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翌朝、私はマリアンヌ・ヘクト・ボヌフォワとして学園に登校することになった。
「それでは今日からよろしくね、ミシェル」
「ひゃ、ひゃい。よろしくお願いします……!」
昨日バリーから、私の専属になると紹介を受けた少女は、とても控えめな方だった。「お嬢様のお世話をしてもいいと言ったのは、この新人しかいなかったので」とバリーが言っていた。なんでもこの家に来たばかりというだけでなく、これまでは屋敷の手入れをするハウスメイドとして掃除などをしていて、令嬢個人の侍女としての振る舞いなど、上級使用人としての教育は受けていないらしいけれど……仕方がないのだそうだ。この家の女主人に付き、女性使用人を統括する役割にあるメイド長のバリーがそう言うのなら、仕方がない事情があるのでしょう。私はそう納得した
「ミシェル、先に目の大きい櫛で全体をとかして、それからブラシをかけてちょうだい」
「ひゃい、分かりました!」
「そしたらうつむいた時にサイドの髪の毛が顔にかからないように、この辺りの髪の毛をすくい取って、頭の後ろに髪留めで留めて欲しいの」
ミシェルは常にすごく緊張しているだけでなく、手つきもおぼつかないので見ていてハラハラしてしまう。昨日は湯あみを手伝ってもらったけど、今朝髪の毛を整えてもらうのもちょっと大変だった。私が指示をする事で、何とか形にはしてもらったけど……。
「こ、こうですか? す、すいません、高貴な女性の髪を結ぶなんて、初めてで……実家にいた時は、妹の髪を結んだりしてたんですけど……」
「いいえ、十分よ。慣れない仕事なのに頑張ってくれてありがとう」
「へ……?」
いけない、もうこんな時間だわ。先について、マリアンヌ様……自分の体を待っていたかったのだけど……それどころの話ではない。もう出ないと遅刻の危険もあるわ。
マリアンヌ様は普段お化粧をされていたけど、今日はその時間はないわね。ミシェルのお化粧の腕は、髪結いよりも更に慣れていなさそうだし……。私も普段はお化粧はしないし、マリアンヌ様に「お化粧してない姿で人前に立ちたくない」とかのこだわりがあったら申し訳ないけど、非常事態ですし諦めてもらいましょう。
「それでは私、登校する時間になりましたのでもう行くわ」
「は、はい。お見送りします」
慌てて、私の……マリアンヌ様の通学鞄を持って追いかけて来るミシェル。馬車に乗る前にそれを受け取ると、私は学園へと向かった。
「いた……! 私の体……」
私の……ユリアが所属する教室に向かう。周囲の生徒達は今の私に視線を向けると皆、異質なものを見る視線を向けた。この目は、馬車を降りた時からずっとまとわりついている。
自分の背中を第三者から見るって、こんな気持ちなのね。私は何だか不思議な気分になりながら、声をかけようとした。中身はマリアンヌ様だろうけど……マリアンヌ様は今は私だし……。
「あの、ユリアさん」
すると、彼女の肩がびくりと震え、こちらを振り返った。
鏡越しでしか見た事のない菫色の瞳が大きく見開かれる。私の顔……ユリアの顔は、恐怖に凍りついたような表情を浮かべた。目の前に私が立っている、ただそれだけの事に「信じられない」という驚愕の顔をして。
今は他人が動かしている私の体は、喉の奥から微かな息を漏らし、明らかに動揺しているのが分かった。
「どうして……やっぱり、生きてたなんて……」
「え……今何と?」
思わずと言ったように小さくそう声が漏れる。彼女は立ち上がると一歩後ずさった。私の顔を見上げた視線が泳ぎ、何かを必死に考えているようだった。心ここにあらずといった様子に見える。
「少しお話したい事があるのです。お時間よろしいでしょうか?」
「ひぃいっ!!」
そう声をかけただけなのに、彼女は大きく悲鳴を上げて後ずさった。まるで、私に何かされようとしているように。
「待ってください、私――」
お互いに必要な話し合いをしたいだけなのです、そう続けようとした私の目の前に誰かが立ちふさがった。
「いい加減にしてくれ、姉上!」
そして投げつけられた、エリオット様の低く怒気を孕んだ声に、私はびくりと身を震わせた。
彼女を、ユリアの体を守るように立ちはだかったエリオット様が私を睨みつけながら言う。
「謹慎から戻ったと思ったら、またユリア様にご迷惑をおかけするなんて」
「ち、違うの。私、その……ユリアさんと少し話したい事があるだけで……」
「そう言って、次は何をするつもりだ? さぁ、自分の教室に戻って、せめてまともに授業を受けてくれ」
エリオット様から……いいえ。誰かからこんなに厳しい目で睨まれるなんて初めてで、動揺してしまって言葉が上手く紡げない。マリアンヌ様に睨まれる事はあったけど、女性だったから。
男性から、しかも知っている人から嫌悪を込めて睨まれる、それがこんなに怖くて心細い思いをするだなんて知らなかった。
「他の生徒の迷惑だ」
「あ……」
実の姉弟だからこそ、遠慮なく腕に触れて来る。今は私が動かしているマリアンヌ様の体は、エリオット様に二の腕を掴まれて簡単に教室の外に連れ出されてしまった。
