零日目
「ふざけないでよ!」
月下、虫のさざめき、葉と葉の掠れ合う音が病室に響くとき、僕は彼女を気付付けてしまったらしい。
僕の命はもう長くない、そう告げられたのはほんの数時間前だった。
倦怠感、食欲不振が長いこと続き病院に行った。最初はただの寝不足だったり大学勉強の疲れが出てきているだけ、そう思っていたのだが、医者からの言葉は残酷なものだった。
「余命一か月です‥‥‥。ここまで自覚症状が少ないのも珍しい。癌、それも——末期です。」
震える母さん、表情を曇らせる医者、まったく現実味を感じていない僕。その時から僕の存在が異質なものに見え始めた。
廊下に設置してあるベッドに、取り敢えずで横になるよう促され、気が付くと腕には一本の管が繋がれていた。どうやら入院することになったらしい。
母さんの姿が見えないまま、僕は自分の病室に案内される。誰もいないのかとても静かな病室だった。
病室は二人部屋で、窓側が僕のベッドらしい。ベッドの横には小さなテレビが設置されており、棚と小さな冷蔵庫、椅子が一つに机と、ありきたりな病室だ。
ベッドに腰かけ窓に目を向けると、外に月がぼーっと見える。それがどうにも眩しくて仕方がなく目を細める。
次は時計に目を向ける。カチカチと時を刻み続けるそれは、もう午後の七時を示していた。こうやって休むことなく進み続ける時計を見ていると、何かしなくてはと焦燥感が襲ってくる。
「明!」
母さんが病室の扉を開け、走って飛びついてきた。
ふるふると体を震わせている母さんは、目周りが少し湿っており泣いていた。そして体温が——熱い。
確かに僕はここにいる。こうして母さんが僕を認識してくれている。それだけで、とても安心できた。
ぎゅっと抱きしめると、母さんはそれ以上に強く抱きしめ返してくれた。
母さんは電話をしていた。
誰に、と漏れ出る微量な音声に耳を傾けると、通話先が誰なのか分かった。
「明、潤羽ちゃん今から来てくれるって」
「そう」
少しモヤッとした。いや、来てくれるのはとても嬉しかった。ただ、幼馴染の彼女にこの姿を見せたくないと、心配かけたくないと感じてしまったのだ。
それに彼女は——
「明! ねぇ、明ってば!」
ハッと顔を上げる。どれほどの間ぼーっとしていたのだろう。潤羽が心配そうな面持ちでそこにいた。
「潤羽、いつの間に」
「さっきよ、さっき! 今日学校に来ないから何でって思ってたけど、まさかこんな‥‥‥」
潤羽はただベッドで寝ている僕を見て、心配そうに手を握ってくる。
「おばさんから聞いたよ。大変だったね。何かして欲しいこととか無い?」
と、物欲しそうな目つきで僕を見る。上目遣いをしてくるその姿には、同性の僕でも来るものがあった。
しかし、大変だったで済ませて良いものかは疑問だが、確かに色々大変ではあった。
窓の外を見てみると学生が見える。うちの学校の生徒かは分からないが、その学生はバドミントンラケットを下げており、「そうだ」と言葉を続けた。
「バドミントンの大会で、優勝してよ」
僕と潤羽は、もう二週間後に引退試合を控えており、その間にこの通り入院してしまったのだ。だからせめて前回ベスト八だった潤羽には、今年こそは優勝してもらいたいのだ。
「んー、優勝できるかは分からないけど、狙うよ。もちろん」
「ダブルスペアだったのにごめんね」
「そんな気にしてないよ」
「他の人と組むことになるのかな、でも潤羽は皆と仲良いし、きっと誰がペアでも勝てるよね」
「え? 私は明と出るよ。いつ戻ってこれるの?」
「え?」
僕の命はもう長くない、長くないのだ。一年とかそんな比じゃない。『一か月』だ。
自覚症状が少ない故に、抗がん剤や色々な機械に繋がれるのは反って大変だ。だからこうして管一本だけで済んでいるだけで、もう学校には戻れない。
潤羽の顔はキョトンとしており可愛いが、しかし言葉は選べる子だ。まだ僕に未来があるなんて無責任な言葉を、潤羽が選ぶはずがない。
「まさか、聞いていないの?」
「何を?」
「僕が、一ヶ月後には死ぬってことだよ‥‥‥」
「え、え? 交通事故だって、軽い打撲だって、聞いてたのに」
どうやら母さんは潤羽に心配かけないよう、交通事故と話していたらしい。
成る程、それなら潤羽の言動と合致する。
「じゃあ! 私、一ヶ月ずっと明と一緒にいる! 試合も明とじゃないと出たくないよ」
こうなることは予想していた。だから母さんも嘘をついたのだと納得できる。
「潤羽、引退試合はどうするの。優勝狙うって言ったばっかりじゃん」
「無理、だよ。試合なんて‥‥‥どうでも良い‥‥‥」
「僕の分まで活躍してよ」
「無理だって‥‥‥」
「潤羽——」
これだけは言いたくなかった。でも、これ以上心配かけたくない。この姿も見られたくない。潤羽を独占してはいけない。潤羽は今回の試合で優勝できるって確信を持っている。
だから、僕は潤羽には優勝して笑顔で看取ってもらいたい。
僕が死ぬときは彼女が笑っている時であって欲しいから。
「——優勝するまで、僕に会いに来ないでよ」
無理やり強く笑って見せる。辛い、分かったと言って欲しくない。けれど、これ以上は迷惑をかけてしまうから。
「ふざけないでよ!」
耳鳴りが頭の中を埋め尽くした。周りが一段と暗く、そして静かに。いつの間にか病室は無音になってしまっていた。