星喰い(ほしくい)
一
べたつく潮風を肌に受けながら、真赤に染まる砂浜を、秀雄と二人で歩いていた。かたむいてゆく陽のひかりが、つながっている手と手の影を色濃く映し出している。いまにもほどけそうなそのつながりを、しばしば無感動に眺める癖がついていた。
「今日って、たしか百年に一度の流星群が降るんだってね」
少しだけ高い、少年のような声が、耳をなでた。埋没していた思考をふりほどいて、顔を上げた。
「そうなの?」
「俺もよくは知らないけどさ。たしかね」
曖昧な言葉に苦笑を浮かべる。指の間に砂が入り込み、ざらついた。もう、ほとんど陽も落ちかけている。白波が橙色に染まり、藍色の空に浮かぶ厚い雲は、ゆっくりと流れてゆく。前を歩く秀雄の背中を眺めながら、笑い声を上げた。
「秀雄の影って何か変な形をしているね」
「青年にはだいたい、陰があるよ」
「そうかしら」
秀雄は、苦笑を浮かべて足元を指さした。「あるじゃん、影」と、くだらないことを言うので、それを無視して歩き出した。
夕方になると、波が高くなり、潮の香りが強くなる。空に広がる無数の鴎や、鳶の群れの行く末を見つめ、息をつく。いつまでも、砂の上を歩いていたいような気がした。
「海の見える街で暮らすのが、夢だって言ったじゃん」
「うん」
秀雄は歩幅をあわせて、ゆっくりと歩く。その横顔を眺めながら、微笑を浮かべた。
「案外、暮らしてみると大変ね」
「そうなの?」
「うん。海はさ、好きなんだけど。でも、買い物出るの大変だし、海沿いの風とかすごいのよ。自転車なんか一週間で錆びるもん」
「それ、すごいね。面白いよ」
「そうかな。不便だよ」
淡々とつぶやくわたしの言葉に、彼は嫌な顔一つせずうなずいていた。甘やかされているようでうれしくなる。だけど、そのぶん少し悲しくもなる。胸を焦がすような、くすぐったさを抱えるたびに逃げ出したくなる。
最近、よく秀雄に置いて行かれる夢をみる。わたしの胃や腸は、すでにぐずぐずに崩れ、醜くなっているから。子宮が思考するたびに、女としての肉体をさらすたびに、消えてしまいたくなる。彼の心は、いつまでも老いないから。若い肉体で、飛翔しつづけるその背中に焦がれるのは、愛ゆえではない。憎しみでさえある。
「火星では夕焼けが青く見えるらしいよ」
そう言って、彼が指さした先では、オレンジジュースのような太陽が落ちかけていた。残念ながら、地球から見る夕日はいつだって赤い。
「火星から出る散乱光が赤いから、赤く見えるだけで、透過光は波長が違うから、青っぽく見えるそうだ」
「まだ、誰も火星で夕焼けを見たことがないのかしら」
ふと、沈んでゆく太陽の後ろで、青くなる空を夢想した。光かがやく白い太陽のまわりが、うすぼんやりと青くなっていて、かがやきが広がってゆくに従い、赤くなってゆく。もはや、昼も夜もない、朝と夜の時間がつながってしまっているようで、ほんの少しこわくなる。
「火のように赤い星だから、火星って言うらしいよ」
「そういうものでしょう。名前なんて」
「そうかな。なんだか、つまらないね」
うん、と軽くうなずいた。彼の横顔を見たが、逆光で暗くなっていたため、ハッキリとは見えなかった。微笑を浮かべる頬が、赤く染まっている。照れているからではない。斜陽の魅せるまぼろしだ。
「でも、星ってさ地図みたいなものだったんだよな。昔の人には読めた文字なんだ」
「いまの人には読めないの?」
「どうだろう。でも、昔みたいに読めたら、コンパスも、ナビも、時計だっていらないはずだよ」
「変なの。だんだん、文盲になっているのかしら」
かもね、と彼は相槌を打って笑った。辺りはもう真っ暗で、その微笑さえ、たしかに見えた訳ではなかった。指に触れた、やわらかな熱に、自然歩く速度がゆっくりになった。
「どこにでも行けるってことが、イコールで自由ってことじゃないよな。地図を開いても、目的地までナビをつけてさ。地図を読んじゃいないんだ。土地を、あるいは街角を、少しも読んではいない」
「誰だったか、そんなことを言っていた気がする」
「何て?」
「――街道のもつ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むか、あるいは書き写すかで、違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景のなかを移動してゆくだけであって、それが繰り拡げられてくるしかたは、周辺の地形が繰り広げられてくるしかたにひとしい。道を歩く者だけが、道のもつ支配力を経験する。――とか、なんとか。つまり、読む者と書く者は根源的には違うのよって、話し。読む者は、空想の自由を許されている。でも、書く者は常に森の中をかき分けて歩いてゆくようなものだって」
ふうん、と気のない返事をした。彼はいま、「自分には関係ないな」って思っている。そういう部分に触れるたび、ひっぱたいてやりたくなる。
まあ、難しいことはさておき。そう言って、秀雄はふり返った。
「そもそも、連れて行かれてるだけで、結局行ってる訳ではないんだよなあ」
「星もさ、そうよね」
「そう?」
