第五章
東藤さんと出会った日から一週間後、僕は再びN駅のホームに降り立った。ホームの花壇に咲いていたコスモスは萎れていて、花弁の先端は縮れた和紙のようになっていた。僕はカメラのシャッターを切り、首を垂れるコスモスの写真を撮った。
駅を出て天を仰ぐと、丹念に磨かれた窓ガラスのように澄んだ空が広がっていた。時々、秋の冷たい風が吹いて、駅前の並木の枝葉を揺らす。僕はポケットに両手を突っ込んだまま駅前の蕎麦屋に向かい、昼食を簡単に済ませた。そして停留所でバスに乗り込み、神社前で下車し、廃墟へと続くトンネルへ向かう。先週と同じ行動を取るのは、そうすることで東藤さんと再び邂逅できるのではないかと、心のどこかで思っていたからかもしれない。
トンネルを抜けると、以前見た時と違わない風景があった。鬱蒼とした木々の中にあるブラックハウスは、周囲の風景に溶け込まないまま異質な存在感を放っている。廃墟の前にライトバンの姿はなく、落葉したケヤキの木が青空に向けて枝を伸ばしていた。
廃墟の中は真夜中の図書館のように静かだった。外から吹き込んできた落ち葉があちこちにあり、床を踏みしめるたびに、枯れ葉を砕く小気味いい音が足元からする。一週間前に来たときとあまり変化はないが、床に落ちていた黒いスーツケースの姿はなかった。誰かが持ち去ってしまったのだろうか。
僕はカメラを構えると、室内で写真を撮り始める。以前は曇り空の下での撮影だったが、今回は雲一つない晴天だ。ぽっかりと空いた窓枠から陽光が差し込み、その明るさが廃墟内のうら寂しさをより際立たせていた。
一階の撮影を一頻り終えてから、僕は玄関を出て建物の裏手に回った。東藤さんが言っていた通り、そこには錆びついた鉄製の階段が備え付けられていた。踏板に足をかけて上ると、ごうんと尾を引くような鈍い音を立てた。踏み抜いてしまう恐怖はあったが、好奇心が勝った。手すりに捕まりながら、なるべく慎重な足取りで階段を上った。
二階に上がると黴っぽい臭いが鼻についた。部屋の内装は質素で、東側の壁際に木製の椅子とテーブルがあり、その反対側に畳まれたブルーシートがあるだけだ。部屋の中央の辺りの床には穴が空き、一階のリビングが覗き見える。
この部屋で最も目を引くのは、ガラスのない窓枠に取り付けられた鉄格子だ。鉄の部分がすっかり錆びついているこの鉄格子は、部屋の南側と西側の窓にそれぞれはめ込まれている。辺りを穏やかな自然に囲まれた、洒落た建物の飾りとしては、いささか場違いだ。
僕はこの廃墟の主の娘に関する噂を思い出した。この重々しい鉄格子を見たら、例のオカルトチックな噂――家主の娘が精神病を患っているとか、悪魔に取りつかれているとか――が立つのも頷ける気がした。こうした奇妙さが見る者の想像をかき立て、話に尾ひれが付くのだろう。この噂にかこつけて、自殺や無理心中をしにくる輩がいるという話を、インターネットの情報で目にしたことがある。
僕はカメラを鉄格子の方に向ける。鉄格子越しに見える遠方の景色を画角に収め、シャッターを切る。重厚な鉄格子と長閑な風景のコントラストに、得も言われぬ哀愁を感じて、僕は内心でほくそ笑む。
写真を数枚撮影してから、僕は腕時計に目をやる。時刻は十三時半を少し過ぎたところだった。今日は夕方の五時から塾に行く予定があるので、あまり長居はできない。もうしばらく撮影を続けたら、切り上げて帰るとしよう。
再びカメラを構えようとしたとき、下方から人の気配がした。思わず息を潜めて、その場にしゃがみ込む。
「ふうん……まさに廃墟って感じの建物だな」ざらついた男の声。
