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第四章

 カメラをリュックに入れて、僕は彼女と共に玄関へ歩き出す。雨はすっかり小降りになり、ハープの弦のような細い粒を落とすだけになっていた。風が吹くと、樹木の葉が水滴を散らし、跳ねた水が地面に落ちる。雨に濡れた景色は重みを増し、草木も地面も雲も色濃く見えた。

「車まで走るよ」彼女はそう言って駆けだした。僕も彼女の背中を追うように走り出す。ぬかるんだ地面に足を取られないように注意を払いつつ、懸命に足を動かす。雨が顔に降りかかり、頬を濡らしていく。車まで辿り着くと、僕は助手席に、彼女は運転席に乗り込んだ。

 ライトバンの中は閑散としていた。車を頻繁に使用するという東藤さんの言葉とは裏腹に、生活の気配が感じられるような物は車内にはなかった。座席のシートの下に消臭剤が二つあり、床には汚れた土の跡が見て取れた。

「使いますか?」リュックの中からタオルを取り出して僕は言う。「まだ使っていない、綺麗なタオルなので安心してください」

「ありがとう、助かるよ」

 彼女はそう言ってタオルを受け取った。彼女の髪や衣服に付いた雨の雫が拭き取られていく。水滴をあらかた拭き終えると、彼女はタオルを僕に手渡し、ワイパーのレバーを弄った。レバーを触る彼女の指は細くしなやかで、その動きは神秘的な力を宿す白い蛇を思わせた。

「じゃあ出発するね」

 ライトバンはゆったりとした速度で進み始めた。小雨がフロントガラスを打ち、ワイパーがタンッ、タンッ、という単調な音と共に水滴を拭い去っていく。タイヤが砂利道を踏みしめて、(わだち)に溜まった水を跳ねる音が聞こえる。

 何度もブラックハウスを訪れたことがあると言っていたとおり、彼女の運転は上手だった。舗装されていない道でも、適切な速度でハンドルを捌き、アクセルの踏み込みを調整した。彼女は口を真一文字に結んで運転に集中している。幅の狭いトンネルを抜けて広い通りに出ると、彼女はふうと一息ついた。

「小西君は、あの廃墟にまた来る予定はあるの?」道路の先を見つめたまま彼女は言う。

「あります」僕はきっぱりと答える。天気の良い日があれば、また訪れるつもりだ。

「そっか。悪いことは言わないから、あそこにはあまり行かないほうがいいよ」

「どうしてですか?」

「あの場所は色々と危ない場所だからよ」色々と、の部分を強調して彼女は言う。

「危ない?」

「例えば、ガラの悪い連中に絡まれたり、凄惨(せいさん)な事件に巻き込まれるかもしれない」

「全て承知の上です」

 廃墟が不良の溜まり場や事件の現場になる事例は、多々見かける。僕がなるべく昼間に廃墟を訪れるのは、その手の事件になるべく巻き込まれないようにするためだ。

 彼女の射貫くような視線が、僕のこめかみの辺りを刺すのがわかる。僕はその視線をあえて無視し、口を固く結ぶ。そのうち彼女はため息をつくと、前髪を軽く手で払った。

「君って案外、強情なのね……」呆れたような口調で彼女が言う。

「東藤さんこそ大丈夫なんですか、そんな危険な場所に行って」

「あら、心配してくれてるの?」事も無げに彼女は言った。「平気だよ。いざという時のために武器もあるしね」

「武器って……もしかして、あのナイフですか?」ナイフでロープを切断していた、彼女の姿を思い出した。

「そうだよ。幸い、あのナイフが誰かを傷つけたことはまだないんだけどね」

「そんな機会はできれば来ないほうがいいですね」

「それについては私も同感だよ」

 彼女はウインカーを出して、穏やかな速度で交差点を曲がる。雨はすっかり降り止んでいて、千切れた雲が空に浮かび、赤いガラス玉のような夕日が遠方の山に接近していた。

「東藤さんは、どうして土に関する学部に入ったんですか?」

「入った理由かあ」呟いてからたっぷりと間が開く。「一番の理由は、ドソウに興味があったからかな」

「ドソウ?」僕は聞き返す。

「土葬。土に埋める埋葬のことね」赤信号になって車が停まる。「私が昔、犬を飼っていた話はしたっけ」

「言ってましたね。確かゴールデンレトリバーを飼っていたって……」

「私が小学生の時にその子が死んじゃってね。近くの斎場で火葬してもらったんだけど、子どもながらに考えたの。『どうして日本では土葬じゃなくて火葬が一般的なんだろう』って。私、死んだ生き物は皆、土に埋めるものだと思ってたからさ。それで土葬について調べているうちに、土そのものに興味を持ったんだ」

