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01.死体洗ヰ






 場末の食堂で、男はうすいスープをすすりながら、じっと考え込んでいた。湿った空気と安酒の匂いが漂うこの店で、毎日同じことを繰り返している。田舎の農村を飛びだしてから五年。都会にいけば人生を変えられる――――あの頃は本気でそう思っていた。


 男は、貧乏農家の三男として生まれた。農家の暮らしは過酷だ。朝ははやく、毎日くたくたになるまで肉体を酷使する。それでいて、広大な土地をいくら耕しても、手もとに残るのは最低限の食糧だけ。ほとんどの収穫物は、地主へとおさめる。もちろん賃金はない。休みすらない。死ぬまでこの生活を続けるのか――――疲弊する男にもひとつ、希望があった。月に一度訪れる商人からきけば、都会は田舎とは別世界だという。人も物もあふれるほど行き交い、恐ろしい速度で発展を続ける。都会にいけば人生を変えられる、そう信じて男は田舎をでた。しかし、現実はそう甘くなかった。技術も紹介もない男が、きちんとした定職を得ることは難しい。あるのは、日銭暮らしの肉体労働だけ。それでも、田舎にいた頃よりはよかった。賃金として目にみえる成果は男に充足をあたえた。贅沢はできないが、仕事の後に一杯の安酒をあおる程度には自由はあった。


 だが、それすらも半年前に終わりをむかえた。妹が男を頼って追いかけてきてからというもの、生活がとたんに苦しくなったのだ。妹も洗濯侍女として休みなく働くが、女の給料などたかが知れてる。雀の涙ほどの賃金では、人ひとり生きてはいけない。ひとりですら余裕はないのに、男は妹の生活まで面倒をみることになったのだ。男も、妹を送り返せばよいと頭ではわかっている。しかし、田舎の苦しい生活を知っている身としては、どうにも非情になれずにいた。


「金さえあれば、すべて解決するのに」

「お困りのようですね」


 驚いて男は顔をあげた。ぽつりとこぼした独り言に、返事がくるとは思ってもいなかった。気づけば、ひとりの女がむかいの椅子に腰かけている。女の容姿をみて、つい男は顔をしかめた。艶のある黒い髪、陶器のよう白い肌はシミひとつなく、身体を覆う衣服は上等な生地だとひと目でわかる。長いまつ毛で縁取られた瞳は大きく、少女のようにも思えた。どうみても、こんな場所には似つかわしくない。だが奇妙なことに、男以外は彼女を気にするものはいなかった。それがいっそう、男に違和感をあたえる。がやがやと安酒をあおる人夫たちの声がしめるなか、鈴の鳴るような透きとおった声が響いた。


「不思議な話があるんです」


 男は訝しげに女を見つめるが、少し興味がわいた。


「題名をつけるならば――――」


――――【死体洗い】でしょうか、そういって女は語りだした。


 この世には、裏と呼ばれる仕事が存在する。人を殺したり、盗みを働くような仕事もあれば、驚くほど簡単な仕事もあるという。


「どちらも共通するのは、人に知られてはならないこと。かわりに、高額な報酬が約束されています」


 とある貴族の少年が、賭博で負け、背負った借金に困っていた。すると、知人から借金をすぐに返済する手段として、奇妙な仕事を紹介されたという。

 つれていかれた場所には、床に埋めこまれた大きな水槽があった。その中は薬液でみたされ、無数の死体が浮いている。


「無数の死体…………」


 男は想像した。ときおり裏路地からひどい悪臭を感じることがある。いちど気になり、悪臭のもとを辿ったのだが、そこには半分腐り醜くふくれた死体が横たわっていた。あんなものが無数にあると思えば、あまりのおぞましさにぞっとした。


「その死体を洗うのか?」


 女は答えた。ブラシで死体を洗い、棒でついて薬液に浸すのだと。半月も働いた頃、少年は無事、賭博の借金を返済したという。


「…………それだけか?」


「ええ、それだけです。けれど、ひとつ不思議なことがあって――――」


 女は人差し指をくちびるにあてると、まるで何かの秘密を共有するかのように囁いた。


「――――ときおり、死体が動くんです」






 気づけば、女の姿は消えていた。目の前にいたはずなのに、男の脳には女が立ち去る瞬間の記憶もない。あいかわらず食堂は喧騒につつまれ、そこには奇妙さや違和感はひとつもなかった。金欲しさにみた白昼夢だったのだろうかと、自重気味に男は笑いをこぼす。

