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あの後すぐに、私は学園長室に連れて来られた。怪我をした「ユリア」は、イザベラが付き添って医務室に連れて行った。……レオン様を連れて来て欲しいと頼まれたけど、この場を離れるんじゃなかったと酷く後悔していたわ。
……マリアンヌ様の事について、イザベラは「ユリア」をいつも気遣ってくれていたから、きっととても自分を責めてしまっているのだろう。
私の親友は、マリアンヌに怪我をさせられたという「ユリア」の事を、酷く心配していた。貴女のせいじゃないと、そう伝えてあげたい。でも、今の私の言葉は誰にも届かない。
私はぼんやりと俯いたまま、学園長室の床を見つめていた。レオン様、エリオット様、アシュベル様、お兄様に囲まれたまま、怖くて顔を上げる事も出来ない。どんな目で見らているか、考えるだけで怖くて。私はここにいるのに、何故か体の中からふわりと浮かんで、この部屋を天井近くから見下ろしていた。子供の頃の、何も悩み事のない、本当の私……ユリアの姿で。
まるで犯罪者が連行されるように、さっきエリオット様に乱暴に掴んで引っ張られた腕が鈍く痛む。いいえ……まるで、ではなく。彼らにとっては、私は「ユリア」を傷付けた凶悪な犯罪者なんだわ。
「おい、泣けば処罰が甘くなると思ってるのか? 何て事をしたんだっ! 貴女と血が繋がっている事が恥ずかしい!」
「……本当に、はらわたが煮えたぎる思いだ。……自分が女性である事を感謝するんだな! でなければ、殴り倒していた所だ!」
エリオット様とレオン様の怒声に、私はビクリと身を震わせた。
「レオン様……」
「お前にその呼び名を許した覚えはないと何度言ったら分かる!」
「違います……私はやってないんです……」
「お前の言い分を信じる訳ないだろうが」
「ユリア……私が……」
入れ替わっているの。私が本物のユリアで、「ユリア」の中にいるのはマリアンヌ様なんです。
だが、それをどんなに説明しようとしても、呪いで喉が締め付けられるように痛み、肝心な事が口に出来なかった。ポロポロ涙をこぼす私を、皆さんが気色悪そうに見つめる。
「相手がこの女でも、こうして被害者ぶって泣かれると気分が悪いな」
「ええ……」
彼らが顔を見合わせている空気の中、学園長室の扉が勢いよく開かれた。
「アシュベル殿下……! 連絡は本当なのですか?! 娘が……マリアンヌが、ユリア様に暴行を働き、お怪我をさせたとは……!」
そこには、ボヌフォワ公爵夫人が立っていた。昨日お会いした時の凛とした雰囲気は崩れ、お顔は蒼白になって、どこか髪もほつれている。
「はい、確かです。衆人環視の中ユリア君を呼び出し、ナイフで切りつけたそうです」
「現場に真っ先に駆けつけたのは俺だ」
「ああ……っ!」
アシュベル様とレオン様の言葉に、ボヌフォア公爵夫人はとうとう耐え切れずに倒れそうになられていた。すぐ後ろに控えていた侍女に支えられて何とか踏みとどまると、すぐに顔を上げた。そして真っすぐ私を見つめると、靴のヒールを鳴らしてすぐ目の前まで駆け寄る。
「貴女は!! どうして!!」
「きゃあっ?!」
そうしてその勢いのまま、私の頬を思い切り叩いたのだ。
パァンと大きな音が鳴って、一瞬部屋の中を静寂が包む。
「大変……申し訳ありません。王太子殿下……ユリア様にもなんてお詫びしていいか……」
「ボヌフォワ公爵夫人……」
「ユーリス君も、ごめんなさい。こんな娘の相手を辛抱強くしてくれて、貴方は何も悪くないのに……」
「いえ……」
すすり泣くボヌフォワ公爵夫人に、他の者は何も言えなくなっていた。
私は、今叩かれた頬以上に、「叩かれた」という事実が私の心を強く傷付けていた。自分の罪ではない事で怒鳴られて、暴力を振るわれて……私の心は、バラバラに砕けて散ってしまいそうになるくらいに悲鳴を上げている。
「未来の王太子妃を悪意で傷付けたのです。どうか、厳しい罰をお与えください。我が家は一切、それに異を唱えないと誓います」
深々と頭を下げるボヌフォア公爵夫人。私はそれを、現実感のないまま見ているしか出来なかった。私が何も言えず、ただ涙をこぼす中、今の私の処遇が決まっていく。
「いや、それはこちらが了承しかねる。ボヌフォワ公爵は軍務の重鎮だ。身内からあからさまな犯罪者が出ては困る」
「そんな……アシュベル殿下……」
「たしかに……叔父上の言う通りだ。エリオットにも、これからも俺を支えてもらわねばならない」
「では、こうするのはどうだろうか。マリアンヌは退学、そして今後ずっと社交界に出る事を一切禁じる。これで、傷害事件について学園で耳にした学生たちからは十分厳しい処分に感じるだろうが、ボヌフォア家の進退に関わるような問題にまではならないだろう。ユーリス君との婚約については家同士で今後話し合っていただきたい」
「ああ……ありがとうございます……今後ボヌフォワ家はより一層、グランデュクス王国のために忠誠を捧げます……! マリアンヌはしっかりと、我が家で管理して、ユリア様と王太子殿下の視界に二度と入らないようにいたします……!」
