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「すいません、浴室の魔道具からお湯が出てこなくて……」
「ああ、これは魔石の魔力が切れてしまってるのね。じゃあ今日は、浴槽に張るお湯は私が出してしまうわ」
申し訳なさそうな顔をしているミシェルを安心させるように「大丈夫よ」と声をかける。この体はとても強い魔力で満ちていて、このくらいのお湯を出す事は何でもない。
私の本当の体はとても虚弱だったから、きっと同じ事をしたら、それだけで心臓の鼓動は乱れ、その場に屈みこんでしまうだろう。
「お嬢様は、聞いてた話と違って、ほんとお優しいですよね……」
思わずと言ったようにぽつりと漏らしたミシェルは、そう口にした後途端に慌てだした。
「いえ! あの、お嬢様が優しくないって言われてたとかじゃなくて! あたしはお嬢様がお優しいって言いたかっただけで!」
「大丈夫よ、隠さなくて。以前の私は態度が悪かったから、苦手に感じてた方は実際多かっただろうと、自分でも思うもの」
それを聞いても怒り出す事も、悲しむ事もない私を見てミシェルは不思議そうな顔をした。
「ええ……? そんな、信じられないです。だってお嬢様は、満足にお世話が出来てない私にもこんなに優しいのに」
「それがね、そうじゃなかったのよ」
実際別人なの、なんて言えないから私はまた「心を入れ替えた」という設定の話を彼女にもした。
「私……このお屋敷に最近雇っていただいて。本当は、お嬢様の侍女を務める事が出来るような知識も経験もないんです。お嬢様のお世話係の役目も、他の人は誰もやりたがらなくて、でも私はお給金に特別手当が付くって言われたので、それだけを目当てに受け入れました」
「そうだったのね」
私は何となくこの家の事情を察した。
マリアンヌ様のお世話は、特別手当を出すと言われても誰も手を挙げなかった、それくらい……嫌われていたのね。だから、侍女がいなかったんだわ。
「だから先輩達にとても驚かされたんですけど、そうして聞いたマリアンヌ様の話がほとんどデタラメで良かったです」
笑顔のミシェルに、私は騙しているような、申し訳ない気持ちになってしまった。
「……そのお話を貴女にして心配を促してくれた先輩方は、きっと私に実際に酷い事をされたのだと思うわ。心を入れ替えたから、今の私が穏やかに見えるだけで」
「そうですかねぇ。あたしには、マリアンヌ様がそんな事をするようには見えないです」
ミシェルが今の私に好意的な態度を示していることに驚きを感じていたけど。
この屋敷に来て間もなかったからなのね。世話係になるまでマリアンヌ様に実際お会いしたことはなかった。だから、今の私の事をフラットな目線で見てくれたんだわ。
この体になってからというものの、皆に嫌われ、厳しい言葉をかけられ続けていた私にとって、戸惑いながらも普通に接してくれるミシェルの存在はとても有難かった。「お湯加減はどうですか」と、声をかけてもらえる。そうした小さな親切は、誰でも当たり前に向けてもらえるものではない、とても尊いものなのだという事も初めて知る事が出来た。
翌日。バリーを通じて、お母様から庭に出る許可を得た。もちろんミシェルを伴った上で、限られた時間のみだが。私は、久しぶりに部屋の中以外に出る事が出来て、すがすがしい気持ちになりながら軽い運動を始めた。
マリアンヌ様のこの体は運動に慣れていないから、ゆっくり簡単な事から始めないとね。部屋の中でもストレッチなどはしていたけど、やはりこうして新鮮な空気と緑に囲まれて体を動かす事の代わりにはならない。
私が前と違う大きさの体に四苦八苦しながら体を動かしていると、エリオット様が庭の裏手から現れた。模擬剣を持っているので、恐らく鍛錬をしていたのだろう。エリオット様は乗馬用の運動着に身を包んだ私に気が付くと、眉をしかめて冷たい声で話しかけてきた。
「何をしているんだ?」
「健康のために、運動を習慣づけようと思って」
エリオット様は私をじっと見つめると、今の発言を信じないとでも言うように鼻で笑った。
「あれだけ俺達家族が言っても生活習慣を変えようとしなかったくせに、今更どういうつもりだ? どうせ、反省していますというポーズのために、怠惰だった生活をやめて見せているだけだろう」
親しい友人だったエリオット様からそのように言われるのはつらい。これがマリアンヌ様に向けたもので、私が言われた言葉ではないと頭では分かっているのだけど……。
「そうやって何を企んでいるつもりだ?」
「企んでなんていません」
「俺に敬語を使って、嫌味か? 気色が悪い」
私が「ユリア」の時から何となく気付いてはいた、エリオット様とマリアンヌ様はあまり姉弟仲は良くなかった事に。けどマリアンヌ様として過ごしていく中で、私が考えていたよりもさらに険悪な関係だったのだなと察していた。
「今までの私の行動でレオンハルト殿下やユリア様、そして家族に迷惑をかけたこと、本当に申し訳なく思っていますわ。私、目が覚めたんです。これからは心を入れ替えて、皆に信頼してもらえるように生きていきます」
「心を入れ替えただなんて。口では何とでも言える」
それに私は、こうして以前のマリアンヌ様と別人のように過ごす事で、本当に別人なのではないかと誰かに気付いてもらいたい。そんな夢みたいな希望もあった。けど、これは難しい話だろう。誰も、体が入れ替わってるだなんて、こんな突拍子もない事を考えないと思うもの。
