おんがえし
会社からの帰り道、街路樹のクモの巣にかかった蝶を見つけた。見事な黒アゲハで、この美しい虫がクモに食べられてしまうのを哀れに思った俺は、蝶をクモの巣から外して夜空に放ってやった。
「もう捕まるなよ」
そんな臭いセリフを吐いて、ロマンチストな自分自身を苦笑した。
しばらく歩くと首筋にチクリと痛みが走る。慌てて首を押さえるが、なぜか力が入らない。膝をついて前のめりに倒れ込んでしまった。
人通りのない裏路地だ。回りに人の気配がない。助けを呼ぼうにも全身が痺れるようで大声がでない。
そこに、カツカツとヒールの足音が聞こえた。女性が近づいてくる。
彼女は前に座り込み、俺の顎を掴んで自身のほうに顔を向けた。
そこには美しい女性がいた。全身黒づくめで唇すら黒い。しかし妖艶な魅力を感じさせる女性だった。
彼女はニヤリと笑って言う。
「おん返しに来たわよ」
「恩返し?」
そ、そうか。彼女は黒アゲハの化身で突然倒れた俺を助けてくれるのでは……?
相変わらずのロマンチストだと思ったが、彼女は俺を乱暴に引きずって空きビルへと連れて行く──。
そして俺を背中から抱くと、鋭い牙を突き立てて来た。
痛い! だが声が出ない。彼女は音を立てて俺の体液を吸う。
「よくも食事の邪魔をしてくれたね。代わりにお前を食ってやる!」
そう言って彼女は食事を再開した。
コイツはあの時の黒アゲハじゃない。クモのほうなんだ。食い物の怨み、つまり『怨返し』なのだと、薄れ行く意識の中で理解した──。