■第8話 子犬と再会
「この部屋で陛下をお待ちください」
身支度を整えると、ライズさんにより別室へ案内された。
「わたくしはこれで失礼いたします。何かあれば遠慮なくお呼びください。天井から馳せ参じます」
「入り口から馳せ参じて欲しいです」
というわけでライズさんも退室し、応接室らしき部屋の長椅子に、ひとり取り残される。お着替え前に立ち寄ったお手洗いはノーカウントとして、登城以来初めての、ひとりきりの時間である。華美ではないけれどそれでも豪奢な部屋の内装に、あらためて自分が場違いな世界にいる感じがして、現実味に乏しい。
朝食を摂り、身支度を整え、流されるままにこの城に滞在しているのだけれど、果たして皇帝陛下は私を帰宅させる気はあるのだろうか。不安だ。
昼頃には使者を父母の元に向かわせると言っていたけれど、一体どんな説明がなされるのだろうか。不安だ。
今からこの部屋に皇帝陛下が来る。再び近接戦が始まる。何が始まるんだろう。不安だ。
急用を思い出したことにして、さりげなく帰っちゃ駄目かな……。
「リーニャお嬢様」
「ひっ」
音もなくライズさんが戻って来ていた。
「違います、逃走を試みたわけではないです、ちょっとプチトマトを赤く塗る内職をしに家に戻ろうかなと思っただけで逃走を試みたわけではないです」
「?」
すわ心を読まれて拘束衣を持って来られたのかと思ったが、言い訳を募る私に小首を傾げるライズさんが手にしているのは、硝子杯の載ったお盆だった。
「お喉が乾いているかと思いまして、レモン水をお持ちしたのですが……」
「ぜひいただきます」
レモンの輪切りとミントの葉が浮かんだ水を湛えた何とも涼やかな硝子杯をわくわくしながら受け取ると、ライズさんはぺこりとお辞儀をして再び退室した。気配りの達人、ライズさん。レモン水、美味しい。
冷静になろう。私は皇帝陛下に招かれた身である(手段はどうあれ)。思い付きでこっそり退去など刑罰ものの不敬だ。絶対にしてはならない。
そして我が身を振り返れば、私の態度はおよそ、自国の皇帝に対する平民のそれではない。皇帝陛下は帝国で一番偉い人である、という厳然たる事実を改めて認識しなければ。リーニャ日記等の気になる発言に、つい物申してしまっているけれど、本来は私が気軽に意見することなど、決してあってはならないお方なのである。
反省しよう。平身低頭、恭順の姿勢こそが私のとるべき姿。
誓おう。今後、皇帝陛下がいかなる言動をしようと、私は決して物申さない、突っ込まない。
「きゃん」
きゃん?
レモン水を大事に飲んでいると、どこからか犬の鳴き声が聞こえた。気になって長椅子から立ち上がり、部屋からそっと顔だけを出す。
廊下の向こうに、皇帝陛下が立っていた。
その足元には、白くてふわふわな子犬がいる。
ちょこんとおすわりをする子犬を見下ろす皇帝陛下の横顔は、可愛らしい生き物と対峙する人間とは思えない程、しんと冷え切っている。まるで幾千の兵に指示を与える将軍かのような厳粛な表情だ。
雪の妖精のごとき愛らしいあの子犬は、今朝、私を見事に足止めした子犬に違いない。おそらく犬種はポメラニアン。昔々どこかの王国のポメラニアンという名のお姫様が、その犬の余りの可愛さに魅了され、自らの名前を与えたという逸話のある、魅惑のふわふわ犬である。
皇帝陛下も子犬も真剣な雰囲気で見つめ合っており、私に見られていることに気付いていないようだ。
その表情に相応しい冷徹さを感じさせる声音で、皇帝陛下は言った。
「リーニャ陥落1号。お前の主人は誰だ」
「きゃん!」
「よろしい。主人の命令には?」
「きゃん!」
「よろしい。リーニャ陥落1号、お前に命令を与える。リーニャに全力で仕えろ。はいこれがリーニャの寝間着」
「きゃん……?」
「ああ、今朝会った少女だ。よく匂いを覚えていた。この匂いの持ち主であるリーニャに全力で仕えること、これがお前に与える至上命令だ」
「きゃん!」
「その通り。命令遂行期間は、今この瞬間からその命尽きるまでとする」
「きゃん!」
「いい返事だ。では、リーニャ陥落……」
「一つの現場で複数の突っ込みどころを生み出さないでくださいますか……?」
たまらず歩み寄って声を掛けると、皇帝陛下はこちらを向き、「リーニャ」と、途端に笑顔になった。
「可愛いですね。寝間着で髪を下ろしたリーニャも無防備で愛らしかったですが、そちらの装いもとても魅力的です。服も髪も大変お似合いです。しかも部屋で大人しく待たずにわざわざ出向いてくれるなんて。視覚情報と行動の二重で可愛いを体現するリーニャの可愛さが可愛いです」
皇帝陛下は私の見た目に頓着がないのだろうとか、装いを変えたら何かしらの反応があるのかなとか、そういう認識は誤りだったようだ。何かしらどころではなく、めちゃくちゃしっかり反応された。特に後半はちょっと何を言っているのか分からない。
しかし今は皇帝陛下の反応に反応をしている場合ではないのでひとまず流そう。もっと大事なことがある。
「そんなことないとは思いたいんですけど、まさか『リーニャ陥落1号』がその子犬の名前ですか?」