男の人からこんな乱暴な事をされるなんて生まれて初めてで、怖くて怖くて。勝手に出て来る涙を止める事も出来ない。
「はぁ。今更涙なんて通用しないからな」
しかしエリオット様は実の姉君がそうして泣いているのに構わず、マリアンヌ様の所属するクラスの前で手を離すと、後ろも振り返らずズンズンと来た道を戻ってしまった。彼もご自分の授業に出るのだろう。
私は、周りで距離を取ってざわめく学生たちの気配は感じていたけれど、涙が止まらずしばらくそこで立ち尽くして泣いていた。
「ボヌフォワ令嬢はまた何かしたのかしら?」
「あーあ、謹慎してる間は平和だったのに」
「エリオット様もあんな姉で可哀そうになぁ」
そんな話は聞こえるが、誰も今の私に声をかけようとしない。もうすぐ先生が来ると言う誰かの声を聞いて慌てて教室に入るけど、私に向けた挨拶もなかった。泣いていた事を気遣って聞いてくれる人も、いない。
マリアンヌ様の席はどこか分からなかったけど、誰も使っていない席が最後尾にあったのでそこだろうと思われる。私はその席に腰を下ろすと、握りしめていた学生鞄を机の上に置いた。
マリアンヌ様が……こんなつらい環境に置かれていたなんて知らなかった。こんなの、酷いわ。
ほんの少しマリアンヌ様として過ごしただけで、私の心は悲鳴を上げていた。
私は、いつも嫌な事を言ってくるマリアンヌ様の事が苦手……ううん、嫌いだった。けど、常にこんなに酷い言葉をかけられていれば、マリアンヌ様の口から出て来る言葉も同じようなものになってしまうと思うの。
私は、マリアンヌ様みたいな例外を除けば、周りの人達から優しくされた事しかない。皆さん親切で礼儀正しくて、だから私も親切で礼儀正しい態度を返す事が出来ていたのね。
しばらくしてすぐに授業が始まり、慌てて教科書の本を開いたが、まともに内容は頭に入って来なかった。マリアンヌ様の発言について、それだけをぐるぐる考えてしまう。
だって、どうして驚いたの。どうして「生きてたなんて」と口にしたの。どうして。
当然次の休憩時間になった時、私はすぐさま「ユリア」の教室に向かった。今度こそ、入れ替わりについての話をするつもりで。
「あの、ユリアさん。お話があるの」
朝から再び現れた私の発言を聞いて、教室の空気はざわりと音を立てた。
「……分かりましたわ。談話室に移動してもよろしいかしら」
「ええ」
「ちょっと、ユリア!」
「大丈夫よイザベラ」
私の声と顔で笑ったマリアンヌ様は、心配そうに隣に立っていたイザベラの耳に口を寄せると二言三言ほど何かを囁いた。「わかったわ」そう口にしたイザベラがユリアの体から離れる。
第三者を入れて話すと説明が難しくなるし、二人きりでまず話せるのは良かったと素直に思った。
「……話を、してくださるんですね」
そう声をかけた私に、私の顔をした彼女はくすっと笑った。
「ええ、ちょうど私もお伝えしたい事がありましたの」
私は頷くと、先導に従って談話室に移動した。事情を窺うような視線を遮る個室に入ると、やっとひと心地つく。個々の壁と扉には、音を遮断する魔道具が設置してある。マリアンヌ様が、給仕をしようとする使用人も遠ざけたので、ここでの話し合いは誰にも聞かれる心配はなくなった。安心して、この非常事態について話合えるだろう。
私はただ、一縷の望みにすがるように目の前の自分の目を見つめた。
「あの、マリアンヌ様ですよね? 私、ユリアです。目覚めたらこの体に……マリアンヌ様の体になっていて。一体どういう事なのか全く分からず、今日までとても混乱していて」
「はぁ……?」
私の言葉に、目の前の顔……私の顔はポカンと口を開けた。私、こんな表情も出来たのね。そんな事を考えている場合ではないのに、ついそう思ってしまうくらいに見慣れない表情をしていた。
「フ……ハハハ! アハハハハ!」
「あの……マリアンヌ様?」
「やだぁ、貴女気付いてないのぉ? 勉強の成績は良いのに、思ったより頭悪いのねぇ」
私の顔は口を大きく開けて笑うと、左右非対称に口の端を上げる笑顔になってそう言った。目を細めたその笑い方は何だかちょっと嫌な感じがして、私は少し目を逸らす。
「これ、やったのわたくしよ? わたくしが魔術を使って、貴女とわたくしを……こう! 入れ替えたのよ」
ユリアの、私の手が。両人差し指を立てて握った手を、勢いよく左右逆向きに振る。私の見ている前でそんな手振りをしたマリアンヌ様は、愉快そうに笑った。
「ど、どうしてそんな事を……」
「どうして? 貴女がそれを言うの? 卑怯な手を使ってレオン様の婚約者になった貴女が」
「え……」
私は戸惑った。マリアンヌ様がずっと言われている、「騙して婚約者になった」「卑怯な手」に、心当たりがなかったからだ。
「だからわたくしは、間違ってるものを正しただけよ。わたくしがレオン様と結ばれる。だってそれが正しい世界なんだもの」
知らない表情で笑うその顔は、自分の顔のはずなのに、まるで見た事のない人みたいだった。
マリアンヌ様がやった……この入れ替わりを……?
