第三章
雨のせいで室内は薄暗く、部屋の隅から闇が這い出てくる気配がする。僕はカメラのISO感度――フィルムが光を受ける能力の値――を上げて、部屋の撮影を始める。理想的な構図を探りながら移動して、ファインダーを覗き、感性の赴くままにシャッターを切っていく。
「二階にはどうやって行くんですか?」窓際で佇む彼女に僕は尋ねる。「玄関の近くにあった階段は、壊れてましたよね」
「外階段から上がるんだよ」こちらに向き直って彼女が言う。「裏手に回ると階段があるんだ。老朽化してるし、かなり錆びてるから、上るなら気を付けてね」
僕は頷いてから玄関の方へ向かう。雨は勢いを変えないまま、絶え間なく地面に降り注いでいる。外階段を利用するとなると、一旦雨が止むのを待つ必要がある。もしも一日中降るようなら、二階の撮影は諦めて、一階の撮影に留めるのがいいだろう。
僕は廃墟の中に戻り、しばらく撮影に没頭する。退廃していく建物が醸し出す哀愁を、可能な限りフィルムに収めようと努める。手ブレが生じないように、なるべく脇を締めて、慎重に撮影をする。タイプライターのタイピング音に似たシャッター音が、雨音に混ざって鳴る。
数十枚ほど写真を撮り終えると、僕はカメラを構える手を下ろして、ちらりと彼女の方を見る。彼女は相変わらず外を見つめたまま窓辺に立っている。窓枠に凭れる彼女の細い指先が、ピアノの旋律を奏でるみたいに時折動く。廃墟の中で佇む彼女の姿は、『物憂げな女性』という題名が付いて、そのまま額縁に入って飾れるほど背景に馴染んでいる。
僕は彼女を撮影したい衝動に駆られて、思わずカメラを構える。そして自分の中でそんな欲望が湧いてきた事実に戸惑う。僕は普段、風景や建物の写真を主に撮っていて、人物を写すことはほとんどない。それなのに、今僕は彼女を写真に収めたいと思っている。一体どんな風の吹き回しだろう? 僕は心の中で自問自答する。
だが、答えが見つかる前に彼女が口を開く。
「雨、止みそうもないね」独り言のように彼女が言う。
「そうですね」首から下がるカメラから手を離して、僕は答える。
「君、名前はなんていうの?」僕の方へ振り返り、彼女が訊く。
「小西和明です。お姉さんの名前は?」
「東藤祐美」教科書を読むような平坦な口調で彼女が言う。「小西君は、どうやってここまで来たの?」
「電車とバスです。N駅から神社前までバスで向かって、そこで降りてからは徒歩で……」
「ふうん。じゃあ小西君が気の済むまで撮影をしたら、車で駅まで送るよ」
「本当ですか? 助かります」僕は素直に礼を言う。「車って、シルバーのライトバンですか? 木の下に停まっていた……」
「そうだよ」
「東藤さんがあの車に乗っているのは、少し意外ですね」彼女の醸し出す雰囲気とライトバンの無骨なデザインは、ミスマッチな印象を受ける。
「あれは大学の共有車なの」椅子の上を手で払い、そこに彼女が座って足を組んだ。「いつも大学の総務課に届けを出して、貸してもらってるの。だから私の所有車じゃないんだ」
「休憩のために、わざわざ借りてるんですか?」言葉尻にわざと不信感を滲ませて喋る。
「そう、わざわざ借りてるの」僕に向けられていた彼女の視線が少し揺らぎ、組まれた足のつま先の辺りに向かう。「他に使う人もいないから、有難く使ってるんだ」
彼女の言葉に僕は頷き、自分のカメラを一瞥する。そして一呼吸分開けてから彼女に向き直る。
「あの、東藤さん」
「何?」
「お願いが一つあるんですけど、いいですか?」
「お願いの内容に依るけど、いいよ」
「東藤さんを撮影したいんです」
「私?」彼女は二、三回素早く瞬きをした。「別に構わないけど……被写体としては力不足だと思うよ、私は」
「いえ、そんなことないです」語気がわずかに強くなる。
「ふうん」蠱惑的な笑みが、彼女の口元に浮かぶ。「じゃあ、お願いしようかな。椅子に座ったままの体勢でいい?」
「はい、そのままの姿勢で大丈夫です」
僕は片膝をついてファインダーを覗き込んだ。冷たくて硬い床の感触が膝頭に伝わる。椅子に座る彼女を中心に据えて、崩壊している壁面を背景にして、最適なアングルを探る。彼女は両手を膝に乗せ、軽く顎を引き、微笑んでいる。それは風に散る桜の花弁みたいな儚げな微笑みだ。僕の首から上が、緊張と興奮で熱を帯びていくのがわかる。僕は深呼吸をして、カメラを持つ手に神経を集中させる。そして息を殺してシャッターを切る。その瞬間、全ての物音が消えて、時間が静止したような感覚に襲われる。
「どう、上手く撮れた?」背筋をぴんと伸ばしたまま、彼女が僕に尋ねる。
「はい、ばっちりです」カメラの液晶モニターを見ながら僕は言う。「確認しますか?」
「もちろん」
彼女は立ち上がってこちらに歩み寄り、僕の肩越しに液晶モニターを見つめる。洗ったばかりの陶器のような、仄白い彼女の横顔が、僕の眼前にある。
「へえ、よく撮れてるわね」
「普段あまり人を撮らないから、緊張しました……」
「そうなんだ。いつもは廃墟ばかり撮影してるの?」
僕は頷く。「廃墟以外には、町の風景や建物をよく撮ってます」
ふうん、と彼女が呟くと、携帯電話の着信音が鳴り響いた。彼女がジーンズのポケットを探り、携帯電話を取り出して液晶画面を見つめる。
「ごめん、ちょっと出るね」
彼女は僕に目配せをして、部屋の奥へ移動しながら電話に出た。こちらに背を向けたまま、何やら話し始める。密やかな話し声には、人の気を引く力がある。聞く気はないのに、自然と耳をそばだてていた。弱まりつつある断続的な雨音に紛れてしまい、話の内容は判然としないが、[タイヒソウ]という言葉だけが耳に入ってきた。
タイヒソウとは何だろう、と僕は思案する。どのような漢字を当てはめるのか、単語を区切る箇所はどこなのか、頭の中で考えてみるが、鶏小屋のように取っ散らかって、上手くまとまらない。
東藤さんは電話の相手と数分間喋った後、通話を切って僕の方に振り返った。
「小西君。悪いんだけど私、大学の方に戻らないといけなくなっちゃった」
「了解です」カメラの電源を落としながら僕は言う。「では僕も帰ります。写真も十分に撮れましたし……」
「それは良かった」そう言うと、彼女は足元に転がるスーツケースをちらりと見た。「じゃあ行こうか。雨脚も少し弱まってきたみたいだし」