■第5話 皇帝陛下と朝食
「好きな人を自宅に招くと言うのは、嬉しくもあり恥ずかしくもありますね」
「自宅と表現されると違和感しかない規模なのですが……」
私の手を引いて歩く皇帝陛下は上機嫌だが、皇帝陛下に手を引かれて歩く私の気は重い。
皇帝陛下にとっては自宅に違いないのだろうけれど、城である。
庶民が登城すること自体は稀にあるのかもしれないが、皇帝陛下に手を繋がれて寝間着で登城する庶民は、帝国の長い歴史でも初だろう。そしてそんな初をいただいても全く光栄ではない。
「あの、陛下」
「なんでしょう」
「私は今から、どんな目に遇うのでしょうか……?」
まず仲良くなるところから始めると言われたが、どんな手段を以て実行するつもりなのか想像が付かず恐ろしい。だってこの人「攻め落とす」って言ってなかったか。さらに、城への招待方法に誘拐を辞さないお方である。手段が。手段が怖い。
戦々恐々として今後の処遇を訊ねた私に、皇帝陛下は柔らかな笑みで応じた。
「そうですね。まずは一緒に朝食をいただきたいと思います」
「朝食」
とても平和な内容に面喰った。
「うちの料理人は腕が立つ。素敵な朝食をお約束します」
「素敵な朝食」
まだ何も食べていないお腹が鳴った。
きゅー……という切ない音が、荘厳な城内に響く。皇帝陛下が、それはもう慈愛に満ちた目をこちらに向けていることが、顔を伏せていても分かった。
「リーニャのお腹が鳴る音を聞けるだなんて……。リーニャ日記に書かないと。リーニャのお腹の音が可愛かったと」
「断固阻止したいのですがっていうか何なんですかその不穏な日記は」
「機密文書です」
「機密文書窃盗罪で処されようと見つけ出して処分したいです」
「その際はこの城で終身刑に処しますね」
空気を読まないお腹がまた鳴った。再び、きゅー……という悲し気な音。再び、慈愛の目線。新手の刑罰なのかと思う。
「すみません、朝食前に連れ出してしまって。あの辺りは早朝の方が人通りも少なく誘拐に都合がいい、間違えた、招待しやすかったもので」
「どの角度から見ても誘拐なので言い直さなくても……あ」
私が立ち止まったので、皇帝陛下も立ち止まる。
さらりと攫われてここまで来てしまったが、父母もすでに起きている頃だろう。起きて私が家にいなかったら心配をかけてしまう。動転した父母は恐らく、戸棚の中とか植木鉢の底とか、可能性の低い場所から捜索を始めてしまう。
素敵な朝食の内容が少し若干かなり大分気になるけれど、今すぐにでも家に帰らないと。
「あの、父と母が心配してしまうので、ここで失礼しても……」
「ああ、それならご安心ください。ご両親に心配をかけないよう、リーニャの筆跡を完璧に模倣して『早朝フルマラソンに出掛けています』という置き手紙を残して来たので」
「うちの父母なら信じちゃうじゃないですかっていうかいつの間に筆跡の模倣を」
置き手紙を見て「あらリーニャちゃんったら朝から元気ねえ」「元気いっぱいだなあ」と言い合う父母の姿が目に浮かぶ。
「昼頃にはリーニャのご両親のもとへ使者を向かわせ、事情を説明する予定です。ただ、ありのままに皇帝が呼び出したと告げると、それはそれで心労をかけることになりますので、そこは虚実織り交ぜて説明をしようかと。ご両親に不安な思いはさせませんから、安心して城に滞在してください」
先手をしっかり打っている皇帝陛下に感心および諦念を抱き、歩みを再開する。相手は帝国の覇者である。私が考えつくような心配は先回りして対処されているのだろう。もはや流されるほかあるまい。
「……なら、いいです」
「はい。安心して朝食を堪能してください」
「……ぜひ、お願いします」
筆跡を完璧に把握されている件の不安は残るが、父母に心配をかけずに済んだ点は安心した。安心したら、別のことが気になってきた。
「あの、陛下」
「なんでしょう」
「いつまで私の手は繋がれたままなのでしょうか」
「いつまでもとお答えしたいところですが、残念ながら食堂に着いてしまいました」
控えていたメイドさんの手で重厚な扉が開かれ、長い長い食卓が真ん中に鎮座してもなお広さが損なわれない立派な部屋に通された。ここが食堂らしい。
名残惜しそうに手が離され、皇帝陛下が席に着く。私の方もメイドさんに案内され、恐る恐る皇帝陛下の正面の席に腰を降ろした。こんなに広い食卓だけれど、食事をとるのは皇帝陛下と私の二人だけだ。
「では、朝食にしましょう。いただきます」
「……いただきます……」
磨き上げられた銀製のティーカップに、メイドさんが熱々の紅茶、それからミルクを注いでくれる。手が滑って割ってしまったらとても弁償できない、いや銀食器は易々と割れないのか、などと考えつつ、怖々ティーカップを手に取る。ふわりと漂ういい香りに、弁償の恐怖を瞬時に忘れ、まずは一口。
「……ん……っ」
上等な茶葉を然るべき手順で淹れた紅茶が発揮する至上の風味に、思わず唸った。空っぽの胃に染みわたるこの美味しさ。二口、三口と立て続けに味わい、ティーカップを降ろす頃には恍惚の溜め息が漏れた。