 どうにもおかしな夢である。だがもしも、死体洗うだけで貴族が困るような借金が返せるなら――――そんな思いが男の頭をよぎった。






――――――――――







 翌日、男は仕事を終えたその足で、商業組合をたずねた。あいている窓口をみつけ、担当の男に声をかける。

「高単価な仕事を紹介して欲しいんだが」

 窓口の男は、陰険な顔つきで男をじろじろとながめた。

「紹介状は?」

「ない」

「では、なにか資格や技術はお待ちで?」

「それも、ない」

「でしたら――――」

 話を終わらせようとされ、男はあわててさえぎる。

「その、死体洗いの仕事を探しているんだが…………」

「死体洗い?」

 窓口の男は鼻で笑った。とたんに男は恥ずかしくなり、逃げるように組合をあとにした。


「そりゃそうだよな」

 家を建てる大工や、食材を調理する料理人。仕事というのは、需要があって存在する。

「死体洗いなんて、誰が必要とするものか」

 ただの噂話をまにうけて、ひとさまにたずねたことを男は恥じた。

 そのとき、突然話しかけられ男は足を止めた。

「すまないが、一緒に拾ってはくれんかね」

 みれば、老人の抱える紙袋がやぶれ、あたりに林檎が転がっている。面倒だったが、無視する気も起きなかったので、男は言われたままに林檎をひろった。あらかたひろい終えてみまわすと、路地の奥にひとつまだ林檎があった。

 男は日の当たらない路地に入り、最後の林檎をひろうと、突然背後から声がした。

「きみは、死体洗いの仕事をしたいのだね」

 驚いて振り返ると、立派な髭をたくわえた紳士がいた。なぜ知っているのかといえば、組合でみられていたのだろう。男は恥いりながら、どもり気味に、はいと答えた。するとその紳士は、ちょうど探していたんだと笑みを浮かべた。

「きみ、ついてきなさい」

 紳士の指さす方向には、黒塗りの高そうな馬車が停められている。男は、ほんとうに死体洗いの仕事はあったのだと歓喜し、誘われるがまま馬車へと乗りこんだ。


 高級そうな革張りの座席に腰かけると、すぐに目隠しをされた。

「窮屈な思いをさせてすまないが、すぐにつくから安心しなさい」

 そこで男は、馬車にのったことを後悔した。なんの疑いもなくのったが、紳士が真実をいった保証はどこにもない。だがいまさら気づいても遅い。馬車のそとから鍵をかける音が響く。降りたいと騒げば、殺される可能性すらあった。男はおとなしく目隠しをされると、ゆっくりと馬車は動きだした。


 この紳士とあの女がぐるだったのでは、と男は考える。奴隷として売り飛ばされるのか、猟奇趣味のだれかに殺されるのか。恐怖と不安が男を襲うが、じっと息をひそめて耐えた。

 それから、どれくらいの時間が経ったのか。馬車が止まり、目隠しが外されると、拘束もなく男は馬車をおりるよう告げられた。すると男の視界に建物がうつった。背の高い草で囲まれた草原に、ぽつんと大きな屋敷が存在している。

「さあ、ついてきなさい」

 歩きだした紳士はいった。いまなら逃げられると男は思ったが、ほんとうに仕事を斡旋される可能性も捨てきれない。一瞬悩んだのち、男は紳士のあとを追いかけた。


「どこまで知っているのかね」

 屋敷の広い廊下を歩きながら、紳士は男にたずねた。

「賃金のいい仕事とだけ……」

「そうだ。ここでは医療を発展させるため、さまざまな研究がおこなわれている。知識、技術の進化に協力してもらうのだから、それ相応の報酬は用意するさ」

 医療の発展――――死体洗いには意味があったのだ。意味があるのだと知ると、男は不安がやわらぐのを感じた。だが、なぜ洗うのかはわからない。男の疑問を察したのか、紳士は言葉を続けた。

「人体の構造を知るには、その中身を実際にみて触るに限る。そこできみの出番というわけだ。腑分けまえに洗浄することで、より正確な情報が得られる」

「なるほど」

 男が納得したとき、紳士がひとつの扉を開いた。なかにいた黒いコートの男がひとり、紳士にむかって挨拶をする。二人はいくつか言葉をかわすと、紳士が男にむかって声をかけた。

「きみの先輩だ。さあ、案内してもらいなさい」

 そこで紳士は退場し、男は先輩と紹介された男についていく。扉のない棚が壁一面備えつけられた部屋にとおされ、着替えの説明をうけた。黒いコートとズボン、それから長靴と頭巾を支給され順番に着替えていく。それから二つ、追加で手渡されたものが男はなにかわからなかった。

「これはなんだ?」

 透明度の高いガラスでできたなにかと、ひものついたなにか。先輩は同じものを装着しながら説明をする。

「ここでの仕事は、薬液で死体を洗うことだ。目や口に入ると危険だから防具をつける。とくにマスクは絶対に外してはいけない。わかったか」

 はじめての防具を四苦八苦しながら装着すると、作業場へととおされる。作業場のなかは窓がひとつもなく、等間隔で壁にランプが配置されている。不気味な場所だと男は思った。とくに出入口の扉は分厚く重く、ぎぃと音を立て閉まるとき、男は無性に心細さを感じた。