「ねえ、本当にこんなところでするの?」鼻にかかる女の声。「埃っぽいし、服が汚れちゃいそうだよ」
「いいだろ、たまにはこういう開放的な場所でするのも」下品な笑いを語尾に滲ませて男が言う。
僕はじっとしたまま、崩れた床の隙間から下の様子を伺う。男はワックスで固めた茶髪で、サイズの大きな黒のジャンパーを着ている。女は肩甲骨の辺りまで伸ばした金髪で、冬にもかかわらず丈の短いスカートを履いている。彼らの髪色や話しぶりから、二十歳前後の若者だろうと推測した。
廃墟で人と出くわすのは珍しいことではない。廃墟に訪れる人の目的は様々だが、その大半は廃墟の持つ魅力に惹かれて足を踏み入れるのだと僕は思っている。しかし、この二人からはそういった真摯な様子は伺えない。着ている服も、近所のコンビニエンスストアに立ち寄るような軽い印象を受ける。
男女は横並びで立ったまま、何やら言葉を交わしている。次第に言葉数が少なくなり、互いに見つめ合う時間が増えてきた。やがて男が女を部屋の中央の椅子に座らせて背後に回り、女の耳元で二言三言囁いた。何を話しているのか気にかけていると、突然男が女の顎に手を添えて振り向かせ、唇を合わせた。
二人の口元から飴をしゃぶるような、湿っぽい水音が聞こえる。女の手が空中を掻くような動きをして、男の手がそれを掴み、指と指を絡める。耳元を掠める風の音と、女の口から漏れ出る吐息が耳の奥で溶け合い、粘膜のように僕の聴覚に絡みつく。
僕は声を押し殺して、二人の情事を盗み見る。唾を飲み込むと、その音が耳のすぐ裏で鳴っているみたいに大きく聞こえた。別にこそこそと覗き魔のような真似をする必要はないのだが、下手に動いて物音を立てるわけにもいかず、身動きが取れなくなってしまったのだ。
「お楽しみのところごめんなさいね」
暗闇の中で急に火を見せられたような驚き。金髪の女とは別の女性の声が、玄関の方から聞こえた。
「なんだ、お前は」
突然の闖入者に、男が女から手を離し、たたらを踏むように後ろに下がった。金髪の女も椅子から立ち上がり、口元の唾液を手の甲で拭き取る。
「少し探し物をね……」
ぶっきらぼうに女は言った。廃墟内を闊歩する女の靴が落ち葉を踏み、耳当たりの良い音を立てる。
女の声色には聞き覚えがあった。落ち着いて聡明そうな声のトーン。少し身を乗り出して下を見ると、ショートボブの髪が見えた。間違いなく東藤さんだ。
「何してるんだ、あんた」男が言葉を放つ。
「今日は収穫なしか……」男の問いかけに反応を示さないまま、東藤さんが呟く。「それじゃあ、後はお好きにどうぞ」
東藤さんは二人の方をちらりと見やって、玄関の方へ歩き出した。
「おい、ちょっと待てよ」東藤さんの背中にぶつけるような口調で、男が声を張り上げる。「こっちは雰囲気を台無しにされたんだ。詫びの言葉の一つもないのか?」
「謝る義理はないわ」男に背を向けたまま、東藤さんが言う。
東藤さんが話し終えた刹那、空気が荒々しく裂ける音がした。金髪の女が身をすくめ、小さな悲鳴を上げる。男が傍らにあった椅子を蹴飛ばしたのだ。椅子は部屋の壁にぶつかって倒れ、辺りに木片が散乱した。東藤さんは足を止めて、ポケットに片手を突っ込んだまま静止している。
「舐めやがって……」男が声を尖らせて言う。
助けに向かった方がいいのだろうか。床に這うような体勢のまま逡巡していると、男が数歩踏み出して、東藤さんの肩に手を伸ばした。肩に手がかかりそうになった瞬間、東藤さんは俊敏な動作で振り向いた。彼女の手には刃の出たナイフ――以前、僕の前でロープを切ったときのもの――が握られていた。