混乱する頭が、言われた事をじわじわと飲み込んでいく。しかし衝撃的な内容すぎて、全く受け止めきれない。
私はそこで、昨日からずっと心配していた事を口にした。
「あの……私、遺書を読みましたの。マリアンヌ様があそこまで悩んでらしたのも、気付かなくて……」
「ハ? あんなもの、自殺に見せるための嘘に決まってるじゃない」
「え……?」
「察しが悪いわね。それとも、そんな事思いつきもしませんでしたって偽善者のアピールかしら?」
どういう事なのか。嘘だとしたら、あんな手紙を残して首を吊っていたのは何故なのか。
必死に考えるも、強いストレスで混乱した頭には、正解が浮かんでこない。
「ねぇ、ところでユリア。手を出してくれる?」
「え……」
パニックになったまま、私は言われた通りに手を出していた。しかしその手を、突然切り付けられたのだ。
「痛……!」
切られた手を抑える私を無視して、マリアンヌ様は自らの手も切りつけた。ユリアの体の手の甲に、まっすぐ赤い切り傷が浮かぶ。
「オブムテスキテ ウェルバ コルディス
クォド ムタートゥム エスト テネアトゥル……
闇の底に沈め、永遠の沈黙を我は求めん
ここに記した二人の秘密は、声も指もあらゆる術で語る事を禁じる」
ユリアが……私の声が呪文を唱える。いつの間にかテーブルに広げられていた魔法陣に血の付いた指を押し付け、そこに魔力を流すと、ボウッと黒い炎を上げて書かれていた紙は燃えてしまった。
そして次の瞬間、私の喉の奥に冷たい刃を突き立てられたような感覚が走る。
「ふふ……これでもう、わたくし達の秘密は明かせなくなったわよ。まぁ、わたくし自身も秘密にしないといけなくなるけど、それはわたくしにとっては何のデメリットでもないからね」
「……っ、ぁ……あ……!」
「むしろ将来お酒を飲んだ時にでもうっかり言う危険がなくなって、むしろ良かったかしら」
私の顔で彼女がコロコロ笑う。
何故入れ替わりを、そう言おうとした私の声は、音にならずに嗚咽となって口の奥から漏れた。喉が……潰れる。この体で目覚めた時の事が思い出される。これが……呪い……?
苦しむ私の姿を見て、彼女の笑みは深まるばかりだった。
「そう。貴女はそうやって醜く呻くのがお似合いよ。……やっぱり今までが間違ってたのよね。誰もがわたくしに注目して、優しくして、尊重してくれる。これが本来あるべきだった世界なのよ。まぁ……殿方好みの大きな胸がなくなってしまったのは残念だけど……」
マリアンヌ様は私の胴体をじっとりと撫でおろすと、そんな事を言いながら鼻で笑った。痛む手を抱えたまま、私はまだ事態が把握できずに固まっている。
「ユリア!!」
バタン。
その時、背後の扉が開いた。個室に入って来たのが誰なのかを素早く目で確認したマリアンヌ様は、持っていたナイフを私の方にサッと投げつける。
「キャッ……」
突然刃物が飛んできてびっくりした私は、思わず身を強張らせた。
一体何を……そう思ってうかがうような視線を向けた私が次に見たのは、ソファに倒れ込んだ「ユリア」の体を抱き留めて私を睨みつけるレオン様の怖い顔だった。
「マリアンヌ様が突然、刃物で切り付けてきて……!」
「お前……!! マリアンヌ! とうとうとんでもない事をしてくれたな!!」
レオン様の腕の中。血の流れる手の甲を抑えて、弱々しく「ユリア」がそう口にする。
「ち、違います! その傷は……彼女が自分で! 私の方こそ、そのナイフで切りつけられて……」
「はぁ? ユリアがお前を傷付けて、挙句自分でわざと怪我をしてその罪をお前に着せようとしていると、そう言うのかマリアンヌ!! ユリアに怪我をさせただけでなく、そんな侮辱をするなど! 今までボヌフォワ公爵家の顔を立てていたが、これ以上許せん!!」
今まで私は、私を……ユリアを愛するレオン様のお顔しか見た事がなかった。だけど今は、この世の何よりも憎いと、血走った目で私の事を睨みつけている。
それは、朝エリオット様から向けられた瞳すら生ぬるいと思う程の、強い、強い、怒りを滲ませた目だった。