 大きな部屋の床には、くり抜かれたように液体の入った部分があり、五つほどの全裸の死体が浮かんでいた。

 男は緊張から身体が強張るのを感じたが、マスクのおかげで匂いがわからないことと、死体の損傷がほとんどないことに安堵した。

 先輩は壁にかけられた長柄のついたブラシを持ちだすと、男に仕事の説明をはじめる。作業自体は簡単なものだった。実際に先輩が作業するのを横でみてから、さっそく実践となった。男が長柄を握ったとき、死体がひとりでに動いたようにみえた。

「気のせい、か?」

 じっとみると、腰をよじるかのように死体が動いた。口からごぽごぽと空気を吐きだしている。

「あの人、生きているぞ!」

「死んでいるよ」

「だがいま、確かに動いた!」

「死体は動くよ」

 当たり前のようにいう先輩に男は困惑した。

「腐敗するとガスが溜まって動くんだ。とくに問題はないから、気にしないこと」

 先輩は淡々と説明した。男に真偽はわからないが、心の安寧のため信じることにきめた。そうして、男は死体洗いという定職を得た。






――――――――――






 最初は死体に恐怖と不快感を覚えた男だったが、慣れてしまえばどうということはなかった。そしてなにより、賃金がとんでもなくよい。ときおり、死体が勝手に動いて驚くが、ガスのせいだと思えば怖くはない。


 そうして半年が過ぎた。そのあいだに男の生活はがらりと変わった。

 安宿から脱し、妹と二人で部屋を借りた。毎日のように肉を食べ、酒を飲むことが日課になっている。それから、生まれてはじめて新品の服を買ったことは、男にとって大きな出来事だった。ついに、男が夢みた都会の生活がえられたのだ。

 そうして過ごしていたある日、男はふと考えた。この仕事なら妹もできるのではないかと。ひとりでこの稼ぎなのだから、妹も雇ってもらえれば、より贅沢ができる。その日のうちに男は屋敷の事務室で相談し、妹も雇ってもらえることになった。男とおなじく最初は怯えていた妹だったが、すぐに仕事に慣れた。慣れてしまえば、あとは高い賃金に喜ぶだけだ。妹は念願だった都会の美容室へいき、綺麗に切りそろえられた茶髪のおさげは彼女の自慢となった。






――――――――――







 妹も一緒に働くようになり、ついに貯金ができるようになった。仕事を終えて肉を食いながら、夢を語る時間を二人はおおいに楽しんだ。家を買うか、結婚の持参金にするか、なにか店でも開くかと、明るい話題は二人を笑顔にした。


 ある日ことだ。妹が慌ててかごをひっくり返した。

「どうしよう! 兄さん、マスクをなくしてしまったみたい」

 妹が言うように、着替えを入れていたかごにマスクは見当たらない。男は考えた。マスクの予備を借りにいくとすれば、一度また私服に着替えて事務室にとりにいくしかない。そしてまた作業服に着替える。与えられた作業服のまま施設の中を歩くのは禁じられているからだ。作業は短時間とはいえ、あまり時間のロスをしたくはなかった。男は考えた末に、自分のマスクを妹に貸すことにした。匂いにはもう慣れていたし、短時間ならば問題ないだろうと判断した。


 そうして作業を開始したが、しばらくすると水槽のなかで、ばしゃんと大きな音が響いた。死体が動いている。最初はガスのせいだと思っていたが、いつものような、ひっくり返ったり口や鼻から空気がもれる程度のものではない。その死体は、まるで生きているかのように、手足をばたつかせていた。これは異常だ――――そう男が気づいた時には遅かった。死体がひとつ、水槽から這いでてきている。かくかくとした動きで上体を起こすと、男に向かって歩きだした。生きているのかという疑いは、すぐさま否定された。関節はへんな方向へまがり、首は折れて胸のあたりに頭がぶら下がっている。湿った青白い死体が、びちゃびちゃと音をたて近づいてきた。


 ぎょろりとした死体と目があい、男は恐怖で凍りついた。逃げたいのに足が動かない。だがこのままでは最悪の事態をむかえかねない。男は震える手でデッキブラシを強く握ると、勢いよく死体を殴りつけた。殴られてなお、死体は手足を蠢かせる。男は必死に死体を殴りつけた。何度も、何度も、何度も――――肉が裂け、骨の折れ、顔がわからなくなるまで湿った体を殴り続けた。血の気のない肌が、次第に赤黒く変色していく。それでも殴り続ける。ようやく死体が動きを止めたとき、男は妹の存在を思い出した。


「無事か――――」


 背後をみるが、そこには誰もいない。


 ふと足もとをみると、死体が転がっている。無惨に殴り潰された頭から、茶髪のおさげが床にのびていた。

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