新たな旅立ち
「……う、ぐぅ…!!」
私は今、4階の窓の外にいる。
足をプラプラさせて…なんで、落ちていないの。
「イ…イグリッ、ト…!!」
「………ユリシーズ…」
まだ小さな手で、私の全体重を支える少年。
「…離して」
「嫌、嫌…だ…!!」
顔を歪めて涙を流しながら、私の手首に爪を食い込ませる。
私の幼馴染で…宰相の息子であるユリシーズ・キッドマン。
未来で、最後に面会に来た男だ。
ユリシーズの後ろから、騎士が腕を伸ばして私を引っ張り上げる。
「イグリット!!」
お母様が騎士の腕から私を奪い、強く抱き締めて大粒の涙を流した。
チラッと横を見れば、ユリシーズが荒い呼吸を繰り返して宰相に背中をさすられている。
その手は赤く染まり…だから、なんだってのよ…
彼が1番窓に近い場所にいたけれど。まさか助けられるとは思っていなかった。
「なんでこんなことをしたの!?貴女を失ったら、私はどうしたら…!!」
お母様には、少しの申し訳なさが生じる。
その他の人間には別に…
「このままファロン公爵令嬢として生きるくらいなら。
殿下と結婚するくらいなら、死んだほうがマシ。そう思っただけです」
率直な意見を口にする。
公爵は絶望したような表情…そうよね。つい先日まで、仲良し親娘だったものね。
でもね。私はそれ以上の屈辱を味わったのよ。
「…婚約を…解消しよう。いいな?セヴラン」
「………はい、父上……」
「う…うぅ、う…!」
震える妹の肩を抱き、セヴランは解消に同意した。その顔は俯いていて見えなかったが、声色に涙が滲んでいる。
どうせすぐアウロラと情熱的な恋をするんだからヘーキヘーキ。
飛び降りは想定外だったけど、結果オーライとなった。
公爵もこれ以上、私を引き止めなかった。
これ以上ここに留まる理由は無い。
私はお母様と共に王宮を後にする。
小さい頃から何度も通い、騎士や使用人達ともすっかり顔馴染みになった私だけど。
ここの地下牢には、特にお世話になったけど。
もう2度と来たくない。さようなら、もう1人の私…
「イグリット!!」
馬車の扉が閉まる寸前、ユリシーズが息を切らして走って来た。
「何?」
「はあ、はあ…っ!これから、どこに行くんだ!?」
「ベックフォード伯爵家よ」
そしてこの後すぐ、私は国を出るでしょうね。そこまでは言わないけど。
ユリシーズの後ろに、セヴランとルーシャ…と、誰か子供がいる。
あの青い髪は…騎士団長の息子か。
未来で私を拘束して、床に叩きつけた男だったわ。
それより、ユリシーズ。貴方が用件を言わないと、御者が動けないのだけれど。
思考が伝わったのか、ユリシーズは拳を握り締めて顔を上げた。
「俺…!イグリットが好きだ!!」
「は……?」
突然何を…?
「ずっと好きだったのに!!!お前は殿下の婚約者だから…っ、胸にしまっておいたのに!!!
解消したんなら俺と結婚してくれ!!絶対大事にする、約束するから!!!」
「……………」
彼の必死の告白は周囲に轟いた。
それでも…
「……そう。私は好きじゃない」
私の心は欠片も揺れなかった。
だって貴方も結局、アウロラに恋をするのよ。
切ない顔してセヴランとアウロラの逢瀬を眺めていたもの。
いつだったかは、セヴランと口論もしてたわよね。
あの日…私に罪を認めるよう言ったのは、1度は愛した女への憐れみだったのね。
「お母様、行きましょう」
「…分かったわ」
「待ってイグリット!!」
「出して」
これ以上無駄な時間を使いたくない。
扉を閉めて、馬を走らせるよう御者に命じる。
「イグリットーーー!!!」
ユリシーズの声が遠ざかる。
その悲痛な叫びもなんとも思えない。
セヴラン殿下。ルーシャ。テオフィル。ユリシーズ。今は純粋な子供でも。
お父様もみんな、アウロラの為なら他者を排除することを厭わない人達。
可憐なアウロラを守る!という正義を振りかざし、躊躇いなく他人を貶める。
人間の本質は変わらない。
どれだけ惜しまれても、愛を囁かれても。
あの冷たい地下牢で受けた仕打ちを思い出せば…感情も動かない。
私の味方だとか、約束するとか…信じられる訳ないでしょう?