「え、そうですけど」
きょとん顔で肯定するんじゃない。
「なぜ人の寝間着を当然のように持っているんですか?」
「三メイドに回収させたからですね」
セットさんとシャインさんが途中退室したのはこれか。
「あとなぜ子犬と会話が成立しているんですか……」
「部下との意思疎通は上に立つ者の義務です」
と、順番に突っ込みどころを消化している闖入者を不思議そうに見上げていた子犬が、とてとてと覚束ない足取りで足元にやってきて、ふんふんと匂いを嗅いで、パッと顔を上げた。
「きゃん!」
主人の「至上命令」の対象であると判じたらしく、きちんとおすわりをし直して、それは嬉しそうに尻尾を振ってこちらを見上げてくる。さっそく全力で仕えてくれてるよもう。もう。可愛いなもう。
「く……っ。なで……撫でても、いい、ですか」
「もちろん」
誘惑に負け、諸突っ込みの続きを放棄し、身を屈め、愛すべきふわふわにそっと手を伸ばす。
「……えー……柔らか……耳……可愛……えー……。おて。おてした! なんておりこうさん。よーしよしよし」
子犬に夢中な私を見下ろし、皇帝陛下は満足そうに言った。
「リーニャ陥落1号をお気に召したようですね」
全くお気に召さない子犬ネームを耳にして我に返った。
「その名前どうにかなりませんか」
「駄目でしたか? 目的に即した適切な命名だと思うのですが」
「およそ生物に付ける名前ではないです。即時改名を要求します」
「リーニャがそう言うのなら。では、そうですね、リーニャ籠絡……」
「ポメコにしましょう」
皇帝陛下のネーミングセンスに任せてはいけないことを悟ったので、すかさず代案を出すと、若干憐れむような目を向けられた。
「ポメコ……ですか。うん……リーニャって……命名の才能が……。あ、いえ、何でもありません。うん素敵な名前ですポメコ最高ですねさすがリーニャ」
「陛下にだけは命名の才能をとやかく言われたくないです」
「リーニャの望みですからポメコに改名しましょう。リー……ポメコ。今日からお前はポメコだ。いいな」
「きゃん!」
賢きポメコは自身の改名に対し即座に順応したようで、呼び掛けた皇帝陛下の方を見て返事をした。ふわふわの見た目も愛くるしいけれど、その健気さも可愛い。
「視覚情報と行動の二重で可愛いを体現するポメコの可愛さが可愛い……」
「ちょっと何を言っているのか分かりませんが、リーニャに喜んでもらえて嬉しいです」
「陛下にだけは言われたくない第2弾です」
「リーニャの着替えも終わりましたし、リー……ポメコのお披露目もできましたし。次は、そうですね、一緒に庭の散歩でもしませんか」
「散歩」
朝食、身支度、子犬、そして散歩。
登城時には、平和な日々に永遠のさよならをするくらいの覚悟していたのだけれど、今のところ、至極平穏なことしか起きていない。皇帝陛下は案外、本当に普通に、「仲良くなるところから始める」を実践するつもりなのだろうか。
前に感じた通り皇帝陛下は私と同じ人類であり彼岸の存在というわけでもないんだし、パンケーキで喜ぶ素直な青年でもあるし、今のところ平穏無事だし、そんなに帰りたい帰りたいと思わなくてもいいのかもしれな……。
いや落ちつけ。知らない間に氏名、住所、筆跡、靴の大きさ諸々を把握された上に結婚式の準備まで進められているのは冷静に脅威である。仲良くなるところから始まっていない。仲良くなる前に最終段階に入っている。諦念を抱いてこのまま流されている場合ではない。
「散歩は嫌いですか?」
「いえ、好きですけど……」
「では行きましょう」
「でも、その、あまり長居するのもお邪魔かと思うので、そろそろお暇……」
「ポメコも散歩をしたがっているようですが」
「ぜひお供します」
この白くてふわふわな愛すべき存在との散歩を断れる人間がいようか。
「では、ポメコに『散歩準備』と言ってみてください」
言われた通り、こちらを見上げて待機している健気なポメコを見て「散歩準備……?」と言うと、ポメコは「きゃん!」と返事をして、とたとたと走り去っていった。戻って来た。口には首輪と紐を銜えている。おりこうさんにも程がある。
ポメコをよしよしと撫で、首輪を装着、紐を繋ぐ。白くてふわふわな子犬と散歩できる興奮に胸を躍らせながら紐の先を右手で持つと、空いている左手は皇帝陛下に取られた。なぜ。馬車を降りた時もそうだったけれど、息をするように手を繋いでくる皇帝陛下である。
「あの陛下」
「なんでしょう」
「移動時に手を繋ぐのは基本仕様なのでしょうか」
「城に不慣れなリーニャを案内するのに必要な措置ですね」
「案内なら陛下の後ろを付いて行きますので、手は別に……」
「紐で繋がれる方がいいならそうしますが」
「ぜひ手でお願いします」
大人しく手を繋がれる私に、皇帝陛下は優雅な微笑みで頷き、「庭はこちらです」と案内を始めた。
作中でリーニャが語ったポメラニアンの説明は、この世界のものです。フィクションなので、「ポメラニアンの名前はポメラニアン姫が由来なんだぜ!」と、うっかり誰かに言ってしまうと「えっ……」という顔をされます。お気を付けください。