涙ながらに感謝を口にするボヌフォア公爵夫人は、私の腕を掴んで「帰りますよ」と低い声で簡潔にそう言った。そこは奇しくもエリオット様に乱暴に掴まれた場所と一緒で、触られただけで酷く痛んだ。
「ちゃんと歩きなさい、マリアンヌ。恥ずかしい真似をこれ以上しないで」
「……申し訳ありません……」
やめて……今の私を見ないで……。
そうして、罪人として引き立てられるように私は学園長室を後にするしかなかった。足が震える。目の前が霞んでよく見えない。
けれど逃げる場所なんてなかった。――ただ、帰るしかなかった。ボヌフォワ家に……「マリアンヌ」として。
屋敷に付くとすぐ、私はまたマリアンヌ様の部屋へと戻された。再び、鍵がかけられれる。自分の趣味ではない豪華な部屋が、ひどく無機質に感じられた。金箔の使われた壁はより一層冷たく、職人が手をかけて作った装飾の多い家具達は、ひたすら私を拒絶しているように感じる。
「処遇が決まるまで絶対にこの部屋から出ないで。いいわね!」
鍵のかかった扉の外から、ボヌフォア公爵夫人が厳しい声をかけた。
私は広い部屋に一人、いえこの世界に一人ぼっちで、誰も味方がいないんだと思ったら、さっきまで止まっていた涙がまた溢れ出した。
「う……うぅ……お父様、お母様、お兄様……戻りたい、戻りたいよぉ……」
泣き疲れてベッドで横になった私は、いつの間にか眠っていたようだ。そして、部屋の中にここ数日で見慣れたワゴンが置かれていた。
最近食事の量を減らして、野菜やお肉もバランス良く並べた献立に変えていただくように厨房にお伝えしていたけれど……その量から考えるに、今の私の一日分の食事だと思われた。いよいよ、私の世話はされないらしいと何となく察する。
いなくなればいいと思われて、皆に嫌われている。改めて周囲から向けられる嫌悪を自覚すると、胸が詰まって涙が再び溢れた。自分の部屋が、私の本当の家族が恋しい。会いたい。レオン様が私に向けてくださっていた愛情が、どんなにありがたいものだったのか分かる。婚約者として、もっとあの方の想いに積極的に応えるようにして差し上げていれば良かったわ。
けれど――これが現実なのだ。私は、マリアンヌに様になってしまった。未来の王太子妃に怪我をさせた、犯罪者……そして、誰からも嫌われる存在に。
私は、自分の体と談話室で対面してから……怒涛のように押し寄せた出来事を一つ一つ振り返った。そして、ようやくゆっくり考える時間が出来て、あの時のマリアンヌ様の発言の意味を理解したのだ。
この入れ替わりは……マリアンヌ様がやった事。そして……遺書を残し、自殺を装ったのもマリアンヌ様。
これらの事実が示すのは、たった一つだ。マリアンヌ様が……入れ替わった後の私を殺して、「ユリア」になり替わるつもりだったという事。……間違いない。
私は、マリアンヌ様によって、私の全てを奪われてしまったのだ。そして、命まで失う所だった。この入れ替わりを発覚させない、たったそれだけのために。
「酷い……」
どうして、そう言いそうになって思い出す。彼女が言っていた、レオン様と結ばれたい、動機はそれなのだろう。他は、マリアンヌ様が特別入れ替わりたいと思いそうな理由は思いつかない。だって、同じ公爵令嬢で、ボヌフォワ家もテネブラエ家と並び立つ裕福な名家だ。
でも、理由があるからって……殺して成り代わってしまおう、そんな恐ろしい事を考えて実際にしてしまう人がいるなんて……。
私が死ななかったのは、予定外だったのでしょう。だから、私を見て怯えていた。それで口封じの呪いをかけたのね。
強い悲しみに打ちひしがれていた私は、涙が枯れ果てた今は怒りが湧いて来ていた。
「オブムテスキテ ウェルバ……突然の事だったから、全部は覚えていないわ。けど、実行して黒い炎が上がったと言う事は、闇の魔術の呪いよね……」
私にも……「ユリア」も貴族だから当然魔力はあったけど、心臓に負担がかかるからと積極的な訓練をしていないので魔法術全般が得意ではない。その代わり座学と、自分の魔力を使わなくても発動できる魔術紋章学などについては、学生の中ではかなり優秀なのではないかと自負があった。
神の御業ならともかく、人の手で……マリアンヌ様がかけた呪いなら、絶対に解く方法があるはず。何よりマリアンヌ様が私の前で呪文を唱えたのは大きい。そしてあれは恐らく、契約の細かい条件が書かれた呪いの根幹を構成する魔法陣……一瞬の事だったので、流石にぼんやりとした形しか思い出せなかった。
私は……私の人生を、あの人に奪われたままにしない。絶対に取り戻したい。いえ、取り戻して見せる。
今や何もかもを失って、心の拠り所も見えなくなった私は。もう、それだけを……「自分の体を取り戻す」と、それを生きる標とするしか心の持ちようがなかった。
悪意だけを向けられて、自分の人生を奪われ、今は言葉一つ誰にも信じてもらえず……全てを「諦める」事でこの苦しみから逃げられるなら。そう思って、たった一つ残った命、これさえ手放してしまえば楽になるだろうかと考えそうになる自分を必死で押しとどめた。




