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第六章

「それ以上近づいたら、刺すよ」東藤さんの声色は落ち着いていたが、その語気には冷淡な迫力が感じられる。

 凶器を向けられて面食らったのか、男は伸ばしていた手を引っ込めて、静かに後ずさった。金髪の女は、男の背中に隠れて、どんぐりに似た小さな瞳に不安の色を滲ませている。部屋の空気が、ピアノ線のように張り詰める。室内に差し込む太陽光を受けて、ナイフの刃が光を放った。僕は呼吸をするのも忘れて、向かい合う三人の姿を見守っていた。

 だが、体重を少し前にかけて身を乗り出したとき、二階の床がみしりと嫌な音を立てた。これはまずい、と思った時にはもう遅かった。膝をついていた床が積木細工のように崩れ、身体が宙に浮き、天地がひっくり返った。カメラを(かば)うために胎児のような体勢になった僕は、途中で半回転しながら、盛大に尻もちをついた。

「うわあ!」

 床に身体を打ち付けた瞬間、僕は男の素っ頓狂な声を聞いた。打った尻の痛みに苦悶(くもん)しながら上体を起こすと、玄関に向けて駆けだしていく男女の背中が見えた。

「大丈夫?」膝に手をついて少し屈みながら、東藤さんがこちらに声をかけた。「君は確か、小西君だよね?」

「そうです」立ち上がりながら僕は言う。「突然すみません」

「ううん、助かったよ。ちょっと驚いたけどね」

 ナイフをポケットにしまいながら、東藤さんが言う。ナイフを折りたたむ彼女の手が、かすかに震えていることに僕は気が付く。表面上は冷静に見えたが、彼女は恐怖心を押さえつけて、気丈に振る舞っていたのかもしれない。

「二階で撮影をしていたら、さっきの二人が来たんです。それで出るに出られなくなってしまって……」

「彼らの色事を覗いていたわけだ」

「誤解です、そんなつもりはなかったんだ」下心を見透かされたような気がして、言い訳がましい早口になる。「東藤さんこそ、どうしてここに?」

「それは……」東藤さんが言いよどむ。「ちょっと、休憩をしに来たんだよ」

「なるほど」曖昧な彼女の返事に僕は頷く。「以前、東藤さんがここで電話で話をしていましたよね」

「そうだっけ、あまり覚えてないな」彼女は腕を組んだまま、はぐらかすような口調で言う。

「堆肥葬」

 一語ずつ包むような口調で言うと、僕は東藤さんの顔をじっと見つめた。冷淡な彼女の視線がわずかに泳ぐ。

「電話のやり取りの中で、聞き慣れない単語を東藤さんが口にしていて……それが堆肥葬という言葉だったんですよね」

 東藤さんは口を固く閉じたまま、外を見つめている。僕は一呼吸分だけ開けてから話し始める。

「家に帰ってから堆肥葬について調べたんですが、火葬や土葬とも違う葬送のやり方らしいですね。(ひつぎ)みたいな容器に遺体を収容して、そこに……」

「木材チップを敷き詰める」僕の話に割り込むような形で彼女が言う。「微生物の増殖を促すためにね。遺体は分子レベルに分解されて、だいたい三十日くらいで立派な堆肥になる。原理としては、落ち葉や生ごみが土に還るのと同じだよ」

 東藤さんが話し終えると、お互いに無言の時間が流れた。彼女は押し黙ったまま、耳にかかる髪を掻き上げた。形のいい小振りの耳が見える。何気ない動作にしては、挑発的だった。僕の言葉を待っている合図にも思える。沈黙を裂くように、遠くの木立から、があがあというカラスのしわがれた鳴き声がした。

「東藤さんは、何者なんですか?」

「ごく普通の大学院生だよ」

 含みのある言い方で僕の問いに答えると、東藤さんは男が蹴飛ばした椅子を元の位置に戻して、腰を下ろした。そして他の空いている椅子に座るよう、目だけで僕に促す。僕は椅子に座り、カメラを仕舞ったリュックを膝の上に置く。僕と東藤さんは部屋の中央で向かい合うような姿勢になる。

「小西君」東藤さんが言葉を投げかける。「暴漢から助けてもらったお礼も兼ねて、君の質問に可能な限り答えるね。君は口が堅そうだから、誰かに秘密を広めるような真似はしなさそうだし」

 僕が黙って頷くと、東藤さんはありがとうと小声で呟いた。僕は咳ばらいを一つして、姿勢を正した。

「この廃墟に来ている目的はなんですか?」休憩以外で、と慌てて付け加える。

「端的に言うと、遺体の回収だね」

 半ば予想していた回答だったが、理解をするのに若干の時間を要した。みぞおちの辺りがじんわりと冷えていく感覚がある。

「遺体の回収ですか……」彼女の言葉を繰り返す。

「あまり驚いている様子はないね」

「薄々、そんな気はしていましたから」

「第六感ってやつなのかな」

「そうかもしれない」彼女の方に改めて向き直る。「あの日の帰り際に、僕が東藤さんに尋ねたこと、覚えていますか?」

「もちろん覚えてるよ。死の気配がするってやつ……」

「あの時、僕はてっきり東藤さん自身が死に至ると思っていたんですけど……今思えば、あれは東藤さんが亡くなった人にたくさん関わっているから、そういう気配を感じたのかもしれない」

