一日目
白い光が瞼を通し瞳孔に届く。瞳孔が縮まるのを感じ目を開く。
「おはよう、明」
母さんがカーテンを開け、朝日を招いている姿がそこにあった。
昨日のことを思い出すと首元が熱くなる。これで良いんだと割り切ろうにも、やはり胸が痛くなる。
「明、潤羽ちゃん昨日来た? 家まで荷物を取り戻って来ても、潤羽ちゃんと会わなかったから」
「‥‥‥まぁ、来たよ」
「一応、交通事故で軽く怪我したって言っておいたけど、それでも心配かけちゃうわよね。そうだ、焼きプリン買ってきたから、もしお腹すいたら食べてね」
と、一つ二つと焼きプリンをエコバックから取り出し、冷蔵庫に詰めていった。
「昨日、潤羽ちゃんと何かあった?」
エコバックを畳みながら母さんは問う。僕の顔を見て感づいたのだろうか。
しかし、今回は母さんの介入する余地はどこにもない。
「いや、別に」
「そう‥‥‥。じゃ、母さん仕事に行ってくるから、また夜ね! 何かあったら電話するのよ?」
と言って母さんは出て行った。今日の母さんは何だか、から元気と言った具合だ。元気を装っているがやはり辛そうだ。
焼きプリンを一つ取り出し一口だけ食べる。甘い。それだけだ。
死刑囚は死ぬ前に好きなものを食べれるらしい。だけど、好きなものを食べられたとしても、死を目前にして味なんて分かるものなのだろうか。
脳裏に浮かぶ、昨日の出来事が。
余命宣告に潤羽との初めての喧嘩。初めての喧嘩だったのだ。このまま来なかったらどうしよう。仲違いまま僕が死んでしまったらどうしよう。潤羽は悲しんでくれるだろうか。もしかしたら何も感じてくれないかもしれない。それが、何よりも怖い。
「嬢ちゃん、バナナ食べるかい?」
突然、しわくちゃな声が横から聞こえてきた。横というのは、隣のベッドからだ。
仕切るカーテンを開くとそこには、もう年齢九十は超えているであろうおばあさんが、顔だけをこちらに向けている姿があった。
「リンゴもミカンもあるから、好きなものをお食べ」
と、籠に入れてある果物を目線で「どうぞ」と言っていた。
昨日来た時は静かすぎて誰もいないと思っていたけれど、実際にはおばあさんは寝ていてそれに気づけなかっただけだったのだろう。
「ど、どうも」
もしかしたらこの人も、癌で入院しているのかもしれない。はぁはぁと息を切らしており、僕より辛いのは見て取れる。
「この病院はね、私が成人したときに出来たものなんだよ」
「そうなんですね」
と、僕はバナナの皮をむきながら、おばあさんの途切れ途切れの声に耳を傾けた。
「それでね、前からの噂があってね。深夜、この病院に付属している教会にお祈りすると、その次の日は元気になれる。って言う、噂」
「へぇ、すごい噂ですね」
「うん、きっと神様のお慈悲なんだろうねぇ」
と言うと、おばあさんは眠ってしまった。暇つぶし程度に聞いてみたが、思ったより面白いものが聞けた。
黒点が少しあるバナナを一口かじる。とても甘い。最後のエネルギーを甘みに変化させているのだろうか。僕も、最後の力を振り絞って、潤羽と試合に出られたら‥‥‥。
一口かじったバナナをラップで包み、食べかけのプリンと一緒に冷蔵庫へ放り込む。
もし噂が本当なら、潤羽と一緒に試合に出られるのではないか。その妄想を膨らませながらぼーっと天井を見る。そのうち睡魔が押し寄せ瞼を重くし、昼前にも関わらず、眠りについてしまった。
※ ※ ※
次に起きたときは、夕方前。
おばあさんがひどく咳き込み、苦しみ悶える最中のことだった。
――これはやばい!
と、寝ぼけながらにナースコールを押す。まだか、まだかと焦る僕。おばあさんは更にひどく咳き込み続け、僕は段々と恐怖を知覚し始めた。
看護師の一人がやっと一人到着すると、血相を変えて廊下へ叫んだ。
「早く先生を! 永田さんがヤバい! 永田さん、永田さん!」
それから小一時間はこの病室は騒がしかった。おばあさんが落ち着き、一旦別の場所に移動になる。そしてこの騒動は終わった。しかし、その後も僕の心臓は大きく脈動し、冷や汗が滝のように体から流れ出る。
もし、僕が少しでも気付くのが遅れていたら、もしそのせいでおばあさんが死んでいたら。僕のせいだと、僕は僕を責めていただろう。
※ ※ ※
深夜、おばあさんが戻ってきた。またさっきのことが起きてしまったら、きっと僕は毎日が恐ろしくなってしまうだろう。正気でいられる自信が無い。
「嬢ちゃん、昼はありがとう」
「い、いえ」
おばあさんに話しかけられるのが怖かった。認識されるのが怖かった。同じことが起きておばあさんが死んで、僕のせいにされるの怖いから。
「嬢ちゃん、一つだけお願いできないかな」
寝たきりの体を、まるで生まれたての子鹿のようにおばあさんは立ち上がった。そして、「教会に連れて行ってください」と、震える声で頭を下げられた。もうよぼよぼになった細い首は、それだけで折れてしまいそうなほどに弱々しく、とても断る勇気なんで出なかった。
とっくに消灯時間を迎えている病院内は薄暗く、ポツポツとライトが間隔を開けて付いているだけだった。スマホのライトで照らしながら、教会までの道をおばあさんの手を引き連れて行った。
廊下はとても静かで、靴の反響音だけが飛び交う。看護師に見つかり怒られるのではと、内心ビクつきながら、いつの間にか教会の入口に立っていた。
板チョコのような扉を開くと、色鮮やかなステンドグラスが出迎えてくる。
月光に突き刺されるステンドグラスはとても綺麗で、神秘的だ。
おばあさんは、一人でフラフラと女神像の前まで歩く。ステンドグラスを通る月光に照らされながら祈るおばあさんを見ていると、今に消えてしまいそうだと儚げに感じた。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
「どうして、教会に?」
「明日は夫が死んだ日でね、その日だけは笑って過ごしたかったんだよ」
教会の噂か。ふと、昼に妄想していたことを考える。もし本当なら、潤羽と試合に出られたら。
おばあさんが明日もし元気に挨拶をしてくれたのなら、僕はこの噂を信じてみたくなるだろう。
本当なら、試合に出られるのだから。
――――――
――――
――
何を考えているのだろうか、馬鹿馬鹿しい。と僕を嘲笑った。あるわけがない。その噂も偶然か、尾ヒレ背ヒレが付いたものだろう。
教会を出ると、再び薄暗い廊下をヒタヒタと歩き病室まで戻った。おばあさんは非常に満足した様子で、「ありがとう」を口にした。
「これで安心して眠れる。ただの噂だけど、それでも希望は待てる」
「それは良かったです、いつか僕も試しいてみようかな。なんて」
「生きているうちは、何でもしてみるものだよ。やっておかないと、死んで後悔しちゃうからねぇ」
もし、噂でも、妄想でも。そこに希望があるのなら、先が短い僕にとってやる価値が生まれる。それに、ロマンがある。
潤羽と試合に出たい、出てから死にたい。それだけが、今の僕の心残りなのだから。