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前編

 海毛虫ウミケムシ


 毛虫に似た環状動物

 夜に海中を泳ぎ、その速度は比較的速い

 身体の側部に持つ剛毛は有毒である

 よく日に焼けた逞しい身体の男達が、砂浜に引き上げたそれぞれの小舟の上に網を広げ干している。やや離れた処では、これまたよく日焼けした女達が、破れた網を繕う。大きい子等はそれぞれ得意にする釣り竿や銛で獲物の大きさを競い合い、小さな子等は波打ち際辺りの砂を掘り返し、貝探しに夢中だ。


 もうすぐ昼になろうかという頃合いの白い陽射しが砂と波にきらきらと散る、何とも長閑な漁村の一角(いっかく)で、


「うわああ、い、痛てえ!」


 大きな叫びが上がった。仲間達が何事かと声の方へ顔を向けると、まだ若い漁師が右手を押さえ、蹲っている。


「どうした、平浪(ひらなみ)!」


 近くに居た仲間の何人かが、平浪と呼ばれた若者の許に駆け寄った。見れば、痛みに顔を歪める平浪の手元の網には、青く透き通った小袋と紐が絡んでいる。


「馬っ鹿だな、カツオノエボシに触れたんかい!」

「……気付かんくて、つい……」


 仲間の一人が柄杓に海水を汲んで来て、早くも蚯蚓腫れの浮き始めた平浪の掌から腕にかけてを洗い流してやる。強い痛みがあるのだろう、平浪は筋肉質の大きな身体を縮込め震えていた。


「おい、誰か、薬を持ってこい!」

「かしこまりました」

「へ?」


 背後から聞こえた隙間風を思わせる声に、一同が振り返る。いつの間にやら、平浪を囲む人垣の隙間から、ひょろりとした影が平浪を覗いていた。

 何処か気圧されたように漁師達の輪が割れた。その隙間に身体を滑り込ませた人物は、背負っていた柳行李を砂に降ろして平浪の隣に屈み込み、腫れた腕を一頻り観察すると、


「どなたか、もっと潮水をお持ちくださいませ」


 自分達を囲む男達に声を掛けた。そして、漁師達が次々と運んでくる海水でしっかりと平浪の手腕を流し終えると、柳行李から掌程の小さな壺を取り出し、


「こちらをお試しくださいませ」


 壺に詰まった薄黄色の膏薬を細い指に取って、蚯蚓腫れの浮いた太い腕にたっぷりと塗り付けた。

 間もなく、脂汗を浮かべていた平浪の表情が緩み、ほっと息を吐いた。


「もう大丈夫なのか」

「おう、痺れちゃいるが、痛みは殆ど無え」

「それはようございました」


 立ち上がった声の主に、一同が改めて目を向ける。

 旅装束に身を固めたその人物は、何とも奇妙な印象だった。

 白くつるりとした顔の中で常に三日月に撓んでいる、細い目と薄い唇。凹凸の少ない身体から男だろうと察しはするものの、屈強な海の男達に交じるとそれも怪しく見えて来る。細い胴から伸びる首と手足には指以外にしっかりと布が巻かれ、恐らく全身がそうなっているのだろう、襟元から僅かに覗く胸元にも同じものが見て取れた。全体的に、何処か木偶を思わせる風体の男だ。

 そして、におい。

 その人物を中心に、樟脳のにおいが潮風に混じる。


「念の為に、こちらをお飲みくださいませ。毒の中和を助ける効果がございます」


 ぽかんとしたまま差し出された丸薬を受け取った平浪は、無意識にそれをごくりと飲み下し、そこでようやく慌てて立ち上がった。


「ありがとう、助かった。あんた、もしや医博士(くすりのはかせ)なのかい?」

「いえ、通りすがりの旅の薬売りでございます。もしや、余計なお世話だったでしょうか?」

「とんでもねえ! こんなに凄え効き目の薬、見たことねえぞ。喜んで金を払うさ。幾らだい?」


 薬売りが口を開くより早く、


「凄え薬だな。なあ、俺にも売ってくれ」

「俺にも一つ頼まあ」

「あたいにも売っとくれ」

「あたしは子供の疳の虫の薬が欲しい」


 いつの間にか十重二十重に彼等を取り囲んでいた村人達が、一斉に薬売りに手を伸ばした。


 ――半刻後。


「あの……騒がしい奴らばっかりで、なんか、すんませんでした」


 平浪が薬売りに申し訳なさそうに頭を掻いた。


 ざざあああん


 波音の響く浜には既に二つの影しかない。少し前まで彼等を取り囲んでいた村人達は、買った薬を手にそれぞれの家へと帰っていた。

 薬売りが細い目を、更に二日月にまで細める。


「とんでもございません。わたくしの方こそ、思わぬ商売の機会を得られました。お陰様で路銀に余裕ができましたので、先程の薬代は結構でございます」

「そうはいかねえ! 海の男ってのは義理堅いんだぜ。さ、幾らだい? 何なら、俺の秘蔵の珊瑚の珠なんてのはどうだい?」


 平浪の勢いに薬売りは少し考え込み、小さく頷いた。


「では、今宵の宿をお借り出来ませんでしょうか?」

「うん?」

「この辺りには滅多に足を延ばさないものですから、寝泊まりできる当てがないのです。旅暮らしに慣れてはおりますが、やはり野宿よりは屋根の下で過ごせれば、と」


 平浪はにかっと笑い、拳で己の胸を、どん、と叩いた。


「なんだ、そんなことか。掘っ立て小屋に独り暮らしだから碌なもてなしは出来んが、それで良けりゃあ、いつ迄でも泊ってってくれ」

「ありがたいことでございます」

「そうだ、ちゃんと名乗って無かった。俺は平浪ってんだ」

「『クスノキのりん』と申します。りん、とお呼び下さいませ」

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