後編
リックとアリーが出会ってから、十年が経った。
両親や使用人たちの多くから忘れ去られたまま育った割には、二人は教養豊かな少年少女だった。ネイサンのおかげである。
アーサーやエリザベスと違い、リックとアリーには家庭教師が付けられなかった。代わりに二人に勉強を教えたのが、ネイサンだった。王子から本が贈られたと知ったとき、まるで神託を受けた神官みたいに厳かな表情でこう宣言したのだ。
「僕が二人の勉強を見る」
ぽかんとする二人に、ネイサンは説明した。
「本気で『勇者と聖女』ごっこをするなら、本気で勉強もしないとね。頭のからっぽな勇者と聖女なんて、使い物にならないだろ?」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。すっかりネイサンに乗せられて、二人は勉強に精出すようになった。どれほど頑張っても、決してネイサンには追いつけなかったけれども。
二人は謹んでネイサンに「賢者」の称号を贈った。
勇者アーサーと聖女エリザベスは十六歳となり、同い年のリックとアリーも十六歳になると、賢者ネイサンはしばしば憂い顔を見せるようになった。
心配になったリックとアリーは、ネイサンに尋ねた。
「兄さま、何か困りごとでもあるの?」
「天使さまが眠りについてから、十一年目に入っただろう?」
リックとアリーは顔を見合わせた。ネイサンのこの言葉だけで、彼の心配ごとが何だかわかってしまったのだ。宝物である「勇者と聖女と、眠れる天使」の絵本をすり切れるほど何度も読んだ二人には、意味がわかる。
絵本の中で、天使は十年目に目覚めていた。天使が目覚めなければ、勇者と聖女も覚醒しない。
アリーはリックの手を取り、キュッと握りしめた。リックは尋ねるように彼女を振り向く。彼女は真剣な表情でうなずいてみせた。するとリックも、すぐさまうなずき返す。そして兄に視線を戻した。
「兄さま。僕たち、天使さまを起こしに行ってくる」
ネイサンは「無謀だ」と首を振る。でもリックとアリーには、無茶を言っているつもりはない。ちゃんと勝算があるのだ。
二人は両親の意識や視界に入りづらい。けれどもそれは両親に限ったことではない、ということを二人はすでに学んでいた。たいていの人は、二人の存在に気づきにくい。そればかりか、どうやら魔物たちにも存在を気づかれにくいようなのだ。
「だから、僕たちが行ってくる」
二人の決意が固いことを知ると、ネイサンは旅に必要なものを買いそろえた。十八歳になったネイサンには、幼い頃と違って弟のためにできることが増えていた。
メイドのハンナは、心配そうな顔をしながらも荷造りをしてくれた。
料理人のビリーは、日持ちのするおいしい携行食をたくさん用意してくれた。
そしてハズレ王子と呼ばれていた三番目の王子エドワードは、立派な馬を贈ってくれた。そればかりか出発する日には、わざわざ見送りに駆けつけてくれた。ネイサンから連絡を受けて知ったらしい。
こうして数人に見送られ、二人は天使の住み処に向けて出発した。二人のもくろみは当たり、道中、魔物に襲われることはなかった。
意地の悪い魔女の家の前は気づかれることなく素通りし、乱暴者の巨人の家の前も気づかれることなく素通りした。
だからと言って、決して楽な旅路だったわけでもない。
雨の日があれば、雪の日もあった。切り立つ七つの山を越え、流れの速い大きな七つの河を渡り、深く険しい七つの谷を越えて、二人は旅を続けた。
そうして月が欠けて満ちるのを三回ほど繰り返した頃、ようやく天使の住み処にたどり着いたのだった。
天使の住み処は、天高くそびえる山の頂にあった。神殿に似た、大きな建物だ。ただし、柱と屋根しかない。にもかかわらず、ちりひとつなく清潔だった。建物の周囲には、色とりどりの花が咲き乱れている。
花園に足を踏み入れたとたんに、風がやみ、ビュウビュウと吹き荒れていた風の音も消えた。辺りには花の香りが豊かに漂い、それでいて清浄な空気が満ちている。
天使は建物の中央にある、台座の上にいた。
見上げるほどの長身で、片膝を抱え、首を少しかしげて目を閉じている。顔立ちはとても美しい。ゆるやかに波打つ金色の髪が、肩にかかっていた。
女性のように優美でいて、女性にしては筋肉質のように見える。けれども男性にしてはほっそりと、たおやかにも見えた。呼吸をしている気配さえなく、眠っているというよりは、彫刻になってしまったかのようだ。
二人は天使のもとに歩み寄り、おずおずと声をかけた。
「天使さま」
天使のまつ毛がピクリと動いた。二人はもう少し声を大きくして話しかける。
「天使さま、どうか起きてください。もう十一年が経ちました」
今度こそ天使はパチリとその目を開いた。夏の青空のような濃い青の瞳だ。
「おや、寝過ごしてしまったのですね。起こしてくれて、ありがとう」
礼儀正しく「どういたしまして」と返す二人を、天使はじっと見つめた。そうして不思議そうに首をひねる。