「うん。読めないから、綺麗だねーって眺めていられる。でも、本当はあの輝きの中にさ、生と死が内包されているんだよね。新星爆発のたびに、わたしたちは、その光を目印にして、遠くまで歩けたのに。都会は光と音が多すぎて、そのサインに、気づくこともできなくなったのよ」
「それってさ」わたしは、風に吹かれてゆれる髪の毛をおさえながら、微笑を浮かべた。「科学がいかに発達してもさ。人の五感は生きているからかもね。でも、その生に気づいている人は少ない。だから、感じることの本当の意味を、知らないのよ。逆に言うと、鈍くないと都会じゃ生きてゆけないんじゃない?」
「そうまでして守るべきものなのか?都会の光って」
「もはや、逃げる気力さえないのかもしれない。あるいは、それが楽しいことだと、自分に言い聞かせて生きているのよ」
「そうなのかな。なんだか、嫌だね。やめたいね」
やめたいって。おかしなことを言うね、と笑いながら、彼よりも早く前へと歩き出した。
夕闇のなか、よせては返す波の音に気を取られ、呼びとめられたことにさえ、気がつかなかった。そうして、しばらく一人で歩き続けた。ふり返れば、必ずそこで待っていてくれるだろう。甘えた子供のようなことを本気で思いながら、黙々と歩き続ける。
秀雄との密な話しは楽しくて、だんだん足が速くなってくる。このまま跳躍してしまえるような、気さえしてくる。砂の中に足を埋めながら、その楽しさのぶんだけ、足跡を残す。
そうして、ふり返った先で、彼の姿は、すっかり消えてしまっていた。うす暗い闇のなかで、辺りを見回してみたが、秀雄の姿はどこにもなかった。どこまでも続く砂浜と、うちよせてくる白波の音だけだ。何度も、彼の名を呼んだが、やはり返事はない。地平の向こうに沈んだ太陽に、どこかへ連れて行かれたのか。
一人、その場に立ち尽くした。何度も、吹きつけてくる潮風に髪を弄ばれながら、息をついた。
二
「おうい」
突然後ろから声をかけられ、肩が震えた。ふり返ると、一人の老人が立っていた。あまりのことに、大きな声を上げそうになったが、黙りこむ。
「なんでしょうか」
老人は、大きなバケツを持っていた。黒いつなぎに、古びた長靴をはいている。白髭の中から時折のぞく、歯は青白くかがやいている。瞬間眼に入ったかがやきに、バケツの中を見つめた。見間違いでなければ、それは半月のような形と色をしている。ビニール製のおもちゃだろうか。眼を焼くような、青白いかがやきは、ゆるやかに明滅していた。
「あの」
おそるおそる、老人に声をかけてみたが、ぴくり、とも反応を示さなかった。もう一度声をかける。あの、ナニカ、ゴヨウデショウカ。すると、ようやく軽く首をかしげた。
「お前、一人か?」
案外と、言葉が通じたことにホッとした。ええ、まあ。と曖昧にうなずきながら、これまでの経緯を簡単に話した。しかし、老人のぼうっ、とした眼は、わたしの顔を眺めているだけだった。時折、ゆれるバケツの中味を気にしながら、黙りこむと、途端、沈黙が気まずくなってくる。
「消えたのは、お前のほうだろう。しろめし」
しろめし。しろめしとは、白飯のことか。ゆっくりとふり返ると、老人は相変わらず、ぼうっとした眼で、こちらをじっ、と見つめているだけだった。それでも、ついには眉間に皺をよせて、白い鬚を撫でながら「ああ、困ったなあ。また迷子かよ」と、つぶやいていた。どうやら、わたしのほうが迷子らしい。そういうものだろうか。首をかしげて黙りこむ。見かねた老人が、大きなため息をついた。
「いいか、しろめし。お前は渡っちまったんだよ。海を」
海を渡った?わたしは、ダラダラと続く砂浜を歩いていただけじゃなかったのだろうか。辺りを見回すも、変わったところなどない。やはり、いつものようにべたつく潮風が、肌をなで、髪をかき乱し、吹きぬけてゆく。寄せては返す波の音が、砂のうえをすべって、空の向こうへ溶けて消えてゆく。辺りはうすぼんやりとしていて、街の光はずいぶん遠い。
「収穫の時にかぎって、こういう面倒が起るんだよな」
一人愚痴りながら、白髪をぼりぼりとかいている。その声は心底から迷惑そうだった。ああ、まただ。自分の知らないところで、わたしは誰かを煩わせている。無価値で、無益な存在。そんなものは、端からいらない。だけど、いなければならない。その存在の奇妙な軽さを抱え持ちながら、歩き続けなければならない。痛みなのか、苦しみなのか、次第それさえもわからなくなる。
故郷へ、帰れるものなら、帰りたい。だけど、指針を無くしてしまった。この茫漠とした闇のなかで、どこまでも続く砂の中に埋もれて、不可解な老人の言葉しか、頼りにすることができないなんて。
「なあに、泣いてんだ。しろめし」
言われてから、気がついた。ぼろぼろ、と堰を切ったようにこぼれる涙を、手の甲でぬぐいながら、顔を隠した。
その瞬間、空が急に明るくなった。顔を上げると、目の前で青がはじけた。ちかちかと、細かな粒子が、視界のはしへ消えてゆく。続いて、黄や、赤や、白のかがやきが、細長い雨のようになって、大地に降りそそぐ。そう言えば、今日は百年に一度の流星群が降る日だった。そのようなことを思い出し、「ひかりのあめだ」と、つぶやいた。
