後編
――薄紫の向こうに夜空が押しやられ始めた頃。
床に転がっていた平浪が上半身を起こし、腹をぼりぼりと掻きながら、少し離れた床で既に身を起こしていたりんに声を掛けた。
「よう、りんさん、早いな。まだ夜明けだぜ。俺は漁に出るけど、好きなだけゆっくり寝ててくれ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、しっかりと休ませていただきましたし、いつもこれ位の刻限には起き出しておりますから。それよりも、腕の具合はいかがでございましょう」
「もうすっかりだ。どっちかってえと、昨夜の酒の方が残ってるな」
平浪は豪快に笑って、腕をぐるぐると回して見せた。
「それより、すまねえなあ、昨夜は先に寝ちまって。火の始末もやってくれたんだな。助かったぜ」
「いえ、勝手を致しました」
そこに平浪の背後の壁の穴から斑が姿を現した。
「何だ、お前、昨夜は出掛けてたんか」
斑は平浪の前を通り過ぎ、りんの前に行儀よく座ると、ちらりと顔を上げた。その小さな顔の口元で、何かがふるふると蠢いている。斑は咥えていたそれをぽとりと床に置いて、前脚でちょいちょいと転がして見せた。
「何だ、そりゃ?」
平浪がりんと斑ににじり寄り、床を覗き込んで顔色を変えた。
「お前、こりゃ海毛虫じゃねえか! こいつは毒があるんだぞ! おい斑、口は大丈夫か!」
慌てて斑を抱き上げ、床に転がるそれを弾き飛ばそうと腕を振り上げた平浪に、
「にょおん」
「お待ちください。平浪様、よくご覧くださいませ、海毛虫ではございません。これは『舟曳毛虫』と言います。毒はございませんよ」
「舟曳毛虫?」
斑に顔を足蹴にされ乍ら、平浪が改めて床の上に目を向ける。
「そんなの、初めて聞くぞ」
「これは本来、川の上流に住まうものですから、海で見られることは滅多にございません。滝を登り、更に上を目指す習性がありますから、とても力が強く、釣り舟の下に潜り込んでしまうと、漕ぎ手に逆らい船を曳いてしまうのでその名が付いたのだとか。これは清流を好みますから、連日の大雨で濁った水を嫌い、こちらまで流れ着いて来たのでございましょう」
確かにこの漁村にも、山の方では大雨であちこちが崩れ、大変なことになっているという噂は届いていた。
「はあ、こんな小さい形でねえ。とてもそんな力持ちには見えんが……ははーん、さては昨夜の話の続きだな? まったくりんさんは冗談が上手いな、ガハハハ」
「ふふふふ」
平浪が海毛虫によく似たそれをまじまじと眺めた。確かに沢山の脚がある海毛虫と違い、こちらの脚は身体の横に生えた毛の隙間に左右に二対しか見当たらない。しかも、頭とおぼしい所からは、二本の長い髭のようなものが伸びている。
と、斑が平浪の腕から逃れ、再びりんの前に座ると、鼻で舟曳毛虫をりんに押しやった。
「これを、わたくしに?」
「にゃ」
「なんだお前、りんさんに贈りものの心算なのか」
りんが屈み込み、斑の耳元で囁いた。
「もしや、夜の間中これを探して下さったのですか?」
「にゃ」
「なんとお優しいこと。ありがとうございます」
「? 斑がどうかしたかい?」
「いえ。斑様は美しいだけでなく、優秀な狩り手でいらっしゃいますね。では、有り難く頂戴いたします」
りんは屈めていた腰を伸ばすと、前脚で顔を洗っている斑に頭を下げ、腰に下げていた竹筒の中に舟曳毛虫を滑り込ませた。
「そんな所に入れて、死んじまったりしないのかい?」
「いいえ。見た目よりも丈夫ないきものでございます。一月でも二月でも、このままで過ごすことが出来ます」
「そうか。けど、そいつをどうすんだ? もしかして薬にでもするのかい?」
興味深げな平浪に、りんは常に持ち上げている口角を更に上げ、
「いえ、ある方にお渡しすることになっております。自由のきかない身の上の方ですから、こういった珍らかなものをわたくしが見つけた際には、お届けすることになっているのです」
「こんなのを欲しがる人も居るんだな。高く買ってくれるとか?」
「――興味が、おありですか?」
りんの細い目の奥が昏い光を帯びた。斑の背中の毛がぞろり、と、毛羽立つ。それに気付かず平浪は、ふむ、と小さく唸り、
「そら、銭になるなら興味はあるさ。けどまあ、俺ぁ今の暮らしに満足してるし、欲かいても、屹度碌なことになんねえよ。なあ、斑」
「……にゃ……」
りんから立ち上っていた気配が霧散し、斑の背から緊張が抜ける。
「代価は頂けません。なにせ、親同然の方でございますから」
「ふうん? ああ、だからあんなに面白い話を集めてるんだな。商売の為なんて言ってたが、本当はその人に話して聞かしてやりたいんじゃないのか? そんな面してりんさんは案外優しいな、ガハハハ」
「にゃあん」
斑が耳をぴくりと動かした。遠くから、漁師仲間が平浪を呼んでいる声が聞こえる。
「おっと、もう行かんと。りんさんはゆっくりしててくれて構わないぜ」
「いえ、わたくしももう出立いたします。平浪様、斑様、大変お世話になりました」
りんが軽く身支度を整え、柳行李に手を伸ばす。
「こっちこそ、薬をありがとな。昨夜も楽しかったぜ。気が向いたら、いつでも寄ってくれよ」
「ありがとうございます」
「それじゃあな」
一足先に外に出た平浪が「ああそうだ」と呟き、小屋の脇にまわった。そこに干してあった海藻に手に取り、出て来たばかりの小屋に戻って、
「りんさん、これ、良ければ持って……って、ありゃ?」
そこに薬屋の姿は無かった。平浪の視線の先、藁座の上で体を丸めた斑が眠たげな顔を上げ、小さく「にゃあん」と鳴いた。
首を傾げ、小屋の内と外を見まわす平浪の鼻を、微かな樟脳のにおいがくすぐった。