「土葬がきっかけなんですね」膝の上に置いたリュックを抱え込んで僕は言う。

「変わってるでしょ」

「風変りだな、とは思います」

「君は君で、面白い言い方をするね」

 東藤さんは軽く微笑んだ。そして信号が青に切り変わると、パソコンの電源を落とすように、元の凛とした表情に戻る。彼女はそのまま車の運転に注力して、駅に向けてライトバンを走らせる。僕は黙ったまま、雨で濡れた窓ガラス越しに、流れていく景色を何ともなしに見つめる。街灯の明かりが道行く人々を(おぼろ)げに照らしている。低くうなるエンジン音が、二人の沈黙を埋めていく。

 駅に到着したのは午後五時過ぎだった。車は噴水広場の側に滑らかに停まった。駅前には学生や主婦の姿があり、活気づいている。もう少し日が暮れると、仕事を終えて帰路に就く会社員で混雑してくるだろう。

「気を付けて帰りなね」開いた運転席の窓から彼女が言う。

「今日はありがとうございました」会釈して僕は言葉を述べる。

「いえいえ」差し込む夕日が彼女を照らし、車内に長い影を落としている。「じゃあね、小西君。またどこかで」

 彼女は僕に向けてそう言うと、ハンドルに手を添えた。僕の心の奥底で、焦燥感が沸々と湧いてくるのがわかる。

「あの、東藤さん」緊張のせいか、声が少し掠れる。

「なに?」彼女が僕を見て答える。

「東藤さんは、急にこの世からいなくなったりしないですよね?」

 彼女の目が驚きで丸くなる。「どうしたの、突然?」

「失礼なことを訊いてるのは重々承知です。でも、東藤さんからそういう気配を感じていて……」

「そういう気配っていうのは、私が急に命を絶ったりしそうな、危うい気配がするってこと?」

「うまく言葉にできないんですが……」次に紡ぐべき言葉を頭の中で整理しつつ、僕は話し始める。「廃墟に行くと、僕はいつも『死の気配』を感じ取るんです。崩壊する建物や朽ちていく草木から漂う、その『死の気配』に触れるのが好きで、僕は廃墟に足を踏み入れたり、写真を撮ったりする。そして何となく、東藤さんからそれと似た気配を感じ取ったんです」

 一旦話すの止めて、僕は彼女の顔色をうかがう。彼女は真摯(しんし)な面持ちをこちらに向けたまま、僕の言葉を待っている。

「だから、もしかしたら東藤さんは死に向かっているんじゃないかな、と思ったんです。あくまで僕の勘だけど……とにかく、居ても立っても居られなくて、声をかけました」

 彼女と僕は見つめ合ったまま静止していた。まるでお互いの目を通して、相手の思考を読み取ろうと試みているみたいだった。湿気を含んだ冷ややかな風が吹き、僕の髪を揺らす。

「ねえ、小西君」彼女の瞳に真剣さを帯びた光が宿る。「心配してくれてありがとう。結論から言うと、私の人生計画には『自殺』というイベントは今のところ組みこまれてないよ。家族や友達だっているし、今やってる大学の実験も好きだし、将来やりたいこともあるしね」

「なら良かったです」胸を撫で下ろして僕は言う。「すみません、急に変なことを言って……」

「ううん、いいよ」彼女が目を細めて話す。「やっぱり、君はユニークな子だね」

 東藤さんはそう呟くと再び僕に手を振り、車の窓を閉めた。そして車を発進させて、大学の方へ向かっていった。僕は駅前で佇んだまま、遠ざかっていく車を目で追う。ライトバンが交差点を曲がって見えなくなると、駅前の喧騒(けんそう)が突然耳に付いた。没頭していた小説を読み終えて顔を上げたときのように、消失していた現実感が急に僕の周りに押し寄せてくる。リュックを背負い直すと、僕は駅の方に歩みを進めた。

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