続いて、やはりぴかぴかに磨き上げられた銀のフォークを手に取り、小ぶりな容器に盛られたサラダをいただく。テーブルマナーも覚束ない身なので、フォークとナイフとスプーンが沢山あったら困るところだったが、どれも一本ずつしかないので安心だ。
「んん……」
直前まで冷水に浸していたのであろう、ひんやりとした葉野菜は、紅茶で温まった咥内に心地良く、その新鮮さを如何なく発揮し、パリパリと歯触りが良い。
そして、食卓上で一際存在感を放つリンゴ。私がせっせと拾い集めた、あの真っ赤でつやつやしたリンゴなのだろうか。今はあの魅惑的な外皮が剥かれ、瑞々しい果肉の白さが眩しい。丁度いい厚みに切り揃えられたリンゴを一切れ、そっと齧れば、期待を裏切らない爽やかな甘みが広がった。
「ん……!」
紅茶で温まり、サラダで慣らし、リンゴで甘みを摂取したところに、満を持してオムレツが運ばれて来た。色も形も美しく焼き上げられたオムレツをスプーンで掬って口に入れ、ああ、やられたと思った。具なしだと思っていたら、パセリがふんだんに巻き込まれていたのだ。パセリを刻んで緑に染まった俎板を眼裏に思い描ける程の鮮烈な香りが鼻を抜け、玉子の濃厚な味と相まって、無類の美味を作り出していた。
「んー……!」
思わず天井を仰ぎ、そこでハッと我に返り、正面の席を見る。同じく朝食をいただいている皇帝陛下は、手を止めて楽しそうにこちらを眺めていた。
皇帝陛下は「どうぞ続けて」と言いたげに微笑みだけを返して、食卓に視線を移したので、私もおずおずと食事を再開する。
我が身を振り返れば、私は「いただきます」以降、唸り声しか発しておらず、朝の食卓にふさわしい爽やかな世間話の一つもできていない。なので、皇帝陛下が楽しそうにしている理由が分からない。
いや、違う。皇帝陛下が楽しそうな理由なら明白だ。だってこんなに素晴らしい朝食である。皇帝陛下の方も、食べているだけで楽しいに違いない。うん。だってこんなに素晴らしい朝食である。さっき手を止めてこちらを見つめていたのも、私が唸る姿に、自慢の料理人への誇らしさを感じていたのだろう。
お互い朝食に夢中なのだと分かれば、気の利いた会話ができないことに対し肩身の狭い思いをすることもないので安心した。ありがとう料理人さん。改めて、朝食に集中しよう。
オムレツのあとは、焼きたてのパンケーキが運ばれて来た。漂う匂いの時点ですでに美味が確定している。溶けかかったバターと、黄金色の蜂蜜の煌めきが胸を躍らせる。もはやとうの昔に遠慮を忘れた銀食器、ナイフとフォークを振るっていそいそと切り分けたパンケーキを、期待に震えながら頬張る。
「んんー……!」
目を瞑り拳を握り、幸せの極致を堪能していると、皇帝陛下から「く……っ」と、押し殺したような声が聞こえた。きっと皇帝陛下もパンケーキを口にし、そのあまりの美味しさに唸ったのだろう。帝国の頂点ともあろう男がパンケーキで声を漏らすほど喜ぶなんて、などと責めてはいけない。これは誰もが笑みを零して然るべき、至高の美味である。
「ああ……生きてて、よかった……」
思わず人生への感謝を零し、ゆっくり目を開けると、皇帝陛下の方は片手で顔を覆って俯き、肩を小刻みに震わせていた。分かる。とても気持ちが分かる。私も感動で震えているところだ。
夢のようなパンケーキ時間を終えると、朝食の締めくくりとして、再びメイドさんが淹れたての紅茶を用意してくれた。満腹の状態で味わってもなお、感動の薄れない素晴らしい紅茶でお口直しをしつつ、朝食の余韻に浸る。麻袋に詰められて誘拐された今朝が、もはや遠い過去のようだ。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした……!」
満ち足りた気持ちでご馳走への感謝を捧げる。けっこう序盤の段階で目の前にいるのが帝国で一番偉い人であるという大事なことを忘れて食事を楽しんだ結果、最終的にろくな会話もないまま終えた朝食だったけれど、皇帝陛下は上機嫌そのものだ。料理の力は偉大である。
「ご満足いただけたようですね」
「こんなに素晴らしい朝食は初めてです」
「それはよかった。俺もこんなに楽しい食事は初めてでした」
『初めて』と聞いて、城が自宅の皇帝陛下なら毎日がこの素敵な朝食なのではと不思議に思ったけれど、いやそうか、もしかしたら今回の献立は、客人を招くということで特別に誂えたものなのかもしれない。
うん。きっとそうだ。普段は出てこないバター蜂蜜パンケーキを前にうきうきしていたのか。だからこんなに満足し切った様子なのか。得心がいくとともに、やっぱり皇帝陛下も人の子だなあ、と少し親近感が沸く。
「さて、リーニャのお腹も満たせたことですし、次にいきましょう」
「次?」
もはや心も胃袋も満足してそこで意識が停滞していたが、そう、皇帝陛下は私の処遇に対し、「まずは」朝食と言ったのだった。当然、次がある。
あの皇帝陛下の手で城に連行されてきたのだという現状を思い出して、ゆるゆるだった表情を一気に強張らせた私に、相手はさも楽し気に告げる。
「淑女をいつまでも寝間着のままでいさせる訳にはいきませんからね」