時間が戻って身体の傷は消えたけど。粉々に砕けた心は戻らなかった。
窓の外をぼうっと眺める。お母様が手を握ってくれて…
私にはお母様がいればそれでいい。
こうして私は、最悪の未来から逃げ出した。
*
伯爵邸では、誰もが私を気遣ってくれた。
刃物なんかの危険物は徹底的に隠された。
寝るのはお母様と一緒、入浴も絶対にメイドと一緒。
原因はここでも死のうとしたから。
やっぱり未来は変わらないんじゃ、と思って。
部屋は1階にされたので、飛び降りは諦めた。
池で入水は苦しくなって顔を上げてしまった。
ハサミをお腹に突き刺したけど、直前で躊躇っちゃって…チクッとしただけ。
やはりサクッと逝けるのでなければ駄目ね。勢いが大事。
「お嬢様、お手紙が…」
「ありがとう、薪へゴー」
「は、はい」
テオフィルからは予告通り手紙が来た。
公爵家から沢山と、セヴランとルーシャからも…全部読まずに燃やした。夏に暖炉は暑いぃ…
ただ、ユリシーズの手紙。
燃やすのも読むのも違う気がして、これだけとっておいた。
「私を信じてくれなかったのは同じだけど。
ユリシーズだけは…私に直接危害を加えていないのよね…」
だからかな。
いつか彼だけは…時間が経てば、また友達になれるかもしれない。
この手紙はその時開こうと思う。
私の手首には文字通り爪痕が残った。
これを見る度に彼を思い出すのだろう。連鎖して王宮の事件も、回避したはずの未来も…
「お嬢様、イリア様がお呼びだそうです」
自殺防止で私にくっ付いているメイド、名前はエマ。
笑顔が可愛い、しっかり者のお姉さん。
まだお母様以外の他人は信じられないけど、彼女とは少し打ち解けられた。
エマについて行くと、庭のテーブルセットに案内された。
お母様とお祖母様とお茶会かしら?そう思ったら…
「イグリット。あのね…紹介したい人がいるのよ」
座っていたお母様が、やや頬を紅潮させて口を開いた。
私に、紹介…?まさか。
「再婚相手ですか?」
「なんで分かったの!?」
ビンゴ。お母様はハッとして口を押さえた。
私は知っている。お母様が公爵と離婚した後、別の男性に猛アタックされて再婚することを。
しかもそのお相手は…
「もう、どこでバレたのかしら…?
来ていいわよ、キーフォ」
「はは…参ったな」
私を驚かそうとしたのか、屋敷の陰から姿を現した男性。
困ったように頬を指で搔きながら、ゆっくりと近付いて来る…
「初めまして、イグリット嬢。
俺はキーフォ、お察しの通り…君のお母さんに結婚を申し込んだ男だよ」
とても大柄で、地面に膝を突いて笑いかけてくれた。
そんなキーフォさんの頭には…ピンと立つ、獣の耳が存在していた。
この惑星を支配するのは2種類の生命体。1つは私達人間。
もう1つは獣人という、獣の要素が強いヒト。
このキーフォさんのように、人間ベースに耳や尻尾が生えているだけの人と。
上半身、特に頭部は動物そのもののタイプがいる。
王国には基本的に人間ばかり。だけど獣人は、人間に化ける能力を持つというから紛れているかもしれない。
何故かって?古代では獣人が迫害されていたから。
だから長い時間をかけて進化して、今に至る。
今ではほとんど無いけれど、国によっては差別もある。
獣人はとても強くて、人間にとっては脅威だから。
王国でも獣人を恐れる人間が大半だ。でも私は…
「…はじめまして、イグリット・ベックフォードです。
その…キーフォさんは、その…なんの動物さんですか…?」
人間は信じられないけど動物は好き。
獣人は動物ではないが、その耳は魅力的だ。
「(よかった…怖がっていない)俺は狐の獣人だよ」
ほら、とモフモフの尻尾を見せてくれた。触りたい。
「さ…触って、いいですか…?」
「うーん…獣人はね、尻尾や耳を触らせていいのは家族だけなんだ」
「ではお母様と結婚なさるキーフォさんはお父様ですね。問題ありませ…問題ないわ」
そう言うとお母様とキーフォさんは、目を限界まで見開いた。
目配せをして…同時にプッと吹き出して。
「ええ、そうよね。家族…よね」
「じゃあ仕方ない。はいどうぞ、イグリット」
やった。キーフォさんは私に背を向けて胡座をかいた。
モフモフ、モフい。私もその場に座り、両手でモフを堪能した。
「こんなにあっさり受け入れられるとは」
「私も驚きだわ。この子は何か…心に深い傷を負っているみたいだから…」
「うん…これからは、君もイグリットも俺が守るよ」
