■第9話 皇帝陛下と花の愛し方
「私は庭だと聞いたのですが」
「はい、庭です」
「これは公園の間違いではないでしょうか」
「いえ、庭です」
私は今、城の敷地である広大な庭園を散歩している。
右手にポメコ、左手に皇帝陛下という、不可解な布陣で。
その不可解な布陣も、壮大な庭園への感嘆が勝り、違和感はなくなってしまった。私は陛下に手を繋がれて、ポメコは私に紐で繋がれて、花壇の続く美しい道を歩く。ぽんぽんと弾むように進むポメコは、目で追うだけでも楽しい。
季節の花の色彩を楽しみつつ、舞う蝶に気を取られたり揺れる葉っぱに気を取られたり忙しいポメコの様子に癒されつつ、煉瓦の敷かれた散策路を進む。
「帝城の敷地って本当に広いんですね……。庭園の散策で日が暮れそうです」
花壇の続く道の向こうには、ちょっとした森さえ見えているし、小屋という規模ではない屋敷さえ建っている。
「広く見えますが、純粋な憩いを目的とした庭園の範囲はそこまで広くありませんよ。あの辺りは希少な植物の保護に、あそこにある館の周りは薬草の研究用、向こう側は菜園として使っていますので」
「へえ……。保護とか研究とかもしてるんですね。知りませんでした」
「はい。国務の一環ですね。というわけで、ほぼ実利目的の庭です」
「実利目的……」
城の敷地も無意味に広いわけではないらしい。なお、「そこまで広くない」と言われた憩い目的の庭園エリアも、わたしからすれば十分に公園以上の規模である。
「むしろ、目を楽しませる目的だけの庭園の存在意義を計りかねていて……。一応、先帝から引き継いだ状態を維持してはいるのですが、それも惰性のようなものです。……リーニャは、この庭園をどう思いますか?」
「え。素敵な場所だと思いますけど……。お弁当があれば一日中過ごせます」
「それはよかった。リーニャが素敵だと思うのなら、ここは素敵なのだと思えます」
「……。陛下は、この庭園、というよりは、花があまり好きではないのですか?」
皇帝陛下自身はこの庭園を素敵だと思っていないような言い方が不思議だったので、気になって訊ねてみたら、その表情が少し翳った。
「好悪の感情を抱く以前に、歩くだけなら花畑も更地も大差ないというのが、正直な感想です」
人の服を見て可愛いを連呼していた人の発言としては意外だったので面食らった。
「な、なるほど……」
花畑も更地も大差ないと言い切った皇帝陛下は、色彩豊かな花が溢れる花壇に目を向けたものの、すぐに視線を切って前を向いた。その表情には、どこか諦念のようなものが見える。
「花を美しく思うのが通常の感性だという事も、この庭園が人から見れば素晴らしいものだという事も、理解はしていますが実感としてそう思ったことありません。……こういう感性は、あまりよくないものだとは思います」
「え、うーん……。よくないもの、ということはないと思いますけど。草花に心が動かない人だって普通にいるでしょう。なので普通の感性の範疇では」
「……。普通」
「はい。近所のお姉さんは『食えねえものを育てる趣味はねえ』と、庭には野菜しか植えていませんし。知り合いの神官様は『花を育てているといい奴に見える』という完全なる打算で、教会に花を植えていますし」
私の知る二大「草花に心が動かない人間」を上げると、皇帝陛下は「ふっ」と吹き出した。
「それは気が合う」
「でしょう。前者は恐らく『花畑より更地の方が開墾しやすいから好き』とまで言うでしょうから、大差ないという感想に留めた皇帝陛下の方が、まだ花に温情があるとさえ言えますね」
近所のお姉さんを思い浮かべながらそう付け足すと、皇帝陛下はくすくすと笑って、感心したように頷いた。
「なるほど……。上には上がいましたか」
「あと、後者の言い分通り、思いはどうあれ実際にこの庭園を維持している陛下は、訪れた人にいい印象を与えると思います。直接花の手入れをしているのは庭師の皆さんだと思いますが、その指示をしているのは陛下ですから」
「いい奴に見える、と。それは素晴らしい効果ですね。この庭園の存在意義がやっと理解できました」
皇帝陛下は立ち止まり、再び花壇に目を向けた。今度はすぐに視線を切ることはせず、どこか楽しそうな表情で、ゆっくりと花を眺めている。
「皇帝の印象向上用の庭園として、今後も運用を続けましょう」
