、握ったわたくしの手の甲にキスを落とすのだ。
「ごめんよ、ユリア……俺も、君の姿がない所で執務だけをしている日々は、なんとも味気ないものだと思うよ。ああ、早く結婚したいな」
――その言葉だけで、世界の全てから赦されるような気がした。
学園ではいろんな事がある。生徒会の事だって、授業だって、うまくいかないことばかり。わたくしを快適に過ごさせてくれない愚かな者達の無理解に悩まされて、いつもわたくしは耐えている。
けれど、こうしてレオン様と過ごす時間があるだけで、わたくしはまた明日を生きていけるの。
大丈夫。だって、レオン様はわたくしだけを見てくれているのだから。前のユリアじゃない。今のわたくしに愛の言葉を囁いているのよ。
「それと、イザベラから手紙で相談されたんだけど。……何か友人関係でトラブルがあったんだって?」
例の件だわ。わたくしは内心舌打ちをしたかった。レオン様に告げ口するなんて。
「はい。……わたくし、イザベラに甘えすぎていたみたいで。ワガママだって、叱られてしまいましたの。ご迷惑だったのでしょう」
「……そんな事が」
「反省しましたわ。わたくし、頼りすぎてたんですね……」
わたくしは顔を上げて、弱々しい笑みを浮かべて見せた。健気に、守ってあげたくなるように。自分の非を認めつつも悲しそうに。イザベラの心が狭いのではないかと、そう感じてくれるように言葉を選ぶ。
「イザベラも手が一杯だったんだろう。俺が傍に居られたらな……」
「いいえ、わたくしレオン様にもご迷惑はおかけしたくないですわ」
「俺にはいくら頼ってくれたっていい。迷惑なんかじゃない、頼りにしてくれたんだって、嬉しく思うよ」
「まあ、レオン様……」
手を握って見つめ合ったわたくし達の瞳には、お互いしか映っていなかった。わたくしを愛してくれる、完璧な王子様。そうよ、これが正しい世界のあり方なの。
……なのに、どうしてこんなに胸がざわめくのかしら