真摯に訴える私の言葉を聞いて、エリオット様は驚いた表情を浮かべた。マリアンヌ様が謝罪を口にするなんて、とボヌフォワ公爵夫妻もおっしゃっていた。エリオット様も、きっと同じ感想を抱いているだろう。
「俺は、ユリア様を傷付けたお前の事を許さないからな」
憎い。その強い感情を込めた目で睨まれて、私は怯んだ。
……それは私ではない、と言って、信じてもらえたらどんなにいいだろうか。
何度も頭をかすめる。マリアンヌ様に体を奪われて、つらい思いをする度に。「諦める事で、この苦しみから逃れられたら」……でもそれでは本当に、全てマリアンヌ様の思い通りになってしまうわ。私は滲んできた涙をぬぐい、ミシェルを連れて部屋へと戻った。
その日からも、私は今の状況を改善するために行動をしていった。
ミシェル以外の人と接する事は少ないが、使用人達に対しても「以前のマリアンヌ様と違う」と思っていただけるような接し方を心がけている。
最初は驚き、恐々としていた使用人達も、次第に私が変わったのだと、それを事実として受け入れてくれた人が出て来たように感じる。
また、学園は退学になったものの、勉強は続けていた。
教科書に指定されている書籍などを使った自主的なものだが、学園で行われていた授業と同じだけの時間を自主学習にあて、運動が終わった後に実戦的な魔法術の訓練もしている。庭で使っても問題ない量の水を出すだけのものだが、その代わりとてもコントロールが上手くなった。
この体は大量の魔力を一気に使うような強力な魔法術は得意だったようだけど、持つ魔力強いが故に繊細なコントロールは苦手だったようなので、これは真実私がこの体になってから習得した技術だった。
そうして自己研鑽に励む私を、エリオット様は度々姿を遠くから観察していたのもなんとなく気付いていた。
今では、常時部屋にかけられていた鍵も解放されている。
今のマリアンヌなら、勝手に屋敷を抜け出して家に迷惑をかけるような行いをしないだろう。そう思ってもらえるようになれた事に少しばかり達成感を抱く。ある程度自由に屋敷の中を歩けるようになった私は、ボヌフォワ公爵家の書庫を利用するために廊下を歩いていた。
「ミシェル、本当に大丈夫なの? 正式にマリアンヌ様の専属侍女になるなんて」
ふと、階下からそんな声が聞こえてきた。階段の下に、ミシェルと他の使用人がいるらしい。私はつい、足音をひそめて耳を澄ませてしまった。
「そうよ。これまで何人もの使用人がお嬢様の癇癪で怪我をして、中には辞めていった人もいるのよ。あなたも同じ目に遭うんじゃないかって、みんな心配してるの」
また別の人の声がした。……マリアンヌ様は、使用人に怪我をさせるだなんて、そんな事までしていたのね。
そう思われているのだと、今はその目が自分に向けられている事を思うと恥ずかしくなる。
ミシェルも怖がって私の傍を離れていかないだろうか。最近ミシェル自身の実家の話や、弟妹と交わした手紙の内容などを話してくれるようになったりと打ち解けてきたように思ってたので、そう想像すると寂しくなってしまう。
「ご心配ありがとうございます。でも、あたしが知っているマリアンヌ様は、とても優しくて素敵な方で……。聞いていたような、癇癪を起こして魔法で人を傷付けたり、気に食わない事で長時間叱りつけたりなんて一切してませんよ。むしろ、私が失敗しても快く許してくれます」
ミシェルと話す二人の声からは、困惑が感じられた。
「でも、以前は本当に大変だったのよ。一旦収まってるだけで、元に戻るかもしれないし」
「先輩は、ヘアブラシのかけかたが気に食わないって、魔法で髪の毛を焼かれたのよ」
「私も、お屋敷の中で頭を下げる姿に心がこもってないって、すごい剣幕で叱られて」
「たしかに、マチルダさんとケティさんが知ってるマリアンヌ様はそうだったのかも……。でも、だとしたら、マリアンヌ様はご本人が言ってた通り、本当に心を入れ替えたんだと思います」
けどミシェルは、そんな忠告を他にもたくさん言われているでしょうに、私の侍女でいる事を選んでくれた。
その言葉を陰で聞いていた私は、胸が熱くなるのを感じた。今の私が以前のマリアンヌ様と違うと思ってくれる人がいる事に、とても勇気付けられる。
後日、私が庭で日課の運動をしていた時、濡れた洗濯物を抱えた使用人が私に進路を譲って頭を下げようとした。その時、勢いよく頭を下げた拍子に零れた洗濯物が、私の膝に向かって飛んできてしまったのだ。
「ああ! も、申し訳ありません!」
「申し訳ありません! お嬢様のお召し物を汚してしまって……」
「大丈夫よ。運動用の服が少し濡れてしまっただけだから」
私がそう声をかけると、二人は信じられないと言うように顔を見合わせた。
一瞬礼儀も忘れてそんな仕草をしてしまうくらい、驚きを隠せなかったのだろう。多分、以前のマリアンヌ様なら、こうは言わなかっただろう。それは容易に想像出来た。
彼女達もミシェルの言葉が真実であったことを実感したのか、後日「マリアンヌ様に優しい言葉をかけていただいたって、先輩が言ってて。あたしそれを聞いて嬉しくなっちゃいました」と報告してくれて、私はより暖かな気持ちになった。自分は「ユリア」だった時から同じように振舞っているが、別人となってから、自分の行動に好意を返してもらえる事は当たり前ではないのだなとより感謝するようになった。
こうして、「マリアンヌ」として過ごす私は、周囲の目が少しずつ変化していくことを肌で感じていた。