偽りの日々
どうにかして、私がマリアンヌ様ではないと……今「ユリア」の体に入っているのが私ではないと分かっていただかないといけない。
しかしそれは、体が入れ替わっている事について説明が出来ない現状では不可能だった。
口封じにかけられた呪いに触れないよう、言葉を選んで事情を説明する事は出来ないだろうか。それが可能かどうかの前に、私はこの考えが実現する事はないだろうという結論にたどり着いてまた悲しくなった。
今の私の言葉を聞いて、信じてくださる方なんて、いないのだから。
家族の元に戻りたい、と決心してもそれを叶える道筋は浮かばない。何か手がかりはないだろうか、と私は今自分が唯一自由に動けるマリアンヌ様の部屋の中を調べる事にした。
この入れ替わりが何かの偶然だと思っていたから、失礼のないように他人の部屋を検めるような事はしてなかったけど、もう事情は違う。
「これは……レオン様からの手紙ね」
マリアンヌ様はレオン様をお慕いしてたものね……。
遺書を見つけてから近寄っていなかったライティングデスクの引き出しの中を順番に見ていくと大切そうに箱にしまわれている手紙の束を見つけた。「何度も言うが、迷惑だからもう手紙は送って来ないで欲しい」……他のものも似たような言葉が簡潔に書かれている。
けど、他の方の手紙は一通も見当たらない。レオン様のものだけ残して、後は全部処分させているのかしら……? 私は一定期間以上前のお手紙はクローゼットルームのチェストの方にまとめていた。マリアンヌ様もどこか別の場所に保管しているという事なのだろうか。後でクローゼットルームも見てみましょう。
他は、文房具や、魔方陣用の魔術触媒インク、魔術用の杖が数本、そのくらいだろうか。
「暖炉に灰が……」
机の中はそのくらい。本棚を見てみようと思った私は、その途中で動かした視界の中にふと違和感に気付いた。暖房用の魔道具が普及してからというものの、貴族の屋敷に設置してある暖炉はほとんど使われなくなっている。テネブラエの屋敷にも、暖炉は建築した当時のそのまま残っているが、今はインテリアの一部でしかなかった。
なのに、この部屋の暖炉の中に、灰が残っているのだ。
身をかがめて覗き込むと、予想した通りこの部屋の煙突も塞がれていた。という事ならば、暖房目的で使用された灰ではない、わよね……。
何かを燃やした跡……マリアンヌ様が?
何故貴族令嬢が手ずから「何か」を燃やすのか。その理由に気付いて、私はすぐに暖炉の灰をかきまぜるために何かないかと部屋を探した。
……私をナイフで切りつけたんだから、このくらい良いわよね。ちょっと申し訳ない気持ちになりつつ、机の中にあった魔術用の高価そうな杖で灰の中をかき混ぜてみる。
「これは……ノート? の燃え残りかしら」
半分以上灰になっていたが、糸で綴じられている背表紙に近い部分を中心に、歪な楕円状に燃え残ったノートが灰の中に埋もれていた。
それを慎重に取り出した私は、縁がポロポロと崩れてしまうのに注意しながら中を読む。……何かの魔術について書かれた文章のようだ。けど、わざわざ燃やして隠滅しようとしたものなら、きっとこの入れ替わりに関係する物だと思う。
どう保管しようかちょっと迷った後、学園の制服のポケットに入ったままになっていたハンカチでくるんで机の引き出しにしまっておく。
「あと気になるのは本棚かしら? 魔法術の専門書がこんなにたくさん……」
マリアンヌ様は語学や歴史等についてはそうではなかったが、興味がある事への熱意はその分とても強かった。お兄様の婚約者にと国から指名されるくらいに魔力が高かったのもあって、彼女はとても優秀な魔術師でもある。だから人の体を入れ替えるなんてとんでもない魔術が実行できてしまったのだろうが……。
何冊かは私も読んだ事のあるタイトルもあったが、これら全てに目を通すのは一旦後回しにしておきましょう。私は更に部屋の中を見回した。
「……私が死ぬようにと思って、こんな事をしたのよね」
視界に、あの時の、天蓋の折れた木枠が目に入って私はぽつりと呟いた。