「なるほどね……確かに、一般人よりも遺体に触れる機会は多いからなあ」

「それに、この廃墟は自殺の名所でもあるし……」部屋の天井から吊り下がる金具に目をやる。

「だから私と会ったとき、すぐに自殺志願者だと思ったんだ」

「あの時は、自殺の現場に足を踏み入れたのかと思いました」膝の上のリュックに視線を這わせ、僕は言う。「回収した遺体は、大学の研究や実験に使われるんですか?」

「ご名答」控えめに微笑みながら東藤さんが言う。「よくわかったね」

「土に関する研究をしていると、東藤さんが話していたから……」

「土壌学研究室。うちの大学の理学部にあるんだ」

「実験って、どんなことをするんですか?」器具を使って遺体の解剖をする彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

「基本的には、堆肥作りに適した遺体の処理方法を探ることかな」事務的な口調で彼女が言う。「私が目指しているのは、堆肥葬の早期実用化だからね。処理の組み合わせを色々と試す必要があるんだ。容器の中の適正な温度――木材チップと一緒に入れる(わら)の種類――送り込む酸素の濃度――実験は繰り返し行う必要があるし、そのためには定期的に遺体を確保しなくちゃいけないの」

 ここは自殺の名所であり、周囲から隔離された場所だ。定期的な遺体の回収には最適な土地なのだろう。

「法律的にはどうなんですか?」率直な疑問を彼女に投げかける。「死体って勝手に弄ったら罰せられるんじゃ……」

「どうだろうねえ」あっけらかんとした様子で彼女が言う。「刑法だと死体の損壊や遺棄は罪に当たるけど……私たちは遺体を寝かせているだけで、損壊はしてないからなあ。後者に関しては、むしろ遺棄されていたものを拾っているし、法には触れないんじゃないかな」

 そんなものなのだろうか。倫理的にはあまり許された行為ではないと思うが、彼女の飄々とした物言いには妙な説得力があった。

「そういえば、君と先週ここで会ったじゃない? その前の日にここで遺体を回収しておいたんだ。後片付けに来たら、君と出会ったってわけ」

「じゃあ、あの時切っていたロープは……」

「首吊りに使われていたロープだね」さも当然だという感じの口調で彼女は言う。「ちなみに、遺体は建物の中にあったんだけど……どこだかわかる?」

 彼女に言われて最初に思いついたのは、足を踏み入れなかった二階部分だ。だが彼女があの不安定な階段を使い、大の大人を運ぶのは無理がある。ゆっくりと辺りを見渡し、ふと入口近くにあった浴場の存在に思い当たった。

「ひょっとして、浴室の中にあったとか?」

「好い線をいってるね」右手の人差し指を上げて、彼女は言う。「部屋の中にスーツケースが置いてあったでしょう? あれに入れてあったの。本当はあの日、スーツケースを車に積んで大学まで持ち帰る予定だったんだけど……」

「僕がいたから、回収ができなかった」

「そういうこと」足を組みなおしながら、彼女が言う。「君を駅まで送った後、ちゃんと回収してきたよ」

 一陣の風が吹き、過ぎ去った時間の残滓(ざんし)のような枯れ葉が、建物の外から足元に流れ込んでくる。床上を転がる枯れ葉を見ながら、僕は彼女の話を反芻する。

 遺体の入ったスーツケースと同じ空間にいた――その事実を突きつけられても、僕の中に恐怖心は湧いてこなかった。それよりも、彼女が遺体をどのように回収して、スーツケースに詰め込んだのか、その過程に興味があった。

「ごめん、最後の話は蛇足だったかも」頭を振って彼女が言う。「私がやっていることは、高校生の君には少しばかり刺激が強いからね」

「いえ、大丈夫です」

 僕は素直に答える。そして腕時計に視線を向けて、もう塾に行く時間が差し迫っていることに気が付く。

「あの、東藤さん」椅子から立ち上がり、リュックを背負い直しながら話しかける。「僕、実はこの後塾の予定が入っていまして……」

「あら、そうなんだ」細い眉を下げて彼女は言う。「駅まで送っていこうか?」

「いいえ、一人で帰ります。ちょっと考えたいこともあるので」

「そっか」

「それじゃあ、またどこかで」

 僕は東藤さんに背を向けて、ブラックハウスから立ち去ろうと歩き出した。

「ねえ、小西君」数歩進んだところで、東藤さんに声をかけられた。「一週間前にも言ったけど、やっぱり君はここには来るべきじゃないよ。ここに頻繁に訪れるようになったら、またさっきみたいな危ない目に遭うかもしれない。それに私と違って、あなたは一般的な高校三年生の少年なの。しかも高校三年生というのは、大抵の場合、心のバランスがとても不安定なのよ」

「わかっています」首だけ後ろを振り向いて、僕は言う。「でも、僕が意地っ張りな性格なことは、東藤さんも知ってますよね?」

 それだけ言い残すと、僕は背中に刺さる彼女の視線を無視しながら、廃墟を後にした。外に出て、秋の冷ややかな空気を鼻腔(びこう)いっぱいに吸い込むと、頭の中を埋めていた(もや)が徐々に晴れていくのがわかる。

 長いトンネルを歩きながら、僕は自分の中で決意の火種が生まれていることに気づいた。その決意の火は徐々に勢いを増し、僕の心を内から熱くさせた。握りしめる拳の中が汗ばむのを感じる。

 トンネルを抜けると、僕は神社前の停留所でバスを待った。時刻表によると、バスが来るまでにはまだ時間がありそうだ。僕は携帯電話を取り出して、母親に電話をかけた。この時間帯なら、母親は今頃自宅にいるはずだ。

 着信音が三回鳴ったとき、もしもしという母親の声がした。一度咳ばらいをしてから喋り始める。

「もしもし、今時間空いてる? ちょっと受験のことで話があるんだけど……」

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