「はじまったな」
老人はうれしそうにつぶやいて、持っていたバケツを置いた。ちゃぷん、と水がはねる。中で、黄色いビニールのおもちゃがゆれた。どこから取り出したのか、青い釣り竿を転がした。
それをボンヤリと眺めていると、不機嫌そうな声で「いいから、お前も早く座れ。そこにいると邪魔だ」と、言われた。ふん、ぐずぐず鼻を鳴らしながら、言われた通り、老人の隣にしゃがみこんだ。尻に伝わる熱が、昼の暑さを物語る。太陽に焼かれた砂は熱く、じっとりとした汗が、染みこんでいった。
二人とも、しばらく黙っていた。老人が何か言うだろうと思っていたが、何も言わない。沈黙を破るように、ざん、ざざん、波の音だけが絶えず聞こえてくる。
果てのない暗闇を、降りそそぐ光の線が、いくつも泳ぎ回っているようだ。街の明かりがないと、こんなにも自然は美しいのか。鼻をすすりながら、膝を抱えて苦笑した。
「しろめし、って」
「あ?」
「どうして、わたしは白飯なんですか」
ここにきて、老人はようやく笑いだした。何がおかしいのか、はっはっはっ、と声を上げて、空を仰いでいた。気のせいだろうか。老人の髪の毛や、歯が、うっすらと光っているように見えた。
「そりゃ、お前らはしろめしを食うからだよ」
「あなたは違うの?」
「おれは、そんなもん重たくって、食えねえ」
「重い?」
「ああ、飛べなくなっちまう」
まるで、空でも飛べるかのような言い方に、眉をよせたが黙った。それよりも、気になることがあった。
「じゃあ、なにを食べてるの?」
「星さ」
にっと、笑って見せた歯は、青く光っていた。今度は、見間違いなどではない。ほのかに明滅する、そのかがやきは空中を舞って、闇の中に消えてゆく。青白いかがやきは、たしかに虚空のなかで流れ、消えてゆく時のそれによく似ていた。
三
はじめは、雨が降り出したのかと思った。目をこらして見ると、ほのかに輝いていた。あれは星だ。そう思い息を飲んだ。大きさのまちまちになっている粒子が、青や赤や白に変化しては、燃えあがった。互いにぶつかりあって、消えてゆく。光の明滅が、はじけて飛んだ。砂の上に落ちた光は、目にも止まらぬ速さでかけ回り、水面を走ると、やがて闇のなかへと消えて行った。
シン、と静まり返った空を見上げると、またいくらも星が降ってくる。目の前がくらむような光線の雨は、地に落ちると、はじけて消える。次から次へと降り積り、浜辺を光のうねりで、うめつくしていった。くぼみのある岩の間には光が溜まり、水たまりのようになって輝いていた。
星だ。星が降ってきたのだ。わたしは、ぽかんと口を開いたまま、阿呆のように眺めていた。夢でもみているのだろうか。水面を打つ光を見るたびに、目をぱちぱちとさせた。
「今日は、年に一度の大収穫の日なんだ」
見ると、隣でしゃがみこんでいた老人は、うれしそうに笑っている。なるほど。これが流星群なのか。予想していたものとは、ずいぶん違った。
「百年に一度じゃないの?」
「そりゃ、お前らの言う年だろ。おれたちにとっては、年に一度さ」
「おれたちの?」
まだ聞きたいことがあったが、老人は煩わしそうに、片手をふってそれを払った。鬚をなでながら、どこから取り出したのか、煙草をくわえてその先に火をつけた。
「おれは難しいことは、わからん。それよりな、しろめし。おしゃべりしてる暇はねえぞ。止んだら、釣りに行かなきゃならねえ」
老人はそう言って、バケツの中に浮かんでいた黄色い、ビニールのおもちゃを取り出した。しかし、それはおもちゃなどではなかった。ほれ、と下弦の形をした月をわたされ、おっかなびっくり、それを受け取った。やや重たく、触り心地は、石の表面のようにごつごつとしている。中は、くりぬかれているので、空洞だった。空にかかげて、中を覗き込んでいると、老人は愉快そうな声を上げて笑った。
「こいつらは、釣ったのよ」誇らしげにもう一つの三日月を、かかげて見せてきた。あまりのことに、目を見開いた。
「星って釣れるの?」
「もちろん。そして食うんだ」
「何を?」
「星を」
当たり前のように言うものだから、わたしはついに言葉を失った。彼は、星で星を釣り、その中身を食べるのだと言う。息をのんで、手にしていた下弦の月を、見下ろした。じゃあこれは、食べたあとの殻なのか。なんだか、いまいち実感がわかなかった。そんなことに頓着しない老人は、嬉々として話しを続ける。
「星もうまいが、特に月は格別だ。ぷるぷるで、やわらかくてな。最初はあったかくて、甘い。でも、すぐつめたくなって、かさかさになる。最後には、かちかちに凍るぞ。だから、よく噛んでからじゃないと飲みこめねえ」
月の味を思い出しているのか、うっとりとした表情をして、語り続けた。最初はよ、星よりうめえとは思わなかったからな。釣っても、すぐ逃がしてたんだ。だけど、つい魔がさして食いたくなった。もう、食ったらやみつきよ。おれぁ、こいつを食わなきゃ、生きている気さえしなくなってくるんだ、云々。
それからは、ただ黙って話しを聞いていた。口を挟む余地もないほど、老人はうれしそうに、月の味や、色、形、その性質について、話す。聞いているうちに、こっちまで愉快になってくるのだから、不思議だった。