思い出すと息が苦しくなって背中が冷たくなるような感覚が蘇るが、これは必要な事であると自分に言い聞かせて、全てが始まったこの場所を調べ始める。
そう言えば、私が首から外した、輪になったバスローブの腰紐はいつの間にか誰かが片付けたらしく今は部屋には見当たらなかった。天蓋の木枠が折れたままになっているのは、気付かなかったのか、手が回らなかったのか。気付いたが放っておいたのか。
そうして天蓋を見上げていると、足元に違和感があった。ほんの少しだけ、厚みが違うのだ。
部屋履きを履いたまま探るように足先で撫でると、それは気のせいではないと感じた。ちょっとはしたないけど、屈んで絨毯に手をつき、しっかりと観察する。……よく見たら、絨毯に切れ目が入っているわ。切れ目に沿って一旦持ち上げたのか、それがきっちり元に戻ってなかったせいで、ほんの少し端が重なっていたみたい。
このような問題のある調度品が侯爵令嬢の部屋に使われているのに違和感を抱いて、私はそのかぎ裂きのような形の切れ目をめくった。
「これは……!」
私は思わず悲鳴を上げそうになった。そこには、禍々しい魔法陣が描かれていたのだ。変色して黒くなっているが、インクの代わりに血のようなものが使われているのが一目で分かる。
私が……この体が首を吊っていた、ちょうど真下。こうして分からないよう隠していたのも考えると、間違いなく私達の入れ替わりに関するものだろう。
「ボヌフォワ家の方にどうにかして見ていただかないと……!」
手紙を書いて、部屋に誰か来た時に頼んで……渡してもらえるかしら。
そこまで考えた私はその未来を否定した。絶対にまともに取り合ってもらえないわ。いいえ、むしろ……これが本当に入れ替わりに関わる魔法陣だった場合、今の私が「ユリア」と入れ替わろうとして用意したものだと疑われる可能性の方が高い。
私はその想像をしてゾッとした。
だって入れ替わりだなんて……こんな魔術、聞いた事もなかったから。
ひととおり勉強をした自分が知らないから、というだけではない。私は次期王太子妃としての教育を受ける中で、禁術というものの存在を教えられていた。存在する事自体が秘され、情報に触れる事さえ通常許されない魔法術というものがあるのだと。
人の体を入れ替えるだなんて、そんな術がある事自体がとてつもなく大きな問題である。間違いなく、この入れ替わりは禁術によるものだと思われる。……今の私がそれに関わっていると疑いを持たれたら、問答無用で犯人にされてしまう。そう確信があった。
だから……私の言葉をきちんと信じてくれる存在が出来るまで、この事は隠しておかないといけない。
絨毯の下から現れたその魔法陣の図柄を、私はノートを持ってきて書き写した。絨毯は元のように戻してこの上を踏まないようにするつもりだが、何かあって読み取れなくなっては困る。
普通のインクで魔法陣を描いても発動しない事は知っているのに、これが、我が身に恐ろしい事を引き起こしたのだと思うと、手が少し恐怖で震えてしまった。
その夜、私の部屋をボヌフォワ公爵夫妻が訪れた。憔悴したお二人の姿を見ると、私の罪ではないのに、と怒りだけを感じる事はできない。……私も被害者だけど、お二人だって何も悪くないのにご迷惑をかけられてる立場ですものね。
夫妻の表情には深い悲しみと……失望が刻まれていた。ボヌフォワ公爵夫人は目に涙を浮かべ、夫人を支えながらゆっくりと歩く公爵は、口を引き結んでいる。
重々しい足取りで私の前に立つと、深いため息をついた。
「どうしてお前は、テネブラエ公爵令嬢にあんな事を……」
公爵の声は低く、しかし怒りと悲しみが滲み出ていた。
これは理不尽な冤罪だ、そう叫びたかった。違う、私ではない、私はユリアなのです。そう告げたい衝動に駆られたが、口封じの呪いがそれを許してくれずに、声を上げようとしただけで喉が締まる。
その苦しみですぐに私は冷静になった。……たとえ呪いがなくとも、今の私の言葉は、信用されない。
「お父様、お母様……申し訳ございません。私は……レオン様を慕うあまり、ユリア様が憎くて、思わずあんなことをしてしまいました」