「……はい」
モフモフ、モフモフ。
猫のように尻尾にじゃれつきながら、過去に聞いた話を思い出す。
回帰前、ベックフォードのお祖父様が言っていた。
昔、お母様に思いを寄せた男性がいた。
だけどお母様には婚約者がいて…諦めて帰って行ったのだと。
王国より遠く離れた島国、そこがキーフォさんの国。
島民のほとんどは獣人だとか。
キーフォさんは10数年前、王国の寄宿学校に交換留学という形で来たらしい。
お母様とはそこで出会った。
離婚したお母様は彼を受け入れ、王国を出た。
その後とても幸せに暮らした…とお祖父様は言っていた。だから絶対、この人は信じられる。ついででいいから、私もこの国から出して欲しい。
「獣人はね、1度しか恋をしないんだ」
「え…じゃあずっと、お母様を想っていたの…?」
「そうだよ。だから生涯独身のつもりだったけど…王国の友人から、イリアが離婚したと報せが届いてね。
居ても立っても居られず、飛び出してしまった」
はは、と笑うキーフォさん…お父様。
でも…恋を1度ってピンとこない。
「うーん…お子様にはちょっと早いかな?」
「お子様じゃないわ。私は子作りの原理も知っています」
「「なんで!?」」
両親は絶叫した。理由は答えらません。
お母様は真っ赤だし、お父様も若干染まっている。
「もう…こほん。
人間は恋をして、実らなくても…また恋をするだろう?同時に複数の人を愛することもある。それを否定する気はないよ、当事者が納得できるなら。
ただ獣人はそれができない。本能で1人しか愛せないんだ」
お父様は恥ずかしげに笑った。それは…
「獣人は一途なんだね…素敵だわ」
私達も獣人だったら。あんな悲劇は起きなかった…?
「いや…俺は人間が羨ましい」
「え…なんで…?」
「…俺のように、相手が人間だと…すでに手遅れの場合もある。ちなみに獣人の相手は番と言うのが一般的だよ」
ふむ。ここで話を整理しよう。
お父様とお母様で例えて…
※父は獣人、母は人間。
※父は1度母を本気で愛してしまったから、他の女性を愛せなくなった。ついでに発情もしない。
※獣人の番からは、獣人にしか判らない『匂い』がするらしい。
※番がいる相手には決して愛が生まれない。出会った時すでに母からその匂いがしていたら、父は恋愛感情を抱かなかった。
※獣人同士なら死ぬまで互いしか見ていないけど…番が人間なら浮気される可能性はある。気性の荒い獣人だったら、浮気相手を殺すことも…
※互いに好意を抱いた状態で口付けを交わすことで、番となる。
※獣人同士で三角関係になってしまったら、先にキスした2人が結ばれる。
「キスをしていなければなんとか戻れるからね。
俺達は学生時代にキスをして…イリアはずっと前から俺の番なんだ。
当時は「最後の思い出」と言って、番の話は黙っていたけど。
それを後悔してはいないけど…呪いのようにも感じるよ」
呪い…お父様の気持ちも分かるけど。
でもやっぱり私は羨ましい。
「獣人なら、絶対に番を裏切らないんでしょう?
それはとても誠実に思えるよ」
「……そうかな?」
「うん。私はそう思う」
「…そっか」
互いに無いものねだりなんだろうけど。
私もいつか結婚するなら、獣人とがいいなあ…
お父様は精神が欠如した私も受け入れ、島に行こうと言ってくれた。
メンバーはお母様と侍女、私とエマ。
生まれ育った、忌まわしい王国からようやく解放される。
「テオフィル達に、お手紙は出さないの?」
「うん、いいの」
お母様はそれ以上何も言わない。
伯爵家には、私宛ての手紙は全て破棄するようお願いした。ただ1人、ユリシーズを除いて。
「わあ…」
初めて見る海…水なのに本当に青いんだ…
船が出るまで、エマと一緒に波打ち際で遊んだ。半ば強引に誘われたんだけど…すごく楽しい。
「あ!お嬢様、今ちょっと笑いましたね!」
「え…そう…?」
「はい!ちなみにキーフォ様をモフってる時も笑ってます!」
「そうだったの?」
回帰してすぐは、こんな風に喜怒哀楽は出なかったけれど。
最近少しずつ、戻ってきた気がする。
「おーいイグリット、エマ!そろそろ戻っておいでー!」
「「はーい」」
遠くから手を振るお父様…隣で微笑むお母様。
残念ながらお父様はお耳を隠して、人間の姿をしているけど…幸せな家族に見えるだろう。
正直まだ、ふと「よし、死ぬか」と思う時もある。
けど…もう少し、頑張って生きてみたいなぁ…