そうして、ふと思う。これほど、幸せそうな表情をして物を食べ、食べるために生き、よろこびを感じてきたことなど、これまであっただろうか。腹の底に染みわたるような、温かなぬくもりを、きちんと知っているのだろうか。わたしには、はっきり、そうだと言いきれるだけの自信はなかった。
「きっと、ただ生きてきただけだ」ふと、もらしたつぶやきは、老人には届かない。ましてや自分になど、問うだけ無駄だった。
見ると、一つの赤い光が瞬いた。落ちる。と、思う前にそれは流れた。流線型を描くように滑空し、完全に降下すると、地上にぶつかり、そのまますべるように走り出した。切れ切れの光が、放物線を描き、夜の闇へと溶けてゆく。ふり返りもせず、あたりまえのように。
彼らは生きていた。落ちても、生きている。あの星の大群勢は、いまもこの海を光で満たしている。想像もつかない時間が、そこにはあった。何億光年という果てのない距離を、膨大な時間をかけて、たどりついた先に、ようやくいまここで瞬いているのだ。この大地に、一瞬にして降り立った。目の前の老人は、それをいとも容易くつかまえ、食べるのだと言う。それが彼の生活なのだ。
「でも、」と、月のごつごつした表面を指先でなぞりながら、軽く首をかしげた。「そんなにたくさん、月なんか落ちてくるもんなの?」
老人は、青い瞳をぱちぱちとさせてから、紫煙を吐き出した。煙草の火を揉み消して、鬚をなでる。ふむ、と小さくうなずいてから、立ち上がった。同時に、足元に転がっていた、青い釣り竿を手に取る。上弦の月を脇にはさんで、やい、しろめし、とこちらをふり返った。
「運が良けりゃ、今日も釣れるだろう。手伝え」
何を言われているのかわからず、しばらくボンヤリとしていたが、すぐに立ち上がった。月を抱えたまま、しびれた足を引きずって、老人の後に続いた。星は、すっかり降り止んでいた。辺りは朝露にぬれたように、まぶしい。湿り気を帯びた風が頬をなでる。砂を踏み分けながら、どうして降っている間につかまえないのか、聞いた。すると、老人は一つため息をついた。
「わからねえ奴だな。水とちがって、星は自在に動くんだ。そんなことしたって、逃げるだけだろ」
「そうなんだ」
「そうさ。だから水に落っこちたのを、釣るんじゃねえか」
サンダルの下で光っていた、青い星の粒を踏みながら、ふうん、と気のない返事をした。まるで、青い砂漠を歩いているようだった。気のせいだろうか。吐きだす息も、ほんの少し白くなっている。老人は、肩をすくめて歩き出すと、聴いたこともないような歌を、口ずさんでいた。
四
いつの間に、こんなに集まっていたのだろう。
浜辺には、老人と同じようにバケツを手にした人々が、たくさんいた。知りあいも多いのか、やあ星喰い。今夜は晴れて良かったね。女の子連れなんてすごいな。など、さまざまな冷やかしを受けながら進み、丁寧に一つ一つ答えて行った。おう来たかテメーら。うるせえばかやろう、前を開けろ。今日はデッケー月も釣るんだからな。食いまくるぞお。と、肩をいからせながら進む、老人の背中は、心底からうれしそうだった。
「お前はここに居ろ。手本を見せてやる」
まずは星だな。そう言って、長靴を脱いで、ズボンをまくりあげると、月を抱えたまま光の海の中へと入って行った。ざぶざぶ、と水面がゆれるたびに、海の中を泳いでいた星が飛びあがり、空を舞った。こら、星喰い。気をつけろ。逃げられちまったじゃねーか。出て行け。と、他の人に叱られていたが、無視していた。
老人は、三日月を海の上に浮かべて、しばらく左右にゆらしていた。すると、みるみるうちに、浸水してゆく。それと一緒になって星が、入り込んでゆくではないか。海の上をただよっていた、いくつかの輝きは、月の中に入り込むと、その中をくるくると回っていた。青や、赤に明滅しながら、殻の三日月を満たしてゆく。アレは、どういう仕組みなのだろうか。
「アレはね。月の重力に吸いよせられているのですよ」
心の中でつぶやいたつもりが、声に出ていたのだろうか。驚いて、隣を見ると、そり上げた頭をなでながら、異様にくちびるを持ち上げて笑う男が、立っていた。白いワイシャツに、カーキ色のズボンをはいて、砂浜だと言うのに革の靴を履いていた。
「あなたも星を食べる人?」
他意もなくつぶやいた言葉に、男はハハ、と短く笑った。
「私は哲学者ですから。星は食べられませんね」
「自分からそう言う人、はじめて見たわ」
「それはどうも」
少し興奮しながら彼を見ると、軽い会釈をされた。それに合わせて、頭を下げる。簡単にあいさつをしたが、哲学者は特に興味もないのか、くちびるの端を軽く持ち上げて、笑うだけだった。なぜか、その微笑を見ていると、古本屋の店主を思い出す。案外と、ここはタチバナのような人種が集まる、秘密の場所なのかもしれない。
「星喰いは、この辺りじゃ彼一人ですよ。他の連中は、他の目的で星をつかまえる。だけど、星を喰うために釣ろうなどと言う奇特な人間は、彼くらいです」
「他の目的?」
「まあ、切ったり、売ったり、飼ったり、着たり、燃料にしたり」
「どうして食べないんですか?」
「さあ、どうしてでしょうね」
こちらを見もせず、くちびるの端を異様に持ち上げて笑うと、あとは黙っていた。わたしも、光の海を眺めた。隣をちら、と盗み見て驚いた。哲学者は羨望のまなざしで、海を見つめていたからだ。いや、正確には光の海のなかで、無邪気に星を釣り上げる老人を、見ているのだ。「まったく、なんでしょうね。あの勝率は」と、苦笑を浮かべていたが、声音は愉快そうだった。この時、二人は仲のいい友達なのだろうと、勝手に思った。
それを口にしてみると、哲学者は一度「え」と、頓狂な声を上げた。すぐに困ったように表情を歪めると、うつむいて、ついにはうなり出した。何か悪いことでも、言ってしまったのだろうか。内心であわてたが、平生を装って、また海の方を向いた。老人が、ようやく釣り終えた星を抱えて、こちらに向かってきているところだった。
哲学者は、何を思ったのか「あなたは、意外に面白い人ですね」と言って、急にうつむいていた顔を持ち上げた。それはどうも。同じような返事をすると、彼は大いに笑いだした。声を上げて、歯を天に向けて笑っている姿は、まったく老人そっくりだった。
その笑い声を聞きつけた老人は、すぐに眉をよせて「なんだ、お前来てたのか」と、ぶっきらぼうに言った。濡れた足を砂まみれにしながら、立ち止まると、釣ってきた月の殻を哲学者に押しつけた。まったく、骨が折れるぜ。と、しゃがみこんだ老人の足も、光の海のように、ほのかに青白く光っていた。
五
結局、わたしは星を釣ることができなかった。なぜって、老人がほとんど捕まえてしまい、二つあった三日月の殻は、満杯になってしまったからだ。
「人に物を持たせて寝るとは、良い身分だな。星喰い」
ぐったりと横になっている老人を見下げながら、苦々しげにつぶやいた哲学者の言葉に、自然笑った。じゃあ、わたしも持ちましょう。と、手を出しかけて、止めた。勢いよく起き上がった老人が、「止せ。お前は絶対落としちまう」と、言って睨んできたからだ。ひどい言い草だ、と思いながらも、大人しく言うことを聞いた。
「そう言うのにも、理由があるのですよ。お嬢さん」
哲学者は微笑を浮かべて、しゃがみこんだ。抱えていた三日月を、二つとも砂の上に置いて、こちらを見上げてきた。わたしもその場にしゃがみこむと、膝を折って、二人と向かいあった。
浜辺では、自然と祭りのような騒ぎになっていた。飛びまわる星をつかまえようとして海に飛び込む人や、沖あいに船を出して、釣竿から糸を垂らす人たちもいた。釣ってきた星を数えて、袋の中に移し替えている人や、花火などを打ち上げ、走り回っている人たちもいた。そばではバーベキューをやり、肉と野菜の焼ける香ばしい煙が、こちらにまでただよって来ていた。
空では、いくつものかがやきが瞬き、流れるたびに海の中へ、浜辺の上へと降ってくる。みな好き勝手にはしゃいではいたが、空を見上げる人々の眼は、一様にきらきらとかがやいている。
お嬢さん、と呼ばれて視線を、哲学者のほうへ戻した。円を描くように座っていたため、中央では星の光で満たされた三日月が、赤や青、黄や白に、点滅していた。かがやきが変化するたびに、哲学者の顔を照らす色も、鮮やかに変わっていった。
「月の中に星を入れると、殻の時よりも軽くなるのです」
「どうして?」
「月の引力によって集まってきた星は、相当大きなエネルギーを内包しているので、その熱が空へと帰ろうとするため、通常よりも軽くなるのです。もちろん、いまの三倍から四倍の量の星を、中に入れなければ浮き上がる、なんてことはありませんが。まあ、念のため、お嬢さんは触らないほうが良いでしょう。なあ、星喰い。そう言いたいんだろう?」
呼ばれて、老人は曖昧な返事をしたが、顔だけは上げなかった。未だ、横になったままだ。砂にまみれた白髪をかきながら、ああくたびれた。もう年かしら。などと、愚痴をこぼしている。案外なことに、わたしは吹きだして、笑ってしまった。
「やさしいんですね」
つぶやいた言葉に、返答はなかった。期待していた訳でもないので、わたしも黙っていた。二人はどちらからともなく、今年の星の収穫量や、変動の推移や、光の屈折率の話しなどを、はじめた。半分もわからなかった。老人もわからなかった。だから、哲学者に対して怒りだした。ついには、落っこちてきた月を、釣り上げた時の自慢話しへと発展していった。そこで、ようやく話しに参加することができた。
「月って、毎日落ちてくるの?」
わたしの言葉に、老人は不機嫌そうに眉根をよせて「おい、こいつ本当に大丈夫なのか?」と、つぶやいていた。ムッとして、睨みつけたが、老人は平気だった。それに苦笑を浮かべた哲学者が、えー、と言いながら砂の上に文字を書きはじめた。X=Y,Z+Q=H、YY二乗+XE=二乗分のT、U=XY……など、難しい公式を書きだしたので、辟易した。そんなもの、わかるはずがないじゃないか。それは、老人も同じだったのか、「おい、テメー。ひけらかしも大概にしろよ」と言いながら、ごちゃごちゃ書いてあった数式をすべて、足で消してしまった。消されたことが不満だったのか、哲学者は不機嫌そうに、頭をなでていた。
「いいですか、お嬢さん。朝と夜があるのは、月が毎日、落ちてくるからなのです。朝になると同時に、古い月は地上に降ってきます。その死にかけの月を、彼は勝手に釣って食っているだけです。本来なら、その落ちてきた月は、地上で爆発し、太陽へと変化したのち、空へと昇ってゆきます」
「え、じゃあ食べちゃったら、いつまでも日が昇らないじゃない」
「だから夜があるのです」
言っている意味がわからない、と正直に首を横に振った。なんだか、天文学者が聞いたら卒倒しそうな話しだな、と思ったが黙っていた。
「我々は、過去も現在も未来も、つなぐことができます。なぜか、わかりますか。私たちは、それぞれの時間を経験した私を、私であると認識し、つないでゆくことによって、この三つの時間に連続性を見出し、私という総体化された自己を、見出しているからです。つまり、名称性のある、一つの個体であるということは、本来ならバラバラである時間を、結びつける意識を持っているということであり、それを主体として自ら認識することによって、成立しているものなのです」
「星はちがうの?」
「そうです。星は、過去と現在と未来とでは、まったく違う存在となります。星喰いが釣っているのは、そのうちの一つに過ぎません。彼が月をいくつか食べることによって、日の昇らない時間が生まれているのです」
哲学者はまじめな顔をすると、目の前で人差し指を立てた。
「だからと言って、星に意志がない訳ではない。いいですか、ここが微妙なところなのです。一度死んで、拡散したエネルギーや、組織、物質は一晩のうちに、さまざまな融合を果たして、また新しいエネルギーへと変化し、あるべき場所へと帰るのです。だから、死んだ月は地上で眠り、朝には太陽へと変化して、天へと昇るのです。動物も、習性による帰属意識があるように、一つ一つの物質にも、私たちが聞き取ることのできない、ある一つの意志、言葉を持っているのですよ」
「言葉?」
哲学者は、にっこりと笑った。ずいぶん、楽しそうだった。
「爆発した星は、そのさまざまな物質を放散させますが、それと同時に新たなエネルギーへと、変化するのです。牛乳も、瓶も、鉄も、火も、犬も、人も、それぞれ偏りのある、一つの物質に過ぎないのです。それらが、ぐちゃぐちゃに混ざりあって、中心に向かって働きかけることによって、エネルギーは生れ、星は機能してゆく。そして物質は絶えず、その時間の推移によって変化してゆきます。死のうが、生まれようが、つねに星は変動を続け、その変動の力によって輝いている。その輝きは、消滅と同時に光ったものです。しかし、星の意志そのものは、過去であり、今であり、未来である。なによりも速く、時空間をかけぬけてくるものなのです」
だから、と言って哲学者は言葉を濁した。ほとんど、周りの音や、声など聞こえなくなるほど、彼の話しに夢中になっていた。「だから?」と、わたしは先をうながす。少し困ったように口元を歪めた哲学者は、老人の方へ目配せをした。だから、と哲学者の言葉を継いで、老人はにっ、と笑った。青いほのかな光が、空を舞った。
「おれたちは、みんな同じってことだろ」
「同じ?」
「おれたちは星の子供なのさ」
あまりのことに、ハッとした。頭をかち割られたような衝撃と共に、全身をつらぬいたこのしびれには、覚えがあった。ふとよぎった横顔は、いまそばにはいない、彼の笑顔だった。
六
「さて、待たせたな」
老人は笑いながら、月の殻をさし出してきた。見ると、きらきらとかがやく星の粒が殻のなかで、くるくると回っている。これを生きたまま食べろとでも、言うのだろうか。唾を飲み込み、しばらく黙りこんだ。
「いいか。生のままが、一番うめえんだ」と、尚すすめてくる。哲学者も、今回ばかりは、止めに入る気などないようで、にやにやしながら、わたしの顔を見つめていた。
殻のなかをのぞきこんで、頬を引きつらせる。星の粒は、衰えることなくかがやいていた。特に、勢いよく飛びあがる赤い燐光は、いまにも口の中に飛び込んできそうだった。おそるおそる、それに手をのばす。その怖気づいた様子に、ほら、ぐずぐずしとると落ちるだろ、と急かされた。生唾を飲み込んで、覚悟を決めると、飛び上がった赤い星の粒を、両手ですくった。いまだ、口に入れろ。と言われて、目をつぶる。ええい、ままよ。赤いかがやきを、口の中に放り込んだ。
内壁に触れた瞬間に光の粒は、はじけた。粉々になった欠片が、口の中で激しく動き回る。舌の上で動きを止め、赤い星は、ほのかな温かさを保ったまま、しゅわっと一瞬にして溶けてゆく。
溶けて広がった液体は脈を打ち、米粒ほどの大きさに分裂していった。堅果のように硬くなったものもあれば、グミのようにやわらかくなったものもあり、それらが混ざりあっては、分裂をくりかえし、甘くなったり、すっぱくなったり、辛くなったりした。そして、最後に水のような無味無臭の液体となって、嚥下した喉を、すっと通って、胃の中へと落ちていった。
お腹のなかが、温かかった。胃のなかに入ってもなお、そのかがやきを主張しているように、星の液体は溶けて、わたしの肉のなかに染みわたっていった。
不思議な心地よさだった。目を閉じると、まぶたの裏側で、収縮をくりかえし、広がってゆく、銀河の流れが見えるようだ。星は時だ。星は速さのもっとも近くによりそう歴史の集積だ。いま、何億光年という時間のなかにいる。
思い出したように、老人の顔を見ると、ひどく穏やかな表情をしていた。やわらかく細められた瞳の奥で、何かを語りかけてきた。しかし、わたしにはその言葉が何か、知ることはできない。
それでも、星を食ったもの同士でしか、わかりあうことのできない感覚が、そこにはあった。わたしは、静かにうなずいた。そして、また涙があふれてきた。うまかったです、おいしかったです、そんな言葉が浮かんだが、口にすることは、できなかった。ただ、泣いてしまいたかった。星を口に入れたとき、言葉にできないなつかしさを生きたのだ。それは、宇宙のはじまりだった。
ビックバンによって、大きなエネルギーを放出した瞬間に、ちらばった星たちが、太陽系をつくりだし、銀河を形成する。それは数々の偶然の積み重なりと、細部にまでわたる計算の混濁だ。いま、腹のなかでかがやいている星の明るさは、いったい、いつのかがやきなのだろうか。
過去を飲んだのか、未来を飲んだのか、はじまりを飲んだのか、終わりを飲んだのか。おそらく、いまここで、ぜんぶを飲んだのだ。いや、わたしの方が、星のかがやきに飲まれてしまったのかもしれない。あまりにも、途方もない時間の長さに、自分がいかにちっぽけで、小さい存在なのかを知る。しかし、その意志を持った部分が、いくつも折り重なって生きてゆくことで、世界は存在している。足しても、引いても、かけても、割っても、変わることはない。わたしは、わたしであり、世界は、世界であり続けるのだ。
いま、つながっている。大きな何かとつながっている。不安も焦燥も、焼き尽くしてしまうほどの、かがやきの力強さ。光の海は、一つの彼岸の景色そのものだった。だから例えば、わたしの肉体が朽ち果てるとき、死の向こう側へと、帰ってゆくことができるのだろう。
身を焦がすほどの痛みを泳ぎ切れば、生まれてくる時と同じだけの宇宙が待っている。それを見聞きし、触れる媒体など、もはや持ってはいないかもしれない。触れ、感じ、考えることなど、できないかもしれない。それでも、わたしはやはり、宇宙の果てへ帰ることができる。まるで、そのためだけに生まれてきたかのように。
老人は鬚をなでながら、殻のなかでくるくると回る星の粒をつまみ、口のなかに放り込んだ。ぼりぼりと噛み砕き、嚥下すると、満面の笑みを浮かべていた。やっぱり、星はうめえなあ、と、また一つ口に入れた。隣では、そりあがった頭をなでながら、哲学者が笑っていた。今度は、わたしも微笑んだ。
「死と隣りあわせなんですね」
つぶやいたその言葉に、哲学者はハハ、と短く声を上げた。食すってことは、すべてそうでしょう。と言いながら、満天の星空を見上げていた。
七
藍色の地平の先で、白い光が射しこんできた。また、新しい星の一つかと、目をこらして見たが、そうではない。海と空を隔てる地平の向こうからのぞいたのは、太陽の光だった。
ああ、もう朝になるのか。そう眼を細めるよりも早く、哲学者が勢いよくふり返ってきた。焦慮に染まった表情で「お嬢さん、あなたもう帰らなくては」と、声を上げた。何事か、と眉をよせたのは、わたしだけではなかった。星を頬張りながら、「なんだよ。そんなに急ぐこたねえだろ。次の流星群を待てばいいじゃねえか」と、老人はのんきに笑っていた。その顔を見て、一瞬気が抜けた。それが、きっかけだった。ため息をつくと同時に、聞こえた次の言葉は、途端わたしを恐怖の渦の中へと飲みこんでいった。
「百年もすりゃ、帰れるんだから」
なんでもないことのように言った、老人の笑いに変化はない。本当にそう思っているのだろう。その途方もない隔たりを前に、愕然とした。震えるくちびるで、つぶやいた。なにを言っているの。
老人は平然としていた。白い鬚をなでながら、「だって、これから月を釣ろうってのに、帰るなんてもったいねえじゃねえか。お前だって月が食いたいだろう?」と言った。
戦慄した。その微笑みは、まったくわたしのことなど、見てはいないのだった。どれだけ、話そうと、同じものを食べ、その食べた星のうまさや、美しさについて語り、よころびをわかちあおうとも、決して越えられない壁が、そこにはあった。それの正体を、哲学者はとっくに知っているのだった。呆然として、動けなくなったわたしの肩をつかんだ。
「お嬢さん。お早く行きなさい。海を渡るのです。太陽が昇りきる前に、月が落っこちてしまう前に。彼が、月を釣り上げるよりも早く、海を渡るのです。でなければ、あなたはあなたの帰るべき時間の中へは、もう二度と帰れなくなりますよ」
「だけど、」
わたしは、迷っていた。本当に現実に帰るべきなのか。いつだって、肉体の重さを捨てたかった。身体があるから、わたしは醜い。それなら、ここにいれば概ね望み通りとなる。ちら、と老人の笑顔を見る。ここにいれば。
「馬鹿な考えを起こすな」
哲学者は、怜悧な声でわたしの思考をふり払った。
「いいですか。肉体は現実の時間を生きようとするものなのだ。君がどれほど、乖離を渇望しようとも、渇望している、ということがなによりの不純になってしまう。いかに、君が複雑性と、不毛な照応関係から逃れ出ようとしても、君が望むような純粋存在、絶対化は、近づくことは可能でも、まったく成ることなどできない」
「できない」つぶやいた声は、案外つめたく凍りついている。
「そうだ。なぜなら、変化こそが生の証であり、時間が流れている、ということの本質だからだ。だけど、君はその恐怖を抱えたまま、現実の中で生について証明する必要がある」
「どうして」
「解かれていない数式を解くということが、人が人であるということの証明だからさ」
「さあ、早く行きなさい」そう叫び、背を押した哲学者の手は冷たかった。よたよたとした足取りで、砂浜を歩きながら、一度後ろをふり返った。二人は未だ、何か言い争っている。おい、テメ―なに訳わかんねえこと言ってんだ。と、肩を怒らせて、迫る老人をなだめながら、「早く行きなさい」と、また叫ぶ。その声に応じて、辺りはだんだんと明るくなってきていた。わたしは、息もつかずに走りだす。
思っていたより足がもつれた。一度転びそうになったが、どうにかこらえ、砂に足をとられながら、一心不乱に走り続ける。打ちよせる白波につかり、未だかがやきの衰えない海の中へと、入って行った。冷たい水に混じって、いくつかの星の粒が、スカートのポケットや、下着の中に入り込んで来たが、そんなこと気にしてはいられなかった。
おい、しろめし。良いのか、今年はきっと一番良い出来なんだ。食ってみたいと思わねえのか。弱虫め。根性なし。そんなに、泣くほどこえーのか。バカヤローお前なんか、さっさと行っちまえ。後から、追いかけて来ていた老人の声に、自然涙があふれた。
目の前が白んでくる。高波がうちよせてくるたびに、赤や青や白のかがやきが、全身を包みこんだ。わたしが星の中にいるのか、わたしが星なのか。もはや、その境界などわからなくなっていた。体が熱い。いま、かがやいているものは何なのか。燃えつきようとしているのか。朝になってしまったのか。視界いっぱいに広がる白に、わたしは一度目を閉じた。
冷たい海水に足を取られ、うちよせてきた大きな波に、引きずり込まれていった。「また来いよ、しろめし」ふり返った瞬間、耳をかすめた言葉は、たしかに老人のものだった。それに応える暇もなく、意識が途切れた。
潮騒が遠のく。なぜ、こんなにも腹が温かいのか。わたしは、星になってしまったのか。わからない。一つだけ確かなことは、星喰いは、星そのものであり、宇宙そのものである、ということだけだ。
茫漠とした砂の上を歩き、あの輝きの海を渡って行けば、変わらずそこで老人が星を食い続けているのだろう。それを思うと止まったはずの涙が、また次から次へとあふれてくるのだった。
八
「こんなところで、寝てると風邪を引くよ」
なつかしい声に、うっすらと目を開けた。目の前には満天の星空と、苦笑を浮かべたまま、こちらをのぞきこんでくる秀雄の顔があった。しばらく、目を瞬かせていたが、「いつから寝てた?」と、言って起き上がった。辺りはまだ暗い。よせては返す波の音と、遠くから聞こえてくる街の喧騒と明かりに、ここはいつも通りの波打ち際なのだと、ホッとした。
「いつからも何も……、知らないよ。気がついたらいなくなっていたのは、そっちだろう。探すのに苦労した」
彼は疲れ切った顔をして、そばにしゃがみこんできた。濡れた前髪を払って、わたしの顔をのぞきこんだ。「大丈夫か?」
「うん」
「しっかりしてくれよ」秀雄は呆れたため息をついて、ほら、と空を指さした。「いま、星が流れはじめたばかりだよ」
空を見ると、闇の中で一つ二つ、白い光が流れていった。しかし、星は決して降ってはこない。いくつもの輝きが、流れてゆく横で、ボンヤリとした三日月が浮かんでいる。月も決して落ちてはこない。すべては、夢だったのだろうか。たしかに、夢のような出来事だった。きっと、これで良かったのだ。そう思ったが、ふと違和感を覚え、服の中に手を入れた。
突然の奇行に、ぎょっとした秀雄が「おい、こら。なにやってんの」と、あわててそれを止めたが、無視した。
むずがゆさに、肌をかき、髪の毛や、服をはらうと同時に、何かが落っこちた。あ、とつぶやいてから、立ち上がる。ブラジャーの間から、ティーシャツの中から、ぼろぼろと星がこぼれてきた。いや、星ではない。白や、赤や、黄の金平糖が、次から次へとこぼれ落ちてきたのだった。
砂浜の上に落ちたそれを眺めながら、「なんだよ。自分ばっかり、おいしいもの食べて」と、言った秀雄の顔を見て、吹き出してしまった。
コンペイトー、だってさ。あまりのことに、笑いが止まらなくなった。しばらくの間、その場で腹を抱えて笑っていた。涙が出るほど、声を上げて笑った。事情を知らない秀雄は、その様を呆然と眺めていた。なんだよ、俺そんなにおかしなこと言ったかな。そう言って、頭をかいていた。
うん、食べた。たしかに、わたしは星を食べたよ。そう言うと同時に、視界の端をよぎった光は、たしかにわたしの口の中から出てきた。ひとつの青いかがやきなのだった。
了