花に美しさを感じないがその価値には理解が及ぶと言った皇帝陛下らしい言葉が、なんだか面白くて、思わず頬が緩んでしまう。
「ほぼ実利目的から、完全に実利目的の庭に昇格ですか?」
私がちょっと笑いながら言ったものだから、皇帝陛下も笑って、「昇格です」と答えた。今しがた「目を楽しませるだけ」から「皇帝の印象向上用」に昇格を果たした庭園を眺めながら、私も皇帝陛下も声を潜めて笑う。眼前に広がる花の美しさはそっちのけで、ただお互いの言葉に対して。
蝶が舞い花が溢れる、絵に描いたように美しい庭園の中で柔らかく笑う皇帝陛下の姿は、今の会話を聞いていない人が見れば、それはそれは草花を愛する感じの、心優しい青年に見えるだろう。今の姿から「血染めの皇帝」という不穏な異名を思い起こす人は、きっといない。私にさえ、彼が懺悔室で話したようなことを実行した人物には、到底見えないのだから。
「あ、そうだ」
皇帝陛下の視線が、花から私に移る。地獄の業火の色と評される瞳が、今はどこか甘やかな色を帯びていて、リンゴ飴に喩えた方がずっと相応しいような気がする。こちらに優しい眼差しを向ける皇帝陛下の姿が、なんだかきらきらと輝いて見える。眩しい。陽の光を受けた銀髪が輝いて、物理的にも眩しい。きらきら染めの皇帝である。
きらきら皇帝は、いいことを思いついた子供のような、無邪気とさえ言える笑みで言った。
「三代前の皇帝が城内で粛清した人間をこの庭園に埋めて処理したそうですから死体がいい感じの肥しになって花の育成に寄与したかもしれない、という豆知識を書いた看板を立てれば、資源を有効活用している感じが出てさらに好感度が上がるでしょうか」
「台無しです陛下」
なんか、もう、色々と。
「そうですか……。そうですよね。もう跡形もないであろう肥やしに言及しても響きませんよね。では、看板には『皇帝の印象向上用の庭』とだけ記すようにします」
「台無しです陛下」
「えー……。駄目ですか?」
皇帝陛下の印象下降を阻止するために「言わぬが花です陛下。黙っておきましょう」と看板の新設を阻止していると、「きゃん……?」と、ポメコが控えめに鳴いた。小首を傾げてこちらを見上げるポーズは、ポメコと会話が成立する皇帝陛下でなくても、「あの、皆さん、散歩の続きは……?」と訴えていることが分かった。もう。安定の可愛さ。
「散歩の続き、しましょうか」
皇帝陛下の言葉に頷き、止まっていた歩みを再開する。と、皇帝陛下は繋いでいた手をするりと滑らせ、指を絡めるような繋ぎ方に変えた。いわゆる恋人繋ぎである。思わず顔を見上げる。優雅な微笑みを返された。
「あの陛下」
「なんでしょう」
「なぜ繋ぎ方を変えるのですか……?」
「リーニャの手が小さくて可愛いのでつい。駄目ですか?」
登城時に手を引かれて歩いていた時は、これから何が始まるのかという不安が頭を占めていて、手を繋いでいること自体にあまり感想は湧かなかった。庭園の案内が始まってからも、ちょっと引っ掛かりはしたけれど、保護者の方に引率されるお子さんの気持ちを抱いたくらいだった。
けれど、こうして恋人のように手を繋がれると、さすがに思うところはある。
リンゴ飴のような甘い瞳を向けられた後は特に。
きらきら皇帝の幻影の後だとなおさら。
「いやその……この繋ぎ方はちょっと恥ずかしいなと思っただけで」
「……」
皇帝陛下は笑みを消して、まじまじとこちらを見て、感動したように言った。
「リーニャに手を取られて恥じらう感情があったんですか」
「陛下は私を何だと思っているんですか……」
「リーニャ日記に書かないと……。耳を赤くして恥じらうリーニャが可愛かったと」
「器物損壊および放火の罪に問われようと、断固その日記を燃やしたいです」
「リーニャは終身刑が好きですね」
抵抗虚しく恋人繋ぎのまま散歩は続行され、上機嫌の皇帝陛下と上機嫌のポメコに挟まれて庭園を回り、やがて休憩用と思しき場所に着いた。薔薇の巻きついた柱が支える屋根の下に、クッションが置かれた居心地の良さそうなベンチがある。
足元のポメコを窺うと、すっかりくたびれた様子だった。まだまだ子犬だし、ずっと弾んでいたし、無理もないだろう。私も皇帝陛下も疲れてはいないけれど、ポメコのためにはここで足を休めた方がよさそうだ。皇帝陛下を見ると、彼も同じ考えだったようで頷いた。
「少し休憩しましょうか」