深々と頭を下げる私を、二人共息を呑むのが分かった。
以前のマリアンヌ様からは考えられなかった事だからだろう。私は……自分がユリアだと証明するのを一旦諦めて、マリアンヌとして私の言葉を信じてくれる人を作る努力をする事にしたのだ。
自分ではない人のふりをするだなんて自我がおかしくなってしまいそうだけど、もう、こうするしかない。
「でもあなた、自分がユリア様だなんて主張して、それで成り代わろうとしていたんじゃないの?」
「いいえ、殺そうだなんて思っていませんでした! あの時は……カッとなって……」
本物のマリアンヌ様は実際にそれをしたのだ。事実を言って、それを信じてもらえたらどんなに楽だろうか。
夫人はハンカチで涙を拭いながら、私の言葉に耳を傾けていた。信じられないという表情をしている。公爵は眉をひそめ、厳しい表情で私を見つめていた。
「本当に、してはならない事をしてしまいました。何故そんな事をしてしまったのか、今の私にはよく思い出せません。今は目が覚めたような思いです」
「マリアンヌが、こんな殊勝な言葉を口にするなんて……」
「反省しただなんて、その場しのぎでも言わなかったお前が……」
私はお二人の目をしっかりと見つめる。
「信じていただけないかもしれませんが、これからは心を入れ替えて生きます。レオンハルト殿下やユリア様、この家にご迷惑をかけるような事もしません。どうか、私のこれからの振る舞いを見ていてくださいませんか」
そう言って、私は深く頭を下げた。
「マリアンヌ、あなたの言葉を信じたいわ」
「はい。信頼を得られるよう心がけます」
お二人はしばらく沈黙した後、静かにこの部屋を去って行った。
しかし、まだ鍵はかけられたまま。私だって、この一度で新しくボヌフォワ公爵夫妻の信用を勝ち取れたなんて思わない。でも、入れ替わってすぐの時のように、一方的に話も聞いてもらえなかったような事にはならなかった。
その後数日、またバリーが食事とタオルの交換など、最低限の世話をするだけの日々を粛々と過ごす。入浴などの身嗜みも何とか自分の手で行いながら、マリアンヌ様の部屋にあった魔術の本を調べていく。
そして、蔵書の中から、口封じに使われた呪いにも見当がついた。やはり目の前で呪文を聞いた事がかなり手がかりになったのである。
「けど……これは、呪いの核を突き止めて破壊しないと解けないわね」
核とは、その呪いの芯になるだけの力を持った何かしらの物体の事だ。それは時によって、強力な魔物の角や爪だったり、宝石だったりする。
あの口封じの呪いは、マリアンヌ様にとっても想定外の状況でかけられたはず。多分、あの日身に着けていた装身具などが核になっているのだろう。
「見当はついたけど、それを探し出して壊すなんて……無理そうだわ」
今の「ユリア」の部屋に置いてあるとしたら中に入る方法はないし……呪術には詳しくないから、見ただけではどれが核か私には分からない。けど、呪いの構造が分かっただけでも前に進んだわ。
口封じの呪いについてこうして僅かな進捗が得られた日、ボヌフォワ公爵夫人が再びこの部屋を訪れた。
「マリアンヌ、ここ数日の過ごし方を見て、心を入れ替えたと言っていた貴女の言葉をほんの少し信じます。この部屋での謹慎は変わりませんが、身の回りの世話をする専属の使用人を一人戻しましょう」
「ありがとうございます、お母様」
お母様の後ろで、バリーの隣にいるミシェルが頭を下げる。私は胸を撫でおろした。頑張ってはいたが、入浴など、今のこの体では不自由する事が多かったから。
「ミシェル、改めてこれからよろしくお願いね」
「は、はい。マリアンヌ様、こちらこそ」
ミシェルに挨拶をする私に、ここ数日で少しずつ態度を軟化させていたバリーもほんの少し目を見張る。
「ほんとに……お嬢様は、心を入れ替えなさったんですね」
「……そう見えているなら嬉しいわ。これからもそう思っていただけるように励みますから、バリーも私を信じていてください」
「ええ……そうであって欲しいと、私も願ってますよ」
今のこの体になった私を見る目が、ほんの少し変わった。そう思える出来事だった。