「勇者と聖女が十五歳になった誕生日を祝う声が、聞こえてこなかったような気がするのですが。もしかして、盛大に祝ったりはしなかったのですか?」
「いいえ。国を挙げて、それはもう盛大にお祝いしましたよ」
不思議なことを尋ねられ、リックとアリーも天使と同じように首をひねった。これほど遠く離れた場所では、どれほど盛大に祝おうとも聞こえないのは当たり前ではないか。
声に出さなかった二人の疑問に対し、天使は困ったように微笑みながら言い訳をした。
「今までもそれを目覚ましにして起きていたのに。どうして今回に限って、目が覚めなかったのでしょう。おかしいな」
「そうですね」
天使の耳は、人間の耳とは違うらしい。勇者と聖女が十五歳になったのを祝う声は、いかに遠く離れていようとも届くのだそうだ。
そうであるなら、確かに不思議だ。勇者アーサーと聖女エリザベスの誕生日は、これまでにも増して盛大に祝ったというのに。近隣諸国からも、偉い人たちが祝辞を贈りに集まってきたほど。
リックとアリーは、招待客たちからも存在を忘れ去られているのをよいことに、ネイサンの引率のもと、ちゃっかり料理をいただきに立食パーティーには参加していた。相変わらず、二人に話しかけてくる招待客は、エドワード王子だけだったけれども。
リックとアリーの説明を聞いて、天使は「なるほど」とうなずきながら立ち上がった。立ち上がった天使は二人が思っていたよりも、さらに長身だった。十六歳になった二人が、天使の前では子どものように小さく感じる。
天使は二人に向かって微笑みかけた。
「何にしても、起こしてくれて助かりました。どうもありがとう」
「どういたしまして」
「寝過ごしたせいで、あまり時間がありません。急ぎましょう」
そして天使は、両手を大きく広げた。意味がわからず、リックとアリーは顔を見合わせてきょとんとする。すると天使は笑みを深めて二人に歩み寄り、小さな子どもを抱え上げるかのように、軽々と両腕に二人を抱き上げた。
そして大きな翼を広げ、悠然と空に飛び立つ。二人はあわてた。
「待ってください。僕たち、馬がいるんです」
「大丈夫。ちゃんと付いて来ますよ」
天使の言葉に驚いた二人が後ろを振り返ると、なんと馬が二頭、天使の後ろに付いて天を駆けていた。二人が目を丸くしている間にも、七つの山と七つの河、そして七つの谷の上をひとっ飛びに越えていく。気がついたらもう、王都の我が家に帰り着いていた。
突如として現れた天使に、二つの伯爵家は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。
「勇者と聖女をすこやかに育ててくれて、ありがとう。今日はその礼を言いに来ました」
そこへ二人の両親たちが、息を切らせてやって来た。アーサーとエリザベスと一緒に。両親は喜色満面で、自慢の子どもたちを天使の前に連れていく。アーサーとエリザベスは、天使に向かってお辞儀をした。
「勇者のアーサーです」
「聖女のエリザベスです」
ところが天使は眉をひそめる。
「あなたたちは勇者でも聖女でもありませんよ」
「えっ」
「でも、グリフィス伯爵の末息子が勇者、ホルスト伯爵家の跡取り娘が聖女と言われたと……」
驚き焦るアーサーとエリザベスに、天使は「確かにそう言いましたね」とうなずく。二人は安堵に肩の力を抜くが、天使から返ってきたのは否定の言葉だった。
「だから、あなたたちではありません。グリフィス伯爵の末息子でもないし、ホルスト伯爵家の跡取り娘でもありませんからね」
「何を言ってるんですか! 僕が三人兄弟の一番下です!」
「わたしが長女で、跡取り娘です!」
必死に言い募る二人に、天使は「なるほど」と哀れみの目を向けた。そしてまずアーサーに向かってこう告げる。
「あなたはグリフィス伯爵夫人の子であっても、グリフィス伯爵の子ではありません」
「なっ……!」
大きな声を出したものの言葉が続かず、目をむいてワナワナと震えているのはグリフィス伯爵だ。
「何を驚いているんですか。まさか、本当に知らなかったのですか? 自分は不貞を働いておきながら、そんな自分に対しても妻が貞淑であり続けるなどとどうして思えるのでしょう」
真っ青になって立ち尽くすグリフィス伯爵夫妻から視線をはずし、天使は次にエリザベスに向かってこう告げた。
「あなたの父親は、ホルスト伯爵の臨時代行にすぎません。ですからあなたは、跡取り娘ではないのです」
「なぜそれを……」
顔面蒼白で冷や汗を流しているのは、ホルスト伯爵だ。
「あなたの兄夫妻が亡くなった後、その忘れ形見の娘を引き取ったところまでは悪くありませんでした。ですが、たまたま自分の娘と同じ日に生まれていたからといって、なぜ周囲に双子だと誤解させたまま放置したのですか。家を乗っ取るつもりだったととられても、仕方ないほどのおこないですよ」
それから天使は、両手に抱いていたリックとアリーをそっと地面に下ろした。そして辺りに集まった人々をゆっくりと見回す。
「勇者はこのリックことリチャード、聖女はアリーことアリシアです。この二人を慈しんで見守り、育ててくれたことを感謝します。この子たちが十五歳になった誕生日を祝ってくれた人々に、心からの祝福を」
その言葉通り、天使はひとりずつ祝福を与えていく。
二人が「賢者」と呼ぶ兄ネイサンには、その呼び名にふさわしい英知を。
二人のためにお下がりの服を仕立て直していたメイドのハンナには、彼女が作り出すものすべてが心地よく美しいものとなる裁縫の才を。
二人の食事を支え続けた料理人のビリーには、とびきりの料理の腕を。
限られた交流の中でも常に分け隔てなく二人に接したエドワード王子には、真実を見抜く王者の目を。
天使が祝福を終えたそのとき、集まった人々の中から怒ったような叫び声がした。
「俺たちに祝福がないのは、あの偽勇者と偽聖女のせいだ!」
「そうだ! あいつらがだましたせいじゃないか!」
「よくもだましてくれたな!」
いままでちやほやしてきた人々が、手のひらを返したように怒声を浴びせてくる。アーサーとエリザベスは、恐ろしさに身をすくませた。今しも二人につかみかからんと人々が迫ってきたところへ、天使がすいっと二人の前に身を滑り込ませた。
「この子たちのせいではありません。この子たちは大人から言われたことを、素直に信じただけでしょう。だいたい、慈しむとは、えこひいきすることではありません。兄弟を分け隔てすることなく接すればよかったのです」
天使はそこでいったん言葉を切り、無機質なまなざしで人々をゆっくり見回してから続けた。
「わたしが勇者と聖女に与えた加護のせいで、それさえできなかったようですけれども」
意味がわからず、どういうことかと人々はいぶかしむ。彼らに向かって天使は説明した。
「勇者や聖女を利用しようとしたり、害をなそうとしたり、よこしまな気持ちを持つ者の目には、姿が映りにくくする加護です」
まさかそれで親の目にまで映らなくなるとは、思ってもみなかったのだ、と天使は悲しそうに付け加えた。
天使にこう言われては、人々は恥じ入るしかない。
アーサーやエリザベスをちやほやしてきた者たちは、この二人のためを思ってそうしたわけではないのだから。天使が目覚めたときに祝福をもらいたいという、打算でしかなかった。
生まれて初めてむきだしの悪意にさらされて、アーサーとエリザベスは身を寄せ合って震えている。その二人の頭を、天使は優しくなでた。
「あなたたちは今まで甘やかされた分、ほかの人より苦労することも多いでしょう。でもそれを乗り越えて、立派な大人になることを祈っていますよ」
二人は涙をこらえて歯を食いしばり、「はい」と答えた。
天使はどこからともなく、ひと振りの剣と一本の杖を取り出した。
「勇者には剣を、聖女には杖を」
リックに聖剣を、アリーに聖杖を手渡し、天使は二人に真剣な目を向けた。
「わたしは直接手を出すことができませんが、できる限りの支援を約束します。どうか魔王を倒し、人々の暮らしを守ってください」
二人は元気よく「はい!」と答える。
「さあ、行きましょう」
こうして立派にたくましく育ったリックとアリーは、魔王討伐の旅に出たのだった。
* * *
リックとアリーは魔王を討伐するまでに、誰もがよく知るとおり、数々の冒険を繰り広げた。
天馬となった愛馬とともに空を駆け、空飛ぶ魔物を倒したり。美女に変身しては人間をだまして食い殺す魔物を、逆に変装してだまし返して倒したり。生け贄を要求しては食い殺していた海の魔物を、二人が生け贄の振りをしておびき寄せて倒したり。
そうして数年後、見事に魔王を討ち果たす。
国に帰った二人を出迎えたのは、国王となったエドワードだった。エドワードの兄たちは、それぞれ大臣と将軍として弟を支えていた。
グリフィス伯爵家は代替わりし、ネイサンが伯爵となって辣腕を振るっている。あの後アーサーは必死に修行し、立派な騎士になっていた。元伯爵夫妻は自分たちの身勝手さに気づいて恥じ入り、息子に家督を譲った後は、離れで慎ましく暮らしている。案外仲よくやっているらしい。
ホルスト伯爵は人々の厳しい視線に耐えながら、臨時代行を続けていた。リックとアリーが旅から戻ると、やっと肩の荷が下りたとばかりにアリーに家督を渡して隠居した。こちらも離れで慎ましく暮らしているけれども、アリーとリックがしょっちゅう顔を出すので、存外にぎやからしい。
女伯爵となったアリーは、リックと結婚した。
結婚式は、それはもう華やかで盛大だった。国中どころか世界中の人々が、結婚を祝福しに押しかけてきたものだ。二人の十五歳の誕生日とは大違い。二人はそれからもずっと、仲よく幸せに暮らした。
ああ、エリザベス? エリザベスは、作家になった。デビュー作は、「天使と忘れられた子どもたち」────そう、今あなたが